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人間の、切除された能力に対するレコンキスタ運動

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画像引用:photo.v-colors.com/


ダーウィンの「種の起源」(1859年)を読むと、「あらゆる動植物は、すべての時空を超えて類縁関係にある」という重要な指摘が出てくる。
これはモチロン人類とて例外ではない。
ミミズもオケラもアメンボも、みんな友達なんだ、親戚なんだ。


日本の土着思想(神道)に近いこの真の博愛は、どういうわけだか人から切り離されてでもいるかのように、ふだんは意識されないようになっている。
「手の平を太陽に、透かして見れば」というような歌が、かろうじてその記憶をつなぎとめ、ごくたまに、後天的に感じ取らせてくれる程度である。


ではなぜ意識されないのか?答えはあまりにもあからさまだ。

この切除された記憶をほんの少しづつ、徐々に取り戻してゆくことが、人が生きる意味、成長の刻みだからだ。
だからわざと色あせて刷り込まれてる。
ヒトだけに備わった機能、自分以外のすべての存在への、完全相互交信回路の追求が、生や種からの、あなたへのメッセージなのだ。


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人間が生まれるとは何か。生命とは何か。

そこには意味などない。探求するだけ無粋というものである。
意味を求める前のめり姿勢は、宗教や差別、差異を生産するだけの徒労に終始する。
生命にはただ了解と存在があるだけだ。
そう、誕生の時点で、ぼくらはすべてを了解済みの存在なのだ。


しかしなんとしたことか誕生した直後からさっき言った強固な忘却に犯されて、あっという間にその99.99%は忘れ去られてしまう。


こうしたことと同じ体験を、毎日ぼくらは経験している。それは睡眠時の夢である。必ず見ていてながらも、忘れずにいるのは不可能、そんな現象だ。これもまったく同じ図式である。そして夢にも意味はない。

ぼくらは毎晩毎晩、誕生時のこの擬似忘却ともいうべき夢を、繰り返し体験しているのである。言い換えれば睡眠と夢によって、生誕時の状態に強制的に還元されている。睡眠のメカニズムは、医学の進歩によってすいぶん解明されてきているようだが、その本質はこういうことであり、人の人生時間の1/3は睡眠に充当されているのも、生命根源への回帰、全人性獲得のためのリセット機能として要求されるがためである。


(夢と忘却には、フロイト先生のご指摘を待たずとも、深遠な相関関係がある)

忘却の彼方に押しやられるものを、自意識の成熟と共に少しづつ取り戻す。
そしてまた、その一部を忘れ、別の部分を取り戻してゆく。

じれったいほどの遅さだが、こうしてほんの少しづつ、「ハミ出す」面積を増やしてゆく。人の成長はここにしかない。

その毎度軌道の違う円環のような過程を引き寄せることが、さっき書いたように生きること、人生の本体である。


つまりこれは普遍の再獲得。普遍は自らの中に深く埋まっている。外にはない。


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生きてることに一般的に含まれるとされる、いわゆる自我、精神、こころ、感情、経験、性格、容姿などなどの変化および固定化は、上記のように捉え直すならばヒトが生存してる事実のほんの一部を占めてるに過ぎない。
では残りの大部分は何か?そう人生の99.99%は生物の来歴そのものを、全員が、おのおの背負って存在していることの「確認の場」である。


(ここを気づかせないようになってるから、社会は経済はいつまで経っても低俗な牢獄なのである)


その確認はたぶん、睡眠や倦怠、つまりある種の抑制や単調な繰り返し、受身の態度(=「怠ける」ということではない)の中からしか、現出しない。
なぜならそうした静的態度が、あらゆる動植物や内なる他者と邂逅できる、唯一の窓口だからだ。


「本当にやりたいことを見つけるのが真の生きがい」などと世間では言われるが、(それが本当にやりたいことなのかは別として)やりたいことを全部やってしまうのは貧乏性のはじまりで、それは露骨でイヤらしい自己満足である。
やりたいことをやってるけど今日はこのへんでやめておくか(抑制)、とか、ラチのあかない義務を、ラチが明かないなりに付き合いつつ、寡黙に粛々と、大マジに進めるってのが、次の進化や飛躍を生む。人類の偉大な業績は、全部このリキみの取れた、本気な態度から生じてきた。

 

これからだってそうだ。

 

<了>