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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



官製公園とかけて一億総活躍とトク。そのココロは「空虚」。

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近所の公園。遊具はさび付いてる。奥の囲いは砂場。

 

 

<人生で必要なことをすべて学べる公園であってほしい>


唐突に話を切り出すが、子供が遊ぶ、住宅地のなかにある類の、身近な、どこにでもある小さな公園は、そうとうおかしな存在である。
いまだけ変なのではない。ぼくの子供のころからだからもう半世紀くらい、公園はおかしいままだ。


なにがおかしいというのか?


それはすべてがあてがいぶちで構成された空間が、遊び場として変だからである。教育と同じだ。


まず、公園といえばすべり台やブランコなどの遊具がある。
これがなくては公園と呼べないような、ある種の脅迫観念を感じさせるほど、全国津々浦々に遊具は存在している。
そしてそれでいて、いや、だからこそ、それらの遊具は今やたいていサビ付いている。
場合によっては動かないものもある。
要は最初に設置したときのまま、ほぼほぼ、放置なのである(見回りくらいはするだろうが、そこまでどまりである)


そして砂場がある。なかにはご丁寧に砂場と、たんなる土を囲みで切り分けて、「砂場様」みたいになってるものまである。ただその場合、「砂場様」の中身は、周囲の砂と変わらず、囲みだけがむなしく残骸化している。まるで会社の窓際族(もはや死語か)のようである。


片隅には、申し訳程度の花壇が置いてあるが。管理者がいるのかいてもサボってるのか分からないが、たんなる雑草場になってるものもある。こうなると元・花壇である。


そして肝心の子供が、公園にいない。いても短時間しかいない。
理由は子供の数が減ってるのが大きいが、それだけでない。
みんなゲームの方がおもしろく、スマホいじりに塾にと、忙しいのだ。
遊具はすでにイマドキ子供だましにもならず、さすれば公園の意義は砂とベンチと空間くらいである。
なにせ球技も禁止されてるのだ。
そんな環境では遊びをクリエイトしながら遊びなさいって子供に言っても、大人だって徒手空拳になる空間なんだからムリである。
イマドキの大人は、変に忙しい、忙しがってる人も多いから、そういう人にならああした空虚な公園は、意外にマッチするかもしれない、なんて皮肉のひとつもつぶやきたくなる。


イマドキの公園の周囲とは、かような光景である。だれの癒しにも遊びにも貢献しないが、行政の自己満足みたいにはなっている。また、ときどき放射性物質のようなものが隠されてもいる。これではまるで日本の縮図ではないか。じつに興味深い存在だ。

 

「池袋本町電車の見える公園」の放射性物質が判明しました(4月28日発表)|豊島区公式ホームページ

 


遊具、砂場、花壇、このような既存のものを、まるで公園づくりの教科書どおりにプラモデルのように切り貼りして作った、よそよそしい、思考放棄のかたまりのような公園。こんなものから子供たちは、いったい何を学ぶというのだろうと思っていたら、キッズもさるもの、そんな公園などさっさとスルーするのだった。そりゃ遊具も錆びるわな。

 


<公園はなにもしないことの象徴として、ただの場所でいい>


私見だが、公園の理想はたんなる空き地である。
平明で、あからさまで、おおらかにドテッっと存在してて、そのイメージをアニメでいえばトトロのような感じ。具体的に言えば祠や本堂のない、寺の境内みたいな空間がいいのではないだろうか。
空き地には大樹がひとつあって石ころが転がっているだけで、ほかに作為的なものはなにもない。管理すら不要、いや、人的管理などかえって不遜である。利用されてようがされてまいが、稼働率みたいな人為測定なんかはなから関係ない、そんな空間。


樹には四季折々の変化があって見るものへ変化への考察を促し、木に集う鳥や虫の様態のかずかずは、異なるものへの共存と想像力をこどもたちに具体的に指示する。
砂は、というか地面は、こどもたちがみずから働きかけない限りは、たんなる土くれ以上の主張をしない。
しかしいったんほじくり返せば、ミミズもいればアリも這い出る、虫たちの住処である。

片隅には野良犬の落し物がホカホカ湯気を立てている。
その脇に石がある。腐った木板がある。
だれも省みないその石や板をどけると、ダンゴ虫やヤスデが驚いて目を覚ます。それをつついて遊ぶ。つまむと強烈に臭い。日陰にだって、いや日陰にこそ、生命の躍動があると知る。

草をむしれば、意外に根強く踏ん張っててなかなか抜けない。抵抗しているのがわかる。

こうしたすべてが、かけがえのない観察教育になる。それが公園の、遊び場の王道だ。
なんでも自然が一番というのではないが、公園という人間ベースの呼び名すら拒むような空間が、じつはホントの「公園」の名にふさわしい。

いいなぁ、いまでも何時間でもボーっとしてたいなぁ(←いいオッサンしてて、こういうのが一番排除されるw)

 

 

<活躍なんてお前らに指図されなくてもぼくらでおのおの自発的にやるんよ。むしろ議員さんお前たちががんばって輝けよw>


さて話は変わるが、問題は依然として政治である。一億総活躍などと、ちょこざいなことを最近いいはじめ、その掛け声だけは勇ましい。


いっけんポジティブのようだけど、どこかで聞いたような…なんて考えてたら、これは「すすめ一億火の玉だ」とか「ぜいたくは敵だ」などというのと同じ精神構造から発せられるスローガンであることに気づいた。


その精神構造は、曖昧さからはじまる。今回も「活躍」の定義があいまいである。

(出生率の向上とか、いかにももっともらしい数値目標を掲げているが、こうした既存視座の延長からでは、「活躍」の本当の意気込みは何も伝わってこない)


あいまいさがキーポイントになってるものには「逃げ」の余地があるということだ。
そして逃げ、すなわち腰が引けてるものは、弱いとみなされ、イジメられたり何かが押し付けられる。子供の世界と同じである。


すると遠からずにそこはムダの収容所になるのだ。場合によっては他の政治部門からも解決不能の案件などのゴミが持ち込まれて、一億総活躍は「不法投棄」の集積場になる。公園ほど放射性廃棄にふさわしい場所はないのである。


ゴミを見えないところに出して落着する精神は、想像力の欠如を担保し助長する。これが他人を傷つける行為、つまり戦争につながる。安保よりも強力で、安保のように目に見えない。秘密保護の圏外にあって、だれも目もくれない、そんな精神性のなかにこそ、暴力装置は実在する。法は法でしかないが、引き金を引くのは人の指である。
一億ナントカは、必ず何かそうした反動的なものの隠れミノとして機能する。そこらへんに、最近の政局連動の本当の意図があると、穿った見当を立てているが…さて…


「一億」などというあまりに大雑把な捉え方、思考回路の立て方が、もうすでにボタンの掛け違いのはじまりである。こんな大上段から振りかぶった物言いは、決意表明を模した、ひとごとさのあらわれである。
一億総活躍だって、そんな概念を立ててる段階でもう他人事の風情である。


自分は旗ふりして御輿の上の座ってクチをパクパクしてればいい。それが自分の仕事である。火の玉には自分以外がなってくれることになってるし、活躍なら他の誰かがしてくれんじゃね?そこは自分の仕事からは逸脱してるから考えなくていいよっていう、大本営的な姑息な意図がある。
民主主義を装った権力集団が、いかにも思いつきそうなことである。


そういうおためごかしは、何をやってるのか曖昧な消費者庁というやつでもう十分である。どうせあそこも官僚人事の、ていのいい「捨て場」になってるのだからして。一億総活躍なんてそんなものは早くフェードアウトして国政から退場して頂かないと。それか、まずは永田町の有象無象が自らを持って輝きを先導しないと。


実務なんか何もできそうもない(まぁ、出来なくてもいいが)菊池桃子を民間議員に起用するとか、政策的な重複、焼き直しばっかりとか、あの組織はもうこの段階でいい感じに無用の長物化してるので、税金の被害が少ないうちにあんなものは店ジマイをしてしまうに限る。
どうせ会議ばっかりやってるうちに会議の開催が自己目的化してチョンである。


そしてソーリには愚にもつかぬそんなものを空想し組成指示するヒマがあるのなら、その労力を、貨幣経済原理を一切排除した空洞ゾーンを社会の中に確立すること、それをシェルターとして機能させることに、一刻もはやく注力していただきたい。でないとみんな金に押し潰されてしまいますよ。

 

こうした今までの堅牢さなどをはるかに上回る強度のセーフティーネット構築は、かならず「一億総活躍」の後ろ盾になりますから。むしろそこでショ、ポイントは。


<まとめ。公園とつながる思想>

一億ナントカのような全体的なる物、強権的、集権的なものが、いままでの公園を形成した粗雑なものであって、なんにもない公園にこそ、なんでもあるのだと気づく、その感性の生育こそが本当の教育であり、かつそれが長い目で見れば本当の「全員活躍社会」の養分になろう。未来は、子供にしか実現できないからである。

 

以上、菊池桃子さんにはテラ戦士ボーイ並みに期待したいw


<了>