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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ユルい仕事にイラつく前に読む文(後編)

前編からの続きです)

 

近視眼になってしまったのは、仕事も生活も細分化されたから

 

さて関係性が狭くなったといってもうひとつ思いつくのは、仕事の領域である。仕事が専門化・細分化されるにつれて、組織も肩書きもすいぶん細かくなった。第一~第五くらいまで営業部が分かれてて、その他に法人営業部なんかあったりして。役職も主任とか課長だけならまだしも、「代理」が付いたり、「マネージャー」みたいにどうとでも解釈できる役回りだったりして(社外の人にとって重要なのは、自分の担当が誰なのかだけだ)、セクションが無用なまでに分かれてることおびただしい。あまりに細かいので、大きなホテルとかだと、コンシェルジュなる総合案内役が、ひとつの確立された職能になってるくらいだ(そんなホテルにゃ縁が無いが)

 

で、細分化はねー、やっぱ良くないよ。役職のカテゴライズとは、組織への埋没助長でないの。全体を見渡す最適化能力は、担当全員が当事者意識として有しててしかるべきじゃないですか。『誰もが「自分ならどうする?」って視点で、経営者のつもりで仕事にあたってほしい』なんてよく言われるじゃない。そんなの分かってる人も多いだろうけどさ。

 

思えばここ半世紀のあいだ世間で進歩してきたのは、仕事本体に見えて実は「分業」という名の部分作業である。現代のいわゆる製造業など「製造」という名称が残ってるだけで、家電であれ自動車であれ自社一貫という意味においてはとうに製造業でないのはご承知の通り。あれは正確には製品コンセプトの企画屋、部品を調達したあとの組み立て業、およびアフターフォロー屋さんである(それはそれでいい部分もあるのだが)

 

現代の「仕事」とは、もともと家庭の中でおのおの(主に主婦が担当。実に大した仕事ぶりである)が、ひとりでなんとか完遂させてきた生活労働を、項目に分けて、個々に独立・分化して発展させてきたものだ。そうやって教育、福祉、子育て、食事、掃除に洗濯、運動に余暇活動…と世の「仕事のジャンル」は急速に派生してきて、時間や手間と引き換えに、金銭の介在があちこちでせっせとおこなわれてきた。

 

でもさ、目前のモンに主情的に応対し、細かく砕くのに一生懸命没頭するのは、ヒマ人のなすことですよ。

 

なぜそもそも人々は、仕事の分類化に没頭したか?それは一足飛びに言えば目の前の炊事なり掃除なりよりも、つまり生活の実体よりも、生活の外の方が魅力的に見えたからであろう。自分(地味な主観)とは別立て(という錯覚)のキラキラした客観に、テレビや雑誌などを通じて「こんなことやってる場合じゃない」「ここよりあたしが輝くべき場所が他にある」と目を奪われたからである。いいかえれば、ヌケヌケとした、堂々たる「不倫」への誘い。かくして「分野」は誕生し、細分化の一途をたどった。げに、不倫は分化である。

 

なるほど生活の外にあるキラキラ魔力は強力であった。あまりに強力だったため、別立ての自分(家庭外での賃労働に従事してるときの自分など)までもがそれに照らされ、強く、輝いた存在として錯覚できた。また世渡りが上手な人は、出世や昇給にじっさい結実した。

 

だけど月は太陽に照らされて光って見えるだけである。

 

裸のあなたは、ぼくと同じで月のようにちっぽけで、寒々しい存在だ。雑踏の中、むなしさに襲われてふと立ち止まるのは、魔力から解放されかけてる時だ。いつだって回帰点はすぐそこにある。

 

(女性の「社会進出」とやらが出来たのは、そうした「分野の増殖」というものが底流にあり、そして他ならぬ女性の家庭外労働がまた、一周回ってその一連の過程を補強してきた。実労働の面でも、給料の循環の意味でも。こうして「分業」の担い手も成り立ちも変わってきたのだから、その「分業」の中身も、いきおい変質していかざるを得ない。「ウーマンズ・リヴ」とか「男女雇用機会均等法」などの、ブームや制度面での新規はあったが、そんな表面的な変化よりコトの本質はコレである。これは男にはできない「革命」であった。つまり女性が、主婦からそこらへんのギャルに至るまでのすべての女性が、自身の内製領域を外に向けた結果、世の仕事の内容変化を無意識にもたらしたのである)

 

片手落ちの消費光景

 

戦後の女性にとっては結構なことずくめのようだった、いわゆる社会進出。しかし世間に分業が行き渡った時点で、今度は老若男女全員に問題が出てきた。それは人の肝心カナメたる生活本体のトータル的充実は、気づけばだれも目標項目にしてこなかった、置き去りにしてきた、ということだ。「横」の連携はとくに意図されてこなかったから、それぞれの「仕事」いや「分業」がそれぞれに、細かい領域内でのみ、少しだけ充実を実現してきただけだった。逆にいいかえれば、便利な家電や新しいクルマが出たら庶民に買わせるだけで、それで生活をどう充実させるのかという肝心な提案の方は、売る方にはまるでスッポ抜けていた。せいぜい時短になるとか、忙しさの軽減になるとかいった売り文句程度であった。前編に書いた、最近のゆるさに潜む「うかつさ」に似てる。

 

言うまでもないが時間が浮いたり、生活に役立ったりといった客観の実現は、主体たる生の充実とは何の関係もない。なぜなら人が成長する要因は、刺激を受けるといったこと以外は自分の外にあるのでなく、自分の内から100%打ち出していくものだからである。苦境が人を鍛えたりする事例を見聞きするのは、そういうわけであり、その人自身がしっかりしてなければ機械に使われる結果に終わるだけなのも、容易に想像できる。

 

(会社員の定年退職後に、男がそば打ちや「男の料理」に注力するのは、生活実感への貢献や家庭への回帰でない。それまでの勤務に替わる「生活の外の客観」の再獲得、代償行為である。調理はその素材に過ぎない)

 

繰り返しになるが、今に至るまで消費社会はそこら辺に対する疑念すらもないまま進んでる。世間ではお掃除ロボや有機ELテレビなどの新規家電が次々と登場して、人々に買い替えを連日うながしてるが、その辺りのことを「経済」なる曖昧な言葉でオブラートに包んでる分だけ「疑念」は遠のく。大量消費には買い物行為の盲心的自己目的化が欠かせない。家電も自動車も、メーカーの腹積もりはここにある。トータル的に一貫して横断型なのは、この部分だけだ。そしてそのメーカーですら内実は、分業コーディネーターであり、製造業というよりエエとこ取り型に変質してるのは案内の通り。

 

すべての「仕事」が家庭内で完結できていた昭和30年代までの人々の暮らしが、物はなくともバラ色に見えたのは、ノスタルジーばかりでない。当時のトータルさが、豊かで瑞々しい毎日を下支えし、そのうえで子供たちがイキイキ、ノビノビできていたからだ(と推測する)

 

「分業」が増えてもそれは高度成長期における誤差や副産物程度にしかみなされず、相変わらず全体最適視点はどこにもなく、したがってそこに着目した交通整理的な国家プランも特に設置されず、あるのは対処療法的な是正的制度整備のみだった(PL法とか消費者庁、それこそ男女機会均等法など)。広い視点で、分野横断型に生活を見直していこうというのは、無印良品などといった、一部ブランドの商業コンセプトに限られた。

 

ここまで見てきたように、全体最適視座のない、分業のやみくもな推進と、その結果として空いた時間で自分に向かわず、新商品などの新たな客観オモチャをもてあそんできた現象。それらが合わさって、数年も経ずして巡り巡って、人に何がもたらされたか。

 

バランスの狂った人格の登場である。キラキラしたものに惑わされて目が悪くなれば、視点が合いにくくなるように、ヒトとの連携においてうまく距離を取れない人が増えた。心の空洞化現象が進んで、引きこもりやうつが増加した。図式的に書けば、そういうことだ。前編に書いた空虚でボサーっとした「ゆるい」仕事ぶりも、ここらへんに原因を求められよう。分野は、人を疎外する。価値観の多様化、客観性の広がりは、魅惑的な分だけ逆に、うかつな衆愚への道である。それも一律で、画一的なそれ。

 

分業の遂行とヒマな時間つぶしは、カネと親和する。このうえなく融和する。

 

仕事の細分化の最前線は、いまも小売りの現場でジワジワ進行してる。例えばそれはご存じセルフレジの技術革新だ。セルフのガソリンスタンドのように、セルフレジは大変な勢いで導入がすすんでる。

 

GUでTシャツ買ったらセルフレジで買い物カゴごとスキャニング、映画館でチケット取ろうとしたらまずタッチパネル端末の操作。大手食品スーパーでのセルフレジコーナーは拡大する一途であり、有人レジに並ぶのはお年寄りのみ…個別への没頭はとどまるところを知らない。

 

ビットコイン(仮想通貨)なるものがここ最近ブームのようだが、そもそも貨幣は最初から仮想である。それも人を分断する威力を持つものだ。カネに実体があったことなど少なくとも近代では一度もないから(あるようにみえても、それはマボロシ)、カネをつかう最大のイベントである買い物は、機械化自動化が進めばその過程が丸ごと抽象化できちゃう。セルフレジは買い物の簡略化合理化にみえて、実は購買行為の抽象化、つまりマボロシ性の強化である。モノ買うのに、もうサイフ出さないもの。

 

そしてそのマボロシは、さらに進むと見えない不具合を糊塗する行為に容易に転ずる。借金が自分のカネに思えたり、「ポチる」というなんとも軽い言葉が、買い物を実質的に意味するようになったのも同じ、不具合のごまかし心理である。

 

この現象には前段階があって、それはコンビニなどにおけるパッケージ商品の画一的定量販売やPOS管理によって、買い物の現場から言葉が消えた(コンビニでの決済は無言である)ことであり、財布をガサゴソやるというイライラも関係性のうち、だったのにそれをスキップしてしまうプリペイドカードやおサイフケータイの登場であった。

 

また一方で、スマホの普及・アプリ(特にゲームアプリとLINE)の発達・SNSの隆盛は、ヒトとヒトとのかかわりの前進を約束しない。むしろ、逆だ。自意識の確認だけに凝り固まったくだらぬチャットを、遠くの人としてるあいだ、あなたの目の前にいるリアルな他者は置いてけぼりを食らっている。スマホやネットは、現状では真のコミュニケーションツールではぜんぜんない。逆だ。人とのかかわりから目を背けるための、閉じたツールに成り下がってしまっている。

 

こうした変化、すなわち「客観」の悪しき肥大が、上に述べた「自分が一番大事!」マインドの暴走や、「あたらしい鈍感力」の育成に、一役も二役もかっている。自分にしか役立たないアプリ・自分しか楽しめないゲーム、他人を出し抜くための情報収集は、社会に対して礼儀を欠き、孤立を深めるツールである。世を覆う分業は、先に記したように買い物の現場にもいよいよ侵食し、孤立のなかでまたあらたに人格を削っていく。逆にこうなると、自分の個性を必要以上に称揚する傾向に、より拍車がかかるだろう。ネトウヨ派の台頭は、ネットの隆盛で弾みがついたと聞く。

 

人類の歴史で、いまほど人同士が疎遠になっちまった時代はない。人との関係性を希求しながら、実相はまるで逆になってしまった現代。これでは不倫だらけになるのも無理はない。何とかできるくらいなら、世界はとっくに何とかなっていた。したがって今からでもできることは退歩することである。自我を抑制し、あいさつは自分から率先して行ない、ものごとを自発性に引き付けて取り組める人になる、これが退歩の中身である。もう買い物もスマホも、最低限でいいじゃないか、というあきらめである。

 

太陽はこれからも同じ調子でガンガン燃え続けるだけだけど、月のありようはまだたくさんの余地がある。

 

<了>