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1足す1は病理のはじまり

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数学以前に算数落第生である筆者にしかいえない暴論

 

例えば宇宙の存在、これは真理だ。真理は純粋な存在であって、かつ人智を超えたところにある。そこには是非はない。
人は真理らしきものを認識すると獲得したくなる。中にはわりとすぐに答えらしきものに到達できるものもあり、それを最終の解だとキメツケるとすっかりそこに安心してしまう(たとえば超越者、神の存在、宗教なんかが、そうである)

 

ところがその安住の地には、実は誤謬や目くらましが隠されており、ときどきそれらがひずみのように噴出しては僕らを悩ませる。
真理自体は微動だにしないがしかし、その安易な解に伴う目くらましは、今のぼくたちの生を狭窄せしめている。

 

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その真理のひとつを例にとって考えてみよう。人間世界の間尺に合わせた一番ありふれたヤツを。
たとえば算数だ。1引く1はゼロとかの初歩計算。

 

問い「お皿の上にりんごが1つあります。その1つを食べてしまいました。さて残るのは?」
答え「お皿1枚」

 

これはクスッとおかしいし可愛いらしいが、実は圧倒的に「正しい」解のひとつである。
問いは同じで、以下に挙げるようなその他の答えもある。モチロン全部正解である。

 

「空気」
「リンゴの残り香」
「リンゴを食べた満足」
「ゼロ個」
「もっとたべたいわたし」

(こう列挙してゆくと、幼児の偉大さというものはただごとではない気がしてくるな)

 

こうした数々の返答のうちのひとつに、「ゼロ」という解があり、世の中ではそれが唯一の正解とされてみんな安心しきっている。中には「算数や数学は、答えがひとつしかないのが魅力」などと言う人もいる。ところがこのたったひとつのキメツケが、誤謬を生起せしめるのである。

 

その「正解」は、その他「不正解」を否定し、負かして、犠牲にし、むくろにした上で成り立っている。「正解」は、その他の、正解になり得たかもしれない「不正解」の土壌、養分の上に咲いてるものである。
不正解はおおむね無垢で、ピュアで、滋養に富み、他の養分にされることをいとわない尊さがある。
それに比すれば正解なぞ、不正解が養分を与え光合成させ、かろうじて芽を出し「光っているかのように見える」そんな苗でしかない。それが唯一の、世界共通了解としての「正解」というものの成り立ちなのだ。「純粋な客観性の象徴」とされている数学とて、数字が(創出だか発見したのだか知らないが)人為で生み出された経緯を持つ以上、その例外ではない。

 

そしてぼくは、正解にまつわるこうしたまっとうな方の認識こそ、公理として定着した真理周辺から生じる誤謬を越えるものであり、老若男女にとって、最優先に獲得すべき思想だと思う。

 

この「正解」が成り立っている世界観を、それに至る間違いも、紆余曲折も、障害も、試行錯誤や挫折も、すべての累積要素を丸ごと飲み込んで拠って立つのが、人間世界や宇宙や次元の様態である。つまり、いいかえればこれは、全体性の獲得である。

 

現代社会における諸悪の根源は、「正解」があたかもそれ単体で突出して孤立存在しているとみなすところにある。
そこでは正解に至る過程も背景も省略され、正解は根が切れて虚空に浮遊するものとして唯一絶対視され、真理の床の間に無考察に祭り上げられており、その他いっさいを省みない・受け付けもしない、という姿勢が保たれている。
部分のみに安住・固執し、結果だけを掴んでおきたい短絡的なこうした姿勢が、人の世の不幸のスタートなのである。

 


不幸の正体

 

こういった不幸を、日常のレベルでちょっと具体的に考えてみよう。すべて現象の裏側に潜んでいるものばかりだ。

 

高度情報化社会を達成して、ぼくらの生活にゆとりが生じたか?
医学の発達によって無病社会が実現できたか?長寿社会で人はみな幸福になったか?
高速移動が可能になってあなたとの距離が縮まったか?
電話が発明されFAXが普及し、そののちにIT化が地球を覆って、SNSが発達したが相手の心情を想ったり、意思疎通を高めるヒトの能力は高まったか?

 

答えはすべて「NO」である。いやむしろ社会総体としては以前とくらべ、後退してるといってもいいほどだ。

 

確かに克服できたものはある。医学を例にとると天然痘という恐るべき感染症の撲滅はその代表格だろうし、外科の技術や薬の進歩など、享受できるものは、なるほどありがたい。

 

しかしそれを上回る新種の「何か」(うつ病やAIDS)が次々と出現し、周期怨嗟のごとく人を悩ませるのは、どうしたことだろう。2016年4月下旬現在、九州地方で急増してるというエコノミークラス症候群や生活不活発病なども(異様な環境下にあるとはいえ)、その社会的由来を考えるにつけ、そうしたものの類ではなかろうかと思えるのである。ここでは医療の発達が、新たな病の顕在と発病をうながすとすら、言えるのではないか。
おかげで大病院の待合室は今日も午前7時から患者でいっぱいであり、がんの罹患者は減らず、世間の医療費は増大する一方である。

 

医療をめぐる世の中のそうした光景は、医学の進歩が、非顕在病原の顕在化(=発見されなければ存在しないも同然な病気)を、わざわざ暴き立てているかのような不毛さの、ひとつの結果である。であるならば、例えば根絶出来たと考えられていたにも関わらず、不死鳥の如く現世に「復活」する疾患も、これから出てくると考えられる。もしかしたらもうすでにそうした「復活」が世界のどこかで進行しており、明日にでも世界で一人目の発病者が、出ないとも限らないのである。そしてそれは従来の治療法では治せない。病気の方でも進化を遂げるのだ。

 

「報復」の予感がする。病原菌などの、研究される対象からの、検証済みのレッテルを貼って疑いもせず落着してる人類への、しっぺ返しである。

 

医療を例に挙げたが、それ以外にもこうした構図(細部の高度化や問題の一時的解消・先延ばしに伴う、あらぬ方向からの新問題顕在化)は、先に疑問形で挙げたように、根本的な解決とは無縁な場所で、ずっと繰り返されている。解を追求し始めた途端、悪魔が降ってくる。なぜか?

 

ニーチェのいう「深淵」

 

それは真理に対して観察や研究、メカニズム微分といった対象化作業がよくないからである。真理だけではない。前にも書いたが、観察されるだけ、研究されるだけの受身の対象はこの世にないのである。そこに気づかぬものは、いくら研究しても対象にキリはなく、その果てしのない所業の中で、自分を慢性的に鈍化させていく無自覚な不幸に囚われるか、自覚的な空しさに囚われるか、対象と同化しすぎて発狂してしまうかの、いづれかの身となる(ニーチェは精神錯乱が元で死んでしまった)


真理はさきほど申したように丸ごと素直に摂取せねばならない。真理の研究対象化を始めるから、そのとたん真理はまず分裂し、真理の本体は無傷で保護され人にはその傀儡が与えられる。人は、その傀儡を相手にダンスを踊り、身勝手な構図に分解し、引き裂き、技術の介入を許す。

 

すると人はほどなくしてテクニックという名の「瑣末なもの」の発達に夢中になる。それを専門にする人ほど、夢中の度合いは高くなる。いくら研究者本人がまじめにやってるつもりでも、対象の傀儡を前にして手段に没頭するという、二重の目くらましの渦中で知らずに溺れている。その結果もたらされるものが誤謬という名の悪魔である。
そこでは、その研究がぼくらの生にどう影響するかということに関する、グランドデザイン思考が欠如している。

 

(これは独断だが、テレビなどで見かける研究者、権威ある専門家などの顔は、たいていがむくんだ、目の焦点の定まらぬ、ニヤケた面構えで、ろくなものではないと知れるのである)

 

かくして核兵器は地球を何度破壊しても可能なほどの物量に、何十年も前からなってしまったし、当初は高台の上に建設予定だった福島第一原発は、津波の危険性を過少評価し、わざわざ崖を削って、海抜10mの高さに建てられた。米国から運ばれてくる原子炉を、海から容易に陸揚げするためだけに。
そしてそのフクイチの末路は、皆さんご存知のとおりである。

 

第一次世界大戦に初めて投入された恐るべき兵器の一つに毒ガスがあるが、当時の列強各国はその生成技術を競い合ったという。結果、第一次大戦はその他の要因もあるが戦死者900万人以上という、一大ジェノサイド合戦となった。

 

このように技術や科学に「純粋に」没頭することは、やはり一種の安住なのであり、罪である。それはそれゆえに、人間の緩慢な自殺に直結する。この罪への無感覚こそが自分の首を占める。目的でなく手段への没頭は、これを戒めねばならない。分野はなんにせよ大目的は生きとし生けるものの生に寄与することであって、この大目的がゆめ忘れてはならない最上位の命題なのである。科学者や技術者に対する教科書は、過去のあまたある科学技術の厄災に関しその発生過程をつぶさに検証し、それに対する反省の弁から1ページ目を始めなくてはならない。

 

こうしてみてゆくと結果として、人の歴史は自己疎外の要因をみずから、それと気づかずにどんどん引き寄せている、その繰り返しである。
言い換えれば、先ほど申したように、真理への畏敬の念なしに、単なる研究客体、被検体として接し、措置の事後検証のなさ、総括の甘さ、無反省さといったものを通じて「復讐」を受けている。
観察し、研究してると人が思い込んでる対象が、実はめぐりめぐって人間を操作する。
ニーチェが著書「善悪の彼岸」で146番目に述べている「覗き覗かれる深淵」とは、このことではないだろうか。

 

人は、とりわけ観察のクセが付いてしまっている人は、世にひとつしかないと思い込んでる「1+1=2」式の真理を無批判に学習する。なるほど「1足す1は2」これは数学という人類英知のイチ分野における、燦然と輝く勝利の象徴であろう。

 

しかしそれだけでは視野狭窄というものであって、その真理を生育させ、輝かせる背後のものにまで想いを馳せねば円満ではない。これは月のように「照らされてる」輝きなのだ。
筆者は高等数学的な根拠など示せないが、みずから発光する「太陽」の本体は、「1足す1は2」を支える、そのほか諸々の「基盤」の方に、絶対に存する。

 

それがおとなの本当の立脚点である。そのことに、まず気づかねば。

 

見えない成立土壌があってこその「1+1=2」という謙虚さに、気づきもしないから、現代社会は皆が皆、競い合い、寄ってたかって忙しがり、日々進行する若さの喪失にため息をつきながら右往左往し、無いものねだりをする毎日なのだ。
人に必要なものは、忙しさの中にはない。それは悠久の中にしかないというのに。

 


気づいたら、次はひろめよう


ひるがえって、ぼくたちの立場、真理への向き合い方を考えてみる。

 

ぼくらにとってもう何が何でも必要なのは、繰り返しになるが1足す1は2という「正解」だけでなく、「1と1」に過ぎないという解その他も、いつも自分の中に準備しておくことだ。唯一解ではなく、重視すべきはむしろ過程である。過程の中にある間違いや疑問の蓄積にこそ、わずかだが進歩の鍵が含まれている。

 

つまり「1と1を足すことなんてホントはできない」とか「『足す』ってどういうことなんだろう?」「そもそも数字と自分のかかわりとは?」という解釈や疑念を持つこと。それが自分を、宇宙と同等の広さに解放する手がかりだ。

 

こうした複数の視座を内面に保つその多様性とゆとりが、目的をたがえないことに連なり、あなたを力強くしたり、キリっと屹立させる可能性になると、ぼくは思う。

 

逆に言えば、優雅な人、有能な人、全き人、そのほかポジティヴな形容がすべて当てはまるような人になりたかったら、さっきの「1と1」という答えその他をあざ笑ったり見下したりせず、そのすぐれて瑞々しい感受性に衝撃を受けねばならない。
自分にはないこうした発想を、むしろ素直に敬わなくてはいけない。

 

それでこそ自身も透徹した内実に結晶できる。その世界観の中でのみ、全員がもれなく有能である。あなたはそこで、いてもいなくてもいいような存在から脱却し、かけがえのない人に昇華できる。
それが関係性のひろがりの中で、目に見えない蓄積となって活きる。あなたはわたしになり、わたしはあなただ。

 

そうしてこうして何とか暮らしてゆく。自分が死んでも「蓄積」は継承される。
これが人の世界における本来の順番じゃないか。

 

自分ひとりでできることなんか、たかが知れている。でもその個人の不足さこそが、全体への道しるべになる。人は、全体という名の真理を、みんなで共有取得するために、個々生きている。生の意義は、これひとつしかない。技術や観察、手段や方法論はぜんぶ、寄り道にすぎない。わき道に足を惑わされてはならない。

 

まずは「不正解」を受け止めよう。自分と異なるものの受容から、話は始まる。

 

<了>