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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



かたよって生きるということ。

右利き左利きとかの「利き」とは、なんだろうかと考えた時があった。少し考えて思いついたのは、「それは行動の起点である」ということだった。文でも絵でも何かを書くとか、向こうに移動するといった目的のためには、それぞれ、筆記用具を持つ、とか、走る、などの行動や運動を起こさねばならない。そしてそれらはぜんぶ利腕、利き足などできっかけやリズムをつかんでからでないとスタートできない。そう考えると、ぼくらは100%自発存在である。つまり、客観的な立ち位置からはいっさいスタートできない。人はそんな仕組みになっている。寝返りの方向みたいな、無意識の動作ですら、いや、無意識野だからこそ、そういう仕組みになっている。

 

またどうも「利き」があるのは人間だけでない気もする。犬が走るとき脚を動かす順番、植物がねじれながら生育する法則めいたもの、地球の自公回転に方向があるのも、天体が移動するのも、ぜんぶ何らかの「利き」が作用しているはずである。

 

利きがあると、全体はいびつになる。左右対称な体の人はいない。筋肉の付き方も、重心のかけかたも、利き腕や利き足のせいばかりでもなかろうが、人も動植物も、全部左右で違う。いびつになってでも獲得せねばならないのが利きサイドなのだろうと思う。そこには普遍が潜んでる気がする。宇宙の起源はたぶん利き、ひずみからの行動開始と、その自律経過だ。

 

スマホやタブレット端末などの液晶タッチパネルや、最近では非接触型の各種操作パネルも出てきてるようだが、ああいったデバイスは、どうもバカにされてるようで苦手である。それらは左右ほぼ対称のスマートデザインであり、利用者側の利き、すなわちある種の欠如や偏りにも対応する、合理性側からのひとつの解である。しかし何か冷たい感じを受けるのは、やはりそれらが客観的で第三者的なモノリスでしかなく、人がなにかをスタートさせる契機には、あまりに心もとないからだ。

 

僕はモノを投げる時だけ左腕で、あとは書くのも楽器弾くのも右利きです。矯正したわけでなく、幼少からこういう形で生きてます。このような「重心のスイッチング」みたいなのを常態として取り込んでることは、ぼくの人格を構成する要素に、かならずなってます。そしてあなたも例外なくそうであります。

 

人の世は、ともに暮らすとかホントの仕事をするなどといった、「ただやるだけのこと」しかないのであって、やるべきことはそうやって最初から用意されてるものにしかないのであって、人はそれに取り組むだけってのが素の状態です。しかし日々痛感しますがその「ただやるだけ」ってのがいかに難しいか。やる気を出すとか、生産性を上げるなんて、言われてみればトーゼンのことがよく喧伝されますが、それはエンジンがかかったあとの話であり、問題はそのエンジンを始動させること。それがそもそもの課題なんであります。その原初の部分をアシストするセルモーターが「利き」なんだろうとボサーっと考えてます。

 

ポール・マッカートニーは左利きのベーシスト/ミュージシャンとしてつとに有名ですが、多数派の右利きだったらあれほどの才能に恵まれていたかどうか、なんて思っちゃうね。

 

<了>