お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



今年から、1年は2年分カウントで1年と換算することにしたわ

今日は5月22日で、つまり5月下旬だ。

 

4日ほど前の18日あたりと違い、22日まで下れば、もう何人も否定できない、抗いようのない下旬様の完成である。あとは月末に向かって下旬様感は、自然に勝手に、熟成していくだけだ。

 

憶えておられるだろうか?ついこないだまでの5月ときたら上旬も上旬、上旬真っただ中で、「まだ3日とか4日、まだまだGWの合間さ」とかこっちは思ってその「若さ」に油断してたのに、あっという間に後続の中旬様とかに抜かれてしまった。といわけでいまや新緑の5月と言えど、すっかりたそがれシワがれ残され島である。そしてこれはどうも来月も再来月も同じあるらしいことまで、うっすら分かってる。残酷なことだ。

 

そう、残酷。1か月を上旬・中旬・下旬と3つに分けることは罪だ。1週間という期初単位が光陰矢の先鋒だ。西洋でも東洋でも暦は、これすべて人類史上最大の過ちである。時間の経過を実際以上に早く錯覚させるは、ぜんぶメフィストフェレスの所業だ。本当はこんなものに従わなくても、別にいいのである。

 

だいたい2017年だって相当なものだ。ぼくは1969年生まれだが、生誕後の過去48年間は、毎年毎年こうやって1年が過ぎていったのだ。この途方もない繰り返し。もうとっくに飽きて飽きてもう僕は空っぽだ。

 

対応策はすでに打ってある。僕は今年から、2年で1年とカウントする方式を正式に採用した。それによればいまは2016年後期とかである。気温も暑くなってきたがこれはジャンボなサマーの第2期、後期高温度期間のはじまり、長いシーズンの2巡目である、と、こう捉える。これなら例えば5年前もつい先日となるし、ぼくは24歳の若者である。脳科学者がのたまう「脳をだます」行為の実践である。われながら実に合理的な考えだ。

 

ただしひとつ問題がある。この考えも対処療法のワンノブでしかない、という致命的な欠陥だ。12か月を24でカウントしようが36カウントしようが、いすれにせよ年月のごまかし、すり替えであることに違いはないからだ。

 

じゃあどうするか。ここからが本題。

 

本当は、人も生物も植物も、すべては時間の外にある。この世界にあるのは時の「段差」だけだ。生物の中で人間は特にそうだが、体内に脳内に遺伝子に、すべての生物由来の「時の段差」を、すでに産まれた時から、いやそれ以前に受精時にすでに情報として蓄積している。人は生命の進化を全部自前で胎内で行う。で、産まれてからも情報を摂取してゆくが、同時に情報を捨てて常に空き容量をつくっている。以前はあれほど熱中していた趣味がある日を境に色あせて見えたり、セックスなどを自然としなくなっていったりするのは、そういう空き or 飽きである。勇気と誠意と身の程をわきまえた、ある種の撤退である。何からの撤退か?後から来る情報のための場所明け渡しである。そこには順序はあるが時間の出る幕はない。

 

考えても見てよ。時間で計測できるなにがしかで、ホントにじみじみと真実味のあるものなんか、この世になんにもないよ、緊急医療とかを除いては。「時間がもったいない」とかすぐに言いだす手合いに限って、時間の奴隷になってる分、蒙昧で醜いじゃない。この文を読んでくれる君に、つまりこの文字列とあなたの了解との合間に、旧来的な意味での時間が介入してくるスキが、少しでもあったかい?ライブでキリッと感覚に迫るものは、間接なしにぴたっと貼り付いてて時間を超越してるんだ。

 

(これはNHKのカルチャーラジオで数か月前に聴いたお話だが(リンクを貼ろうとしたが、削除になったのか見つからなかった)、ここ30年ほどの日本における子供の肉体的変化(身長、座高、頭部のハチなどの、計測可能な部位の平均値の向上)は、人類学者に言わせるとその顕著さと急激さといったら人類史上まれに見るほどスゴイ変化らしい。なるほど路上で見かける小学生などは、近年とみに西洋人によく似た手足族みたいな体格になっている。それでいて、学者にはその真因は分からないんだと。そうだろうな。数値で観測し、それをコレクションすること自体は研究ではなく、研究の真似事というか手段の構築でしかないからだ。問題も原因も、もっと上層にある。

ぼくが考える、子供の急激な肉体的変化の真因は、インターネットをはじめとした高度情報化社会の実現である。子供たちが情報を栄養にするようになれば、姿かたちはすぐに変化するのである)

 

つまりこの、人間にしかない情報の取捨能力、その一連の過程は、平たく言えば進化である。そしてそこだけが、人が暦に抗える唯一のポイントだ。1年をどうカウントしようがいづれ個体は必ず死滅する。しかし、時間の外にあるのはこのソウルフルでゴースト(©攻殻機動隊)な領域だけであり、そこでは進化はとまらない。いつまでもみずみずしく、生も死もない。

 

なんだか妄想からのでっかい話になっちゃった笑。暑いからだよLong Hot Summer。

 

<了>

ユルい仕事にイラつく前に読む文(後編)

前編からの続きです)

 

近視眼になってしまったのは、仕事も生活も細分化されたから

 

さて関係性が狭くなったといってもうひとつ思いつくのは、仕事の領域である。仕事が専門化・細分化されるにつれて、組織も肩書きもすいぶん細かくなった。第一~第五くらいまで営業部が分かれてて、その他に法人営業部なんかあったりして。役職も主任とか課長だけならまだしも、「代理」が付いたり、「マネージャー」みたいにどうとでも解釈できる役回りだったりして(社外の人にとって重要なのは、自分の担当が誰なのかだけだ)、セクションが無用なまでに分かれてることおびただしい。あまりに細かいので、大きなホテルとかだと、コンシェルジュなる総合案内役が、ひとつの確立された職能になってるくらいだ(そんなホテルにゃ縁が無いが)

 

で、細分化はねー、やっぱ良くないよ。役職のカテゴライズとは、組織への埋没助長でないの。全体を見渡す最適化能力は、担当全員が当事者意識として有しててしかるべきじゃないですか。『誰もが「自分ならどうする?」って視点で、経営者のつもりで仕事にあたってほしい』なんてよく言われるじゃない。そんなの分かってる人も多いだろうけどさ。

 

思えばここ半世紀のあいだ世間で進歩してきたのは、仕事本体に見えて実は「分業」という名の部分作業である。現代のいわゆる製造業など「製造」という名称が残ってるだけで、家電であれ自動車であれ自社一貫という意味においてはとうに製造業でないのはご承知の通り。あれは正確には製品コンセプトの企画屋、部品を調達したあとの組み立て業、およびアフターフォロー屋さんである(それはそれでいい部分もあるのだが)

 

現代の「仕事」とは、もともと家庭の中でおのおの(主に主婦が担当。実に大した仕事ぶりである)が、ひとりでなんとか完遂させてきた生活労働を、項目に分けて、個々に独立・分化して発展させてきたものだ。そうやって教育、福祉、子育て、食事、掃除に洗濯、運動に余暇活動…と世の「仕事のジャンル」は急速に派生してきて、時間や手間と引き換えに、金銭の介在があちこちでせっせとおこなわれてきた。

 

でもさ、目前のモンに主情的に応対し、細かく砕くのに一生懸命没頭するのは、ヒマ人のなすことですよ。

 

なぜそもそも人々は、仕事の分類化に没頭したか?それは一足飛びに言えば目の前の炊事なり掃除なりよりも、つまり生活の実体よりも、生活の外の方が魅力的に見えたからであろう。自分(地味な主観)とは別立て(という錯覚)のキラキラした客観に、テレビや雑誌などを通じて「こんなことやってる場合じゃない」「ここよりあたしが輝くべき場所が他にある」と目を奪われたからである。いいかえれば、ヌケヌケとした、堂々たる「不倫」への誘い。かくして「分野」は誕生し、細分化の一途をたどった。げに、不倫は分化である。

 

なるほど生活の外にあるキラキラ魔力は強力であった。あまりに強力だったため、別立ての自分(家庭外での賃労働に従事してるときの自分など)までもがそれに照らされ、強く、輝いた存在として錯覚できた。また世渡りが上手な人は、出世や昇給にじっさい結実した。

 

だけど月は太陽に照らされて光って見えるだけである。

 

裸のあなたは、ぼくと同じで月のようにちっぽけで、寒々しい存在だ。雑踏の中、むなしさに襲われてふと立ち止まるのは、魔力から解放されかけてる時だ。いつだって回帰点はすぐそこにある。

 

(女性の「社会進出」とやらが出来たのは、そうした「分野の増殖」というものが底流にあり、そして他ならぬ女性の家庭外労働がまた、一周回ってその一連の過程を補強してきた。実労働の面でも、給料の循環の意味でも。こうして「分業」の担い手も成り立ちも変わってきたのだから、その「分業」の中身も、いきおい変質していかざるを得ない。「ウーマンズ・リヴ」とか「男女雇用機会均等法」などの、ブームや制度面での新規はあったが、そんな表面的な変化よりコトの本質はコレである。これは男にはできない「革命」であった。つまり女性が、主婦からそこらへんのギャルに至るまでのすべての女性が、自身の内製領域を外に向けた結果、世の仕事の内容変化を無意識にもたらしたのである)

 

片手落ちの消費光景

 

戦後の女性にとっては結構なことずくめのようだった、いわゆる社会進出。しかし世間に分業が行き渡った時点で、今度は老若男女全員に問題が出てきた。それは人の肝心カナメたる生活本体のトータル的充実は、気づけばだれも目標項目にしてこなかった、置き去りにしてきた、ということだ。「横」の連携はとくに意図されてこなかったから、それぞれの「仕事」いや「分業」がそれぞれに、細かい領域内でのみ、少しだけ充実を実現してきただけだった。逆にいいかえれば、便利な家電や新しいクルマが出たら庶民に買わせるだけで、それで生活をどう充実させるのかという肝心な提案の方は、売る方にはまるでスッポ抜けていた。せいぜい時短になるとか、忙しさの軽減になるとかいった売り文句程度であった。前編に書いた、最近のゆるさに潜む「うかつさ」に似てる。

 

言うまでもないが時間が浮いたり、生活に役立ったりといった客観の実現は、主体たる生の充実とは何の関係もない。なぜなら人が成長する要因は、刺激を受けるといったこと以外は自分の外にあるのでなく、自分の内から100%打ち出していくものだからである。苦境が人を鍛えたりする事例を見聞きするのは、そういうわけであり、その人自身がしっかりしてなければ機械に使われる結果に終わるだけなのも、容易に想像できる。

 

(会社員の定年退職後に、男がそば打ちや「男の料理」に注力するのは、生活実感への貢献や家庭への回帰でない。それまでの勤務に替わる「生活の外の客観」の再獲得、代償行為である。調理はその素材に過ぎない)

 

繰り返しになるが、今に至るまで消費社会はそこら辺に対する疑念すらもないまま進んでる。世間ではお掃除ロボや有機ELテレビなどの新規家電が次々と登場して、人々に買い替えを連日うながしてるが、その辺りのことを「経済」なる曖昧な言葉でオブラートに包んでる分だけ「疑念」は遠のく。大量消費には買い物行為の盲心的自己目的化が欠かせない。家電も自動車も、メーカーの腹積もりはここにある。トータル的に一貫して横断型なのは、この部分だけだ。そしてそのメーカーですら内実は、分業コーディネーターであり、製造業というよりエエとこ取り型に変質してるのは案内の通り。

 

すべての「仕事」が家庭内で完結できていた昭和30年代までの人々の暮らしが、物はなくともバラ色に見えたのは、ノスタルジーばかりでない。当時のトータルさが、豊かで瑞々しい毎日を下支えし、そのうえで子供たちがイキイキ、ノビノビできていたからだ(と推測する)

 

「分業」が増えてもそれは高度成長期における誤差や副産物程度にしかみなされず、相変わらず全体最適視点はどこにもなく、したがってそこに着目した交通整理的な国家プランも特に設置されず、あるのは対処療法的な是正的制度整備のみだった(PL法とか消費者庁、それこそ男女機会均等法など)。広い視点で、分野横断型に生活を見直していこうというのは、無印良品などといった、一部ブランドの商業コンセプトに限られた。

 

ここまで見てきたように、全体最適視座のない、分業のやみくもな推進と、その結果として空いた時間で自分に向かわず、新商品などの新たな客観オモチャをもてあそんできた現象。それらが合わさって、数年も経ずして巡り巡って、人に何がもたらされたか。

 

バランスの狂った人格の登場である。キラキラしたものに惑わされて目が悪くなれば、視点が合いにくくなるように、ヒトとの連携においてうまく距離を取れない人が増えた。心の空洞化現象が進んで、引きこもりやうつが増加した。図式的に書けば、そういうことだ。前編に書いた空虚でボサーっとした「ゆるい」仕事ぶりも、ここらへんに原因を求められよう。分野は、人を疎外する。価値観の多様化、客観性の広がりは、魅惑的な分だけ逆に、うかつな衆愚への道である。それも一律で、画一的なそれ。

 

分業の遂行とヒマな時間つぶしは、カネと親和する。このうえなく融和する。

 

仕事の細分化の最前線は、いまも小売りの現場でジワジワ進行してる。例えばそれはご存じセルフレジの技術革新だ。セルフのガソリンスタンドのように、セルフレジは大変な勢いで導入がすすんでる。

 

GUでTシャツ買ったらセルフレジで買い物カゴごとスキャニング、映画館でチケット取ろうとしたらまずタッチパネル端末の操作。大手食品スーパーでのセルフレジコーナーは拡大する一途であり、有人レジに並ぶのはお年寄りのみ…個別への没頭はとどまるところを知らない。

 

ビットコイン(仮想通貨)なるものがここ最近ブームのようだが、そもそも貨幣は最初から仮想である。それも人を分断する威力を持つものだ。カネに実体があったことなど少なくとも近代では一度もないから(あるようにみえても、それはマボロシ)、カネをつかう最大のイベントである買い物は、機械化自動化が進めばその過程が丸ごと抽象化できちゃう。セルフレジは買い物の簡略化合理化にみえて、実は購買行為の抽象化、つまりマボロシ性の強化である。モノ買うのに、もうサイフ出さないもの。

 

そしてそのマボロシは、さらに進むと見えない不具合を糊塗する行為に容易に転ずる。借金が自分のカネに思えたり、「ポチる」というなんとも軽い言葉が、買い物を実質的に意味するようになったのも同じ、不具合のごまかし心理である。

 

この現象には前段階があって、それはコンビニなどにおけるパッケージ商品の画一的定量販売やPOS管理によって、買い物の現場から言葉が消えた(コンビニでの決済は無言である)ことであり、財布をガサゴソやるというイライラも関係性のうち、だったのにそれをスキップしてしまうプリペイドカードやおサイフケータイの登場であった。

 

また一方で、スマホの普及・アプリ(特にゲームアプリとLINE)の発達・SNSの隆盛は、ヒトとヒトとのかかわりの前進を約束しない。むしろ、逆だ。自意識の確認だけに凝り固まったくだらぬチャットを、遠くの人としてるあいだ、あなたの目の前にいるリアルな他者は置いてけぼりを食らっている。スマホやネットは、現状では真のコミュニケーションツールではぜんぜんない。逆だ。人とのかかわりから目を背けるための、閉じたツールに成り下がってしまっている。

 

こうした変化、すなわち「客観」の悪しき肥大が、上に述べた「自分が一番大事!」マインドの暴走や、「あたらしい鈍感力」の育成に、一役も二役もかっている。自分にしか役立たないアプリ・自分しか楽しめないゲーム、他人を出し抜くための情報収集は、社会に対して礼儀を欠き、孤立を深めるツールである。世を覆う分業は、先に記したように買い物の現場にもいよいよ侵食し、孤立のなかでまたあらたに人格を削っていく。逆にこうなると、自分の個性を必要以上に称揚する傾向に、より拍車がかかるだろう。ネトウヨ派の台頭は、ネットの隆盛で弾みがついたと聞く。

 

人類の歴史で、いまほど人同士が疎遠になっちまった時代はない。人との関係性を希求しながら、実相はまるで逆になってしまった現代。これでは不倫だらけになるのも無理はない。何とかできるくらいなら、世界はとっくに何とかなっていた。したがって今からでもできることは退歩することである。自我を抑制し、あいさつは自分から率先して行ない、ものごとを自発性に引き付けて取り組める人になる、これが退歩の中身である。もう買い物もスマホも、最低限でいいじゃないか、というあきらめである。

 

太陽はこれからも同じ調子でガンガン燃え続けるだけだけど、月のありようはまだたくさんの余地がある。

 

<了>

ユルい仕事にイラつく前に読む文(前編)

このところビミョーに変ってきたような気がする、仕事の光景

 

突然だが最近、世の仕事がゆるくなってきた、締まりがない…なんだかそんな気がして仕方がない。淡白な感じ、のれんに腕押しみたいな感じが、いたるところで、同時多発的に、少しづつ、ジワジワと起こってる。

 

こっちから確認に動かなければ何も進んでいかない的な痛痒を感じたこと、最近ありませんか?あの感じをここでは「ユルい」と評するが、それが頻発してるのだ。

 

県警で事情聴取後に容疑者女性が自殺したという報道があった。痛恨のミスや初期捜査の不手際などを、警察はよくやらかす。個々に細かいことは知らないが、あんなことは警察の気のゆるみが原因であるに決まっておる。ひとりひとりの警察官の問題意識が、組織の中でキリリと粒立ってれば、かなり防げるトラブルであるはずだ。

 

他にも「ゆるさ」にまつわる大きな話題としては、私見だと豊洲の移転や、森友学園理事長の醜い顔、トランプ大統領の醜悪な立ち振る舞いなどが挙げられる。少し前だと目と耳の不自由な天才作曲家はねつ造キャラだった件、STAP細胞はあります!とか、わが身の言い訳だけで号泣しまくった気色悪い元県議員とかとか…

 

ぜんぶうかつで、気の締まりのない事象が表れた結果である。なぜなら彼らは自分しかみえていないからだ。法律用語でいう「善意の第三者」感を丸出しにして、かつ自己を肯定するにはばかりもしないあの甘えた態度は、正視に耐えないものがある。 

 

今度はミクロ的に見てみよう。筆者が身の周りで遭遇してきた仕事上の「ゆるさ」を、以下に箇条書き風に記すと、こんな感じだ。

 

こちらから呼びかけたり、行動を起こしても、先方からリアクションがなにもない。ROMするのみである。または何かが始動しても、その後のフォローというものがない。いつまでも「参考」扱いである。ニューリリースをしても発売後の効果測定が見えてこず、「発売したから誰か買うんじゃね?」的な放置態度が垣間見れる。緊張感のないスケジューリングの中で、完了時期や納品が無期延期に近い状態にされている。決定なのか審議中なのか、宙ぶらりんになった検討事項…

 

飛んできたボールを「だれかがうまく拾ってくれるべ」的に見てるうちに、

「お見合い状態」になってコートにボールが落ちてあーあ、みたいな。

 

何らかの正当な事情で仕事が遅くなってるのはでない。もちろん忘れてるのでもない。テキトーに流したりでもなく、やっつけ仕事でもなく、やる気がないわけでもない。ただただ、受け身、ただただ、やらない時間が過ぎゆくだけ。こうした傾向は、たしかにいまは多くないが、それでも確実に増えてきているというのがぼくの実感だ。

 

なぜだろうか?

 

この理由を推測するに、「ゆるさ」はまず担当者がその仕事にテーマを定めていない、理想も哲学もない、ということがひとつ。そしてそれと関連してもうひとつ。仕事を進める前に立ち止まり、反対の立場を想像し、確認や検分をするという留保行為が、発想のオプションから丸っきりダダ漏れしているということである。

 

「指示待ち族」という言葉が昔あったが、時代はその次の、フリーズした状態を疑問にも思わぬ感性に「進化」したかのようである。ただ単に虚空に飲み込まれたかのように、ボサーっとルーズに途切れた状態が、いまのデフォルトなのではないか。したがっていついつまでにコレやんなきゃみたいな焦りもない。

 

これはもう怠惰でなく、卑怯ですらない。それ以前の問題である。つまり疑念を提示できる感性や、問題を提起する能力のサビつき、自主性の回路不能だ。

 

ブラックだ社畜だ超過労働だ!なんてニュースでやってるから世の中は忙しいことになってるはずだが、一皮むけばぜんぜん違うという気がしてしょうがない。時間がないのは既存の分業レベルの雑事に忙しがらされてるからで、自前のテーマを実現していくという意味でのホントの骨太な「本業」は、かなり少ないという印象だ。仕事のキチッとした進め方については、職種や時代にほとんど左右されない王道というものがある。

 

報・連・相みたいに、仕事上のコミュニケーションには順序があるが、「ユルい」仕事をする人においては、そのタガがどうも根本的に外れてるようでもあるし。

 

だからそういう人に手順を指摘してあげると「そうだったのか!」って目を覚ます人が大半です。特段にバカな人はいないのであって、したがって彼らも仕事への腹の据え方に対し、内心忸怩たるものを一応は持ち合わせてる。ただ単に、そこへの焦点が合ってないだけって感じである。

 

この傾向を、日本人特有の受け身姿勢と、その悪化だ、なんていって片づけてしまうのはカンタンだが、どうせ気付いたことだから、もう少しこの問題を掘り下げてみたい。仕事の内容変化と消費社会における人格の変容(続きの章で記述)という、あいかわらずご大層な面からの論である。長くなりますが最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

***************************

 

ユルい仕事ぶりの頻発。これはどうも、他者へのコミュニケーション射程距離をチューニングできてないまま育ってきた、子供時代からの退行現象の困った現れが、大人になっていよいよ最終的に、仕事のルーズさにまで表出してきてるのではないか、と疑っている。だとすれば、日本のお家芸たるまじめさアピールの地位も、今後は国際的に危ういんじゃないか。

 

ではなぜチューニングできてないのか?この流れは広く社会をながめやれば、ここ30年くらいの間にずいぶん進行した、初詣や七五三といったセレモニーのカジュアル化、つまり禊(みそぎ)性の軽視、と同期している。いや確かに、近年の成人式みたいな変な虚礼や、度を越した華美な式典は、淘汰されてしかるべきだと僕も思う。思うがしかし一方で、この禊性の軽視によって生活の根本的な部分までいびつになってきてないだろうか。挨拶が会釈が少なくなった、周囲がスマホへの没頭人ばかりになった、まともに箸を持てる人が、高齢者も含めかなり少なくなったことなどなど…も考え合わせると、どうも全体に違和感がぬぐえない。

 

これは「自分が、個性が、一番大事!」「人生一度きりだから楽しまないと!」といったような、おもにポジティヴ文脈でよく使われている言葉だけれど実はこそばゆいだけの内向きマインドの、静かな暴走なのではないか。他者とのコミュニケーションにおけるチューニングの狂いは、このあたりに原因があるような気がする。

 

なにが「暴走」か?これまたよく指摘されることではあるが、これはつまり自我の眼中に入る、関係性を切り持つべき相手の範囲がたいへん狭く、時にはその中には自分しかない、という排他態度が濃厚になっている、ということである。その中で、サークルの外への関心は、きわめて希薄である。これはサークル外他人からの視線が気にならないという、「あたらしい鈍感力」の幕開けになる。一時ハヤったバカッターなんかが、まさにそうであるし、ヤンキーやマイルドヤンキーもそのカテゴリーだろう。自分の半径5メートルしか見えてない人もいる。いづれも、間違いなくドヤ顔を晒してる輩どもである。

 

そんなの全部勘違いである。相手がいるから、自分も立ててもらえるのである。自分の人生は自分のものではぜんぜんなく、自分という舞台の上でみんなに検証してもらうタタキ台だ。じぶんひとりの狭い世界で慈しんだり、チマチマと楽しんだりしてはいけないものである。それでは自己満足になってしまうからだ。

 

自分とは、公共者である。シャンとした人生を送りたいなら、まずそのことに気付くことであり、その公的な態度の実践だけで生は十分にかがやく。そしてホントのコミュニケーションとは、公的に開かれた人同士の間からしか、はじまらない。

 

(後編に続く)

 

www.moneytalks.jp

生活に根付いた心情、実感からハズれていく仕事~保険とはいったい何か?

こないだ知り合いと、保険会社の選び方について話す機会があった。

 

その知り合い曰く保険会社とは、まずもって払いが悪いものであるのだが、着目すべきはいざ補償金が支払われた、その支払先側の評価でもって判断し、選択すべきだと。従来とは逆の視点から見ろ、ということだった。

 

なるほどと思った。利害関係の外にあった人からの評価は、正当で公平な可能性が高いからだ。

 

「保険と言えば自動車も生命も、保険料が安いからとか、昔から継続してるから、とか、そんな思慮ともいえない思慮で決めてるひとも多いが、そんな目先の、自分本位な考えで決定してはいけない」

 

ファイナンシャルプランナーであるその知人は、かように述べて戒めるのである。

 

僕はといえば、現代のいびつな保険(どこがいびつなのかは後述する)なるものは懐疑的どころか害悪と考えてるクチだが、ここでひとつ思ったのは、本来の保険とは共済である、ということだ。保険とは、共済制度として包括的に、社会をひろく覆うセーフティーネットであるはずだ。それは国や行政の制度にかなり近い、ホントの意味での公共事業だ。

 

その原点を忘れ、特約とかいうおまけばっかりに注目したり、利殖のイチ形態みたいに考えて貯蓄型保険だとかに色目を出したりすれば、あなたは私企業たる保険会社の、間違いなくいいカモである。

 

自分の不利益を最初から織り込み済みなのが保険の思想ではないのか。

 

つまり、道路では歩行者が例外なく優先であるように、保険でも救われる対象がいつだって主役だし、自分がそうなった場合をつねに思い描いてるという、持ちつ持たれつの思想でなければいけない。ところが今の保険商品なるモンは、全部自分がどう得するかしか考えてないのである。

 

保険とは、別の角度から考えれば、そのまま何もしなければ孤独になりがちな人が、周囲の人たちと手を携え、共生感覚を育むための、いわば教育のような機能を、地味ながらも裏方的に発揮するのが、その本来だろう。ただしく自分の孤独が見えてこそ、相手をしっかり見据えた対応ができる。

 

生きるとは、ポシャりつづけることだ。本当の意味での成功なんてどこにも存在しない。意識しようとしまいと、だれもが失敗者だ。なにかがはじめから、必ず欠落してるのが人間だからだ。

保険とは1回2回の失敗で孤独にヘコンでる人への、そうした先天性欠陥の肯定、そして欠陥転じて次の萌芽と為す期待である。ひそやかな、しかし確固たるみんなからのはげまし、うながし、である。

 

したがって保険の本当の敵は「孤独」「分断」「孤立」「疎外」だし、補償の手段は金銭だけではない。年越し派遣村なんてのがあったが、ああいうのがホントの保険の実践である。こどものいじめなども共生感覚の欠如からくるのだから、上に書いたような本来の保険的思想、およびその普及が、いじめ撲滅に役立つはずである。

 

社会にはびこるそうした、人間疎外的なものを解消するとか、少なくとも希薄化していく意志がなかったら、保険会社なぞは単に人心に不安を焚きつけながらカネを回収して廻る循環組織でしかない。これが先に書いたいびつさである。

 

(保険会社はたまたま儲けのネタが保険「商品」であるだけで、その意味でいえばネタはなんだっていいってのが正直なところではないかな。不動産とかいろいろ手を出してるみたいで、多角化経営なんて言うと聞こえはいいけれど、これは節操のなさの裏返し。まぁここらへんは保険会社に限らないハナシだが)

 

さてその企業つながりで想い出したのが、最近の企業における(特にB to B分野における)顧客おいてきぼり&自社都合優先型の姿勢である。これすべて、生活感の希薄化、ハナからの疎外に端を発する。

 

たとえば得意先の登録に、住所が1か所しか関連付けられないシステムになってるとか(枝番で処理するなり何なりすればいいのに)、ターゲットリスト(一般人)の獲得に大枚をはたくとか(売り込みたいなら正々堂々と、ネットなどでやれ)

 

身の丈に合った、生活実感から仕事を見据えていかないと、作業に追われる・使われてしまう人にはなれても、仕事を自分の方に引きつけるとか、仕事を追いかける人、呼びこむ人にはなれない。手段も組織も、仕事の内容変化や顧客実態の推移と対照・吟味し、変化させるべき部分はすみやかに変えるべきである。その順番が逆では、そもそもの自分こそを形骸化せしめてしまうは、これ火を見るより明らかである。自分の手しか考えてない将棋は秒速で詰むものだ。作業に追われる人のセールスは、すべて自分ための営業であるし、そこら辺は誰からも見透かされる。

 

繰り返すが、生活実感からかけ離れた仕事など、なんの意味もないし、それを実施していた他ならぬ自分が、最後には苦い汁をのむ。それを疎外というのだ。

 

(ブログ界では1日1記事を3か月毎日書いたりする苦行が、継続の観点からエラいとされてるが、肝心の文に中身がなければ、そのブログに何の意味があろうか)

 

いわゆる保険会社、生保企業においては、以前から勤務者はおのれの人脈での新規契約獲得要員としてしかみなされておらず、ノルマの人脈が尽きればすぐ解雇される(ぼくの知人にもこの手合いが多くいた)というのが、疎外の皮肉でなくて何であろう。

 

共済の意味での保険を、他でもない保険会社が一番分かってないというこの光景は、不毛のひとことにつきる。雇用保険などという「特約」みたいなのは付けてるにせよ、むなしさは残る。足元の仕事を、利用者目線で相対し、検査し、変えてみる、この地道で単調な繰り返しにしか仕事の前進はない。

 

<了>