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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



むかしAKIRAという、マンガを超えたマンガがあった。

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AKIRA (漫画) - Wikipedia


AKIRAという大友克洋のコミックがあった。独自の世界観が圧巻の名作だ。

 

AKIRAの世界観。それは日本的な土着性、(陰湿な)伝統性、ムラ社会的な因循姑息な閉鎖性と、近代以降のカラカラにドライな科学至上主義、もしくは科学的なるものへの無批判礼賛主義の二項を対立させた世界を下敷きにし、その2大勢力の対立を、意思を持たない超越者、AKIRAの宇宙球体がすっぽり覆っている、というストーリー構造になっている。そこではネオトーキョーというのは、単なる舞台、素材だ。

 

2020年東京オリンピック開催を、週刊ヤングマガジン連載開始の1983年時点で予言し、チェルノブイリ事故に近似の現象を予見した。AKIRAはジャンル的には近未来SFであり、イメージ的にはサイバー系であるが、人智を超越した超能力を描いただけのたんなるSFではない。


ひとことでいうとそこで描かれた超能力めいたものは、人間の根源的なチカラのメタファーであり、AKIRAとは、なによりも人間を描いたヒューマンドラマであった。人間、もっと具体的にいえば、自分と他者の関係を、宇宙規模で描くというのが、大きなテーマである。


特にアキラ覚醒以降のストーリーに顕著なのだが、目くらましのように巨大な光の球が何度か現れ、そのたびに地上人は右往左往し、紛争もあって民衆が虫けらのように死んでいく描写が繰り返され、物語はシリアスで殺伐とした風景が基調になってしまう。


しかし、そこには生きる知恵がふんだんに封じ込められている。AKIRAとは、人生の優れた指南書なのである…この指摘が、この記事とそれに続くエントリーでのテーマである。


AKIRA以前に超越存在を描いたものとしては「2001年宇宙の旅」や、「童夢」など大友克洋の一連の旧作があったし、近未来描写は「ブレードランナー」やフィリップ・K・ディックの世界という「お手本」があった。荒廃した世界観は「マッドマックス2」や「幻魔大戦」、メビウスの影響があったが、何よりも「AKIRA」には本格ハードSFとしての重厚な世界観が横溢しており、一読してマンガというジャンルにはあだたぬ奴、という風格があったのである。


はじめて絵を見たときの、ダイナミックな構図には、コマから本から、絵の圧が飛び出してくるような迫力であった。

トメ画の迫真性は実写映画もかくや、と唸らせるものがあり、一方アクションシーンは息をもつかせぬ圧倒的な疾駆感で読み手に迫る。


細い書き込みひとつひとつに、そうでなければならない必然があり、逆に描写に迷いやゴマカシはなく、メカ設計、キャラ設定、話の運び、そのすべてにおいて破綻がない。作者の大友本人も、二度と超えられなさそうな巨大すぎる仕事であった。


見たこともないガジェットの数々。例えば大きくていかにも開発黎明期といったデザインのレーザー砲、フライングポッドや、炭団と呼ばれる自警ロボットといったメカニック。金田専用のあのバイク。


現実的なところと地続きになった、それでいていかにも実現できそうで出来ない、絵空事とは言い切れないメカの数々。すべてが独創的であるのは、私などが申し上げるまでもない。

 

カプセル(クスリ)やアーミー、暴走集団のビジュアルなどに随所に見受けられる、設定と絵の何気なくも、とんでもないクオリティー。かん口令や第7警報発令など、いかにも現実にありそうな法令業態措置といった、いろんなものが出てくるが、物語はあくまで本筋を追ってゆく。



すべての構図、絵、キャラクター設定、筋立てには、AKIKRAに限らず、作者の巧妙にして繊細な意図が隠されている。このブログは、そこを独断的に紐解くものである。

 

記事の内容は多少は流行のナゾ本めいてもいるが、たとえばSOLが何の略であるのか、とか、大佐の苗字は?などといったマニア的豆知識は、筆者が特に興味を持てないので書くつもりはなく、AKIRAを題材にした人生論めいたものになろう。それもこれも、つまりエンターテインメント、サイバーSFの衣をかりて人生を描くということこそが、作者の大友克洋の想定範疇だったであろうからだ。

 

途中になんども中断はあったものの、足かけ8年という長期に渡る連載。
世界中の商業刊行物の中でも最もハードな週刊連載という超ハイペース。
作画のクオリティもストーリーのテンションもいっさい落とすことなく、あとから読み直してもプロットに矛盾はなく、構成にも破綻がみられない。
この超弩級の巨大作に、最大限のリスペクトを捧げます。続く。

 

<了>