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「AKIRA」とは何だったのか

■破滅への序曲その1(*ネタばれ注意)

 

「根津がアキラ暗殺を狙ったとき使ったピストルは、どうして前世紀の遺物だったのか」

(根津とは、暗殺者の老人キャラ名です)

根津が使った銃はレミントン・ダブルデリンジャーという恐らくは1900年代前半のクラシカルな実在ピストルで、作中で描かれたとおり、手のひらにすっぽり収まるサイズである。


護身用として設計され、弾は2発しか込められず、射撃器具としては明らかに心もとない。


これで根津はアキラを狙って、おそらくは30mほどの距離から発砲した。


その直前のシークエンスで根津は1発発射してるので残弾は1発のみ。予備弾も不携帯だろう。
しかもこの老体は負傷の身であって、あれはまさに、乾坤一擲を狙ったわけだ。

 

無謀である。

 

同様の拳銃使用による、現実の暗殺を考えてみよう。


1865年のリンカーン大統領の暗殺や、1914年のサラエボ事件(オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻暗殺事件で、第一次世界大戦勃発のきっかけ)である。

 

いづれの暗殺者も至近距離、そう、殺す相手の息遣いまで聞こえるような距離まで近接して撃たれた。銃の性能がプリミティブでもあった時代だったろうから、殺害もほとんどナイフ使いのような感じだ。

 

この粗暴さは身の毛もよだつほどであり、いつの時代も暗殺という究極の状況は、錆びたのこぎりで首を少しづつ引いていく戦国時代の処刑のような、おそるべき残虐性を、暗殺実行者に要求する(はずだ)。

 

はずだ、と書いたのは、そうでない現象が今ではあるからで、それは例えばモニター越しの無人空爆や、スコープから覗いて後ろから撃つ狙撃者など、兵器の高度化(誰にも裁かれず、むしろ推奨される恐るべき進歩)に伴ったTV戦争の様子であり、撃たれた方の血も見えず、悲鳴も聞き取れず、掃き掃除のようにスマートに、一連の殺人はサッサと処理される兵隊のサラリーパーソン化や、友軍の人命を優先し、かつ破壊効率も重視した果ての「殺人任務の作業化」が、現代殺戮の現場である。

 

他方、その現代兵器の標的となる側のテロリストが使用する一般兵器は、その多くが長年の定評からすれば優秀であるらしいがやはり旧式であり、アナログであり、現代ハイテク装備とはまるで反対に、戦闘員の少なからぬ犠牲を前提にしている。


その究極が自爆作戦だろう。

 

この犠牲の象徴、まさに窮鼠猫を噛むの図式どおりのゲリラの具現こそが、根津の旧式拳銃に集約されていたのだった。

 

根津は悲惨であり道化である。ミヤコのバックアップがあったとてそれは冷淡なものであり、自前の武装組織を有していても一枚岩でなく、特に人望もなく外見もネズミ男のように醜く、根津は孤独な存在であった。

 

だから根津は博物館クラスのオールドスタイルな「ゴミみたいなテッポウ」で、たったひとりで老体にムチ打って、みずから木造アパートのスキマから撃つしかなかった。


物語が、この図式を、この武器を、要請した。

 

根津はその挙句、誤射した。本当は何を撃つべきだったのかにはついぞ盲目のまま絶命した。自分の射撃の結果、すなわち東京の2度目の崩壊をも、見届けることなく。

 

旧式拳銃のイチトリガーで、その後の数え切れない扼災の引き金を引いてしまったこの皮肉は、AKIRA全編の世界観の底流となる視線である。

 

物語後半にも、これに酷似したゴミテッポウ(SOL起動装置)が出てくるが、これも小さな災いを引き起こした。ここにも作者大友の「視線」が読み取れるだろう。つまり、火器や、それに類した武器を使う旧人類への下等的あわれみの視線である。

 

根津。それはあわれな中間権威者であり、近代の歴史における暗殺者の暗喩であり、かつまた、あとは野となれ山となれの象徴であった。

 

そしてもうひとつのif。もし根津が、アキラをしっかり射殺できていたら、どうなったか・・・?

 

<「破滅への序曲その1」・・・了>