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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ユルい仕事にイラつく前に読む文(前編)

このところビミョーに変ってきたような気がする、仕事の光景

 

突然だが最近、世の仕事がゆるくなってきた、締まりがない…なんだかそんな気がして仕方がない。淡白な感じ、のれんに腕押しみたいな感じが、いたるところで、同時多発的に、少しづつ、ジワジワと起こってる。

 

こっちから確認に動かなければ何も進んでいかない的な痛痒を感じたこと、最近ありませんか?あの感じをここでは「ユルい」と評するが、それが頻発してるのだ。

 

県警で事情聴取後に容疑者女性が自殺したという報道があった。痛恨のミスや初期捜査の不手際などを、警察はよくやらかす。個々に細かいことは知らないが、あんなことは警察の気のゆるみが原因であるに決まっておる。ひとりひとりの警察官の問題意識が、組織の中でキリリと粒立ってれば、かなり防げるトラブルであるはずだ。

 

他にも「ゆるさ」にまつわる大きな話題としては、私見だと豊洲の移転や、森友学園理事長の醜い顔、トランプ大統領の醜悪な立ち振る舞いなどが挙げられる。少し前だと目と耳の不自由な天才作曲家はねつ造キャラだった件、STAP細胞はあります!とか、わが身の言い訳だけで号泣しまくった気色悪い元県議員とかとか…

 

ぜんぶうかつで、気の締まりのない事象が表れた結果である。なぜなら彼らは自分しかみえていないからだ。法律用語でいう「善意の第三者」感を丸出しにして、かつ自己を肯定するにはばかりもしないあの甘えた態度は、正視に耐えないものがある。 

 

今度はミクロ的に見てみよう。筆者が身の周りで遭遇してきた仕事上の「ゆるさ」を、以下に箇条書き風に記すと、こんな感じだ。

 

こちらから呼びかけたり、行動を起こしても、先方からリアクションがなにもない。ROMするのみである。または何かが始動しても、その後のフォローというものがない。いつまでも「参考」扱いである。ニューリリースをしても発売後の効果測定が見えてこず、「発売したから誰か買うんじゃね?」的な放置態度が垣間見れる。緊張感のないスケジューリングの中で、完了時期や納品が無期延期に近い状態にされている。決定なのか審議中なのか、宙ぶらりんになった検討事項…

 

飛んできたボールを「だれかがうまく拾ってくれるべ」的に見てるうちに、

「お見合い状態」になってコートにボールが落ちてあーあ、みたいな。

 

何らかの正当な事情で仕事が遅くなってるのはでない。もちろん忘れてるのでもない。テキトーに流したりでもなく、やっつけ仕事でもなく、やる気がないわけでもない。ただただ、受け身、ただただ、やらない時間が過ぎゆくだけ。こうした傾向は、たしかにいまは多くないが、それでも確実に増えてきているというのがぼくの実感だ。

 

なぜだろうか?

 

この理由を推測するに、「ゆるさ」はまず担当者がその仕事にテーマを定めていない、理想も哲学もない、ということがひとつ。そしてそれと関連してもうひとつ。仕事を進める前に立ち止まり、反対の立場を想像し、確認や検分をするという留保行為が、発想のオプションから丸っきりダダ漏れしているということである。

 

「指示待ち族」という言葉が昔あったが、時代はその次の、フリーズした状態を疑問にも思わぬ感性に「進化」したかのようである。ただ単に虚空に飲み込まれたかのように、ボサーっとルーズに途切れた状態が、いまのデフォルトなのではないか。したがっていついつまでにコレやんなきゃみたいな焦りもない。

 

これはもう怠惰でなく、卑怯ですらない。それ以前の問題である。つまり疑念を提示できる感性や、問題を提起する能力のサビつき、自主性の回路不能だ。

 

ブラックだ社畜だ超過労働だ!なんてニュースでやってるから世の中は忙しいことになってるはずだが、一皮むけばぜんぜん違うという気がしてしょうがない。時間がないのは既存の分業レベルの雑事に忙しがらされてるからで、自前のテーマを実現していくという意味でのホントの骨太な「本業」は、かなり少ないという印象だ。仕事のキチッとした進め方については、職種や時代にほとんど左右されない王道というものがある。

 

報・連・相みたいに、仕事上のコミュニケーションには順序があるが、「ユルい」仕事をする人においては、そのタガがどうも根本的に外れてるようでもあるし。

 

だからそういう人に手順を指摘してあげると「そうだったのか!」って目を覚ます人が大半です。特段にバカな人はいないのであって、したがって彼らも仕事への腹の据え方に対し、内心忸怩たるものを一応は持ち合わせてる。ただ単に、そこへの焦点が合ってないだけって感じである。

 

この傾向を、日本人特有の受け身姿勢と、その悪化だ、なんていって片づけてしまうのはカンタンだが、どうせ気付いたことだから、もう少しこの問題を掘り下げてみたい。仕事の内容変化と消費社会における人格の変容(続きの章で記述)という、あいかわらずご大層な面からの論である。長くなりますが最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

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ユルい仕事ぶりの頻発。これはどうも、他者へのコミュニケーション射程距離をチューニングできてないまま育ってきた、子供時代からの退行現象の困った現れが、大人になっていよいよ最終的に、仕事のルーズさにまで表出してきてるのではないか、と疑っている。だとすれば、日本のお家芸たるまじめさアピールの地位も、今後は国際的に危ういんじゃないか。

 

ではなぜチューニングできてないのか?この流れは広く社会をながめやれば、ここ30年くらいの間にずいぶん進行した、初詣や七五三といったセレモニーのカジュアル化、つまり禊(みそぎ)性の軽視、と同期している。いや確かに、近年の成人式みたいな変な虚礼や、度を越した華美な式典は、淘汰されてしかるべきだと僕も思う。思うがしかし一方で、この禊性の軽視によって生活の根本的な部分までいびつになってきてないだろうか。挨拶が会釈が少なくなった、周囲がスマホへの没頭人ばかりになった、まともに箸を持てる人が、高齢者も含めかなり少なくなったことなどなど…も考え合わせると、どうも全体に違和感がぬぐえない。

 

これは「自分が、個性が、一番大事!」「人生一度きりだから楽しまないと!」といったような、おもにポジティヴ文脈でよく使われている言葉だけれど実はこそばゆいだけの内向きマインドの、静かな暴走なのではないか。他者とのコミュニケーションにおけるチューニングの狂いは、このあたりに原因があるような気がする。

 

なにが「暴走」か?これまたよく指摘されることではあるが、これはつまり自我の眼中に入る、関係性を切り持つべき相手の範囲がたいへん狭く、時にはその中には自分しかない、という排他態度が濃厚になっている、ということである。その中で、サークルの外への関心は、きわめて希薄である。これはサークル外他人からの視線が気にならないという、「あたらしい鈍感力」の幕開けになる。一時ハヤったバカッターなんかが、まさにそうであるし、ヤンキーやマイルドヤンキーもそのカテゴリーだろう。自分の半径5メートルしか見えてない人もいる。いづれも、間違いなくドヤ顔を晒してる輩どもである。

 

そんなの全部勘違いである。相手がいるから、自分も立ててもらえるのである。自分の人生は自分のものではぜんぜんなく、自分という舞台の上でみんなに検証してもらうタタキ台だ。じぶんひとりの狭い世界で慈しんだり、チマチマと楽しんだりしてはいけないものである。それでは自己満足になってしまうからだ。

 

自分とは、公共者である。シャンとした人生を送りたいなら、まずそのことに気付くことであり、その公的な態度の実践だけで生は十分にかがやく。そしてホントのコミュニケーションとは、公的に開かれた人同士の間からしか、はじまらない。

 

(後編に続く)

 

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