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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



なんとか堂という名の組織は、自社のスタンスを自己点検する時期でないの?~「堂」的なものからの離脱。

老舗のお店や会社のネーミングに「なんとか堂」ってのがあるじゃないですか。あのいかにも古風な響きのやつ。有名なところだと本屋のジュンク堂なんかがそうで、花札をつくってた時代の任天堂もそう。時代の先端イメージがある広告代理店「博報堂」も、「堂」の世界の住人。

 

「堂」、どーですか?みなさん。どーにもこーにも今じゃ、堂々たる古くささが感じられるなぁ。古色蒼然としたネーミングセンスとして響いちゃうなぁ。

 

堂はお寺の本堂のような「中心」が語源だろうと思うし、漢字のデザインとしても左右対称、垂直方向にも安定感がある。手で書いててもすっきり円満に描ける漢字の一つであるし、「堂」に象徴される世界観が、しっかりした内実意味を持つ時代も長かったろう。

 

だが現代はすっかり分散と可変と細分化のアメーバ分裂社会である。「堂」の意味もその中で、変わったり薄まったりしてしかるべきだ。

 

組織のネーミングをするにあたって「堂」が流行った大昔は、身の回りのほとんどなにもかもが黎明期であった時代であり、崇高な経営理念があって、社会的使命に燃え、一点に向かって邁進するだけでよかっただろうと推測する。「堂」の名のもとに。

 

しかし結局は利潤追求であり、金回りの調子がよくなると我が世の春とばかりに「堂」に含まれるエラそうサイドがいわゆる「中の人」を錯覚せしめ、ヤラしさが増長され始めた。

 

本来は風格と本格の王道を示すいにしえ表現だった「堂」も、さっき書いたようにすべてがライトな相対化の波にさらされ、あらゆるものがインスタントで分かりやすいものだけに集約される現代にあっては、「堂」の本来有する骨太で確固たる本家本元というメッセージ性はすっかり風化し、主観で恐縮だが、ただエラそうにふんぞり返った悪しき権力志向が、形骸的に盲目的に受け継がれてるだけの土壌が感じられる。さすがに2016年ともなれば、どの「堂」会社も権力のニオイは薄まってるんだけど、やっぱりプライドとか自負とか社風に、エラそうな「成分」は残ってる。体育会系の社風やノリなんかも、まだかなり残ってるのではないか。

 

堂の背後に控えてる思想は、上から目線で下々の庶民を啓蒙するという、迷惑千万なご大儀である(だから出版社などに「堂」の付くのが多い)。自分こそが規範、規格であり、自分を中心として世間は廻るべきだという力点が、そこには感じられる。

 

つまり、旧来的前近代的な価値観の「引きずり」に無知覚な感性が、「堂」の世界観が跋扈することを未だに許してるのではありますまいか?

 

しつこいようだが「堂」が重鎮、中央集権、参照元、規範元の象徴だった時代は終わりを告げて久しい。かつては偉大とされていたものが、いまはお荷物。万物は流転するし、誰だってしくじりつづける。人はむしろポシャってからが勝負だ。だから組織だって可変態でいいのだ。

 

天皇は敗戦後に人間宣言をし、国鉄は30年ほど前JRに変貌し、郵便貯金がゆうちょ銀行になった。権威は地に降ろされ、一握の砂となって民間に戻り、庶民とほぼ同じ地平で世界を支えるのである。

 

そういえば「党」ってのも「堂」に似てる言葉だなぁ。音だけでなく、煮ても焼いても食えないような古めかしさも含めて。なんにせよ組織も人も、所属してるだけで安泰OKなものなんてない。自分自身の価値ある失敗体験を、遠のかせてるだけだ。

 

 <了>

 

「病は気から」は本当か。

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脳を研究すると病気は減るのか

 

脳を科学する、ブレインストーミング、脳をだます、脳を操作するなどが、最近よく言われてるようだが、まったく分からない考えだ。脳はあなたにとってもわたしにとっても外様(とざま)ではない。脳細胞の活性化や刺激などというアプローチで、外部から画策するものでない。脳ははじめからしまいまで、自らのみずみずしさで自らを殺し、しかるのちに正当に再生復活してる。はつらつと輝き続けて澄み切って、わたしを生かしてくれる、そんな同志だ。

 

脳も臓器も筋肉も骨格も、あなたにとってかけがえのない「仲間」である。ともに寄り添いながら、いたわり合いながら、支え合いながら日々全身で船体「自分丸」を漕いで前進させていく、自前で代謝しつつ更新していく、そんな神のような力で自律運動しつづけてくれる大事なクルーである。代替がなく、それぞれの役割は全力で追求しなければならないという、のっぴきならない摂理だ。どれかひとつだけでは生存は維持できないし、また単体で維持し得ることがもしあっても、今度はそれでは意味がない。だから結構深刻な病気も、自力で修復してしまう。毎秒それは体内で行われてる。心臓も血液も自我も、トータル性の中で生かされている存在だ。脳も精神も内臓も違いはないし、上位も下位もない。

 

これはそのまま自分と周囲とのつながりにあてはめ、社会的に拡張していける考えになるだろう。つまり「脳を科学する」姿勢こそが、反面教師的に孤独を深める態度であるし、おそらくそれこそが、ほかならぬ脳の病気や精神病 ーすなわち脳や神経の自爆テロー の元凶である。「細胞」や「組織」という目で世界をみることは、恣意的なあてはめであり、断片の切り取りだ。それでは些末しかつかめない。問われてるのはそこから先のつながりが本体だということと、そのトータル性でもって何をつかんでいくのか?ってことだ。

 

この「つかむこと」が人生の「正念場」であり、法律や経済、政治や教育といった社会機構は、みんながそれぞれに賭けている正念場をアシストする仕組みでありさえすればいいんだ。これがホントの民主主義のコア。

 

(いま民主主義に関して世間で言われてるのは、民主主義の中にある「部分」だけ。選挙の「制度」とか、議論の「運営」、機会の「平等」に関する、表層だけの話よ。都合のいいところだけの切り取りと拡大よ。)

 

精神病やうつ病、心理学のため脳を研究したって自縄自縛になるに決まっとるがな。ホントの医療は診察でも投薬でも施術でもない。そこらへんは作業や手段で、医の本道は「正念場」の確認と進捗を、みんなでいっしょに励ます仕組み、つまり「仁術」だ。

 

病は気から、は本当のこと。正念のない肉体は糸の切れたタコ。あるじが住まなくなった廃屋は荒廃するスピードが激しくなるけど、それと同じことなのね。

 

<了>

 

ライバルも効率も考えない、というスタンス。

zasshi.news.yahoo.co.jp

*「私見ですが、私は『競合を見てはいけない』と思っています」だそう。仕事に関する久々に実のある見解が感じられる記事だった。

 

ライバルも効率も考えない、というスタンス。

 

能率の悪さを改善する、そこを目指すのが仕事の本体だっていう「錯覚」がある。みんなうまくやりたくて仕方がないようだ。確かにそれはあって試行錯誤だって大切だ。しかし、トライして向上できる作業効率などというものは、じつは大したものではないという視点もまた、必要だ。それは自動車工場で極限まで上げた生産性が次に、雇用調整や勤務時間の短縮、果ては解雇を生み出すようなものである。その効率化は何を目指してるものなのかが問われてないと、自分の首を自分で絞める結果となる。失業で済んでるうちはまだマシやね。

 

真の効率化が目指すべきは、自分のなりわいが今の、みんなが生きてるこのヴァイタルな社会の中で、どういう文脈を持つのかを考えて、そのなかで絶えず自分の仕事をリセットしたり位置付けることである。すると、苦しいときにも必ず活路が見えてくる。繰り返すが、必ず、見えてくる。これが巷間よく言われる「ユーザー本位の視点」ってものの、本当の正体だからだ。言うまでもないが、すべては変化してゆく。ただ前人の方法の、無考察な引継ぎではなく、そこに自分なりのものを加えていくことが推進だ。そういう思考の中で、まだ形になってないものを目指すのが仕事の本来だってのが、最近分かってきた。半世紀前のカップラーメンやチキンラーメンの「発明」は、食の時間の扱われ方が家庭内で変わってきたことを肌で捉え、そこに「即席」という概念で対応する商品具現であり、当時も今も、その概念が有効でかつ、味も支持されてるから、超ロングヒット食品なのである。他の、それ以降のインスタント食品は、その真のオリジナルの亜流やアレンジ、はたまたバリエーション違いに過ぎない。

 

だから「効率化」は、そのロングヒットに至る分節点や手段の一つであろう。本当に大事な仕事に対しては、能率などという「のんき」で「すました」尺度は相いれないものである。例:情熱、愛情、生死、誕生etc

 

冒頭に掲げた記事は、ペットボトルのお茶ひとつとっても、その思想が息づいてることの指摘だ。記者の文がまたいい。以下に引用する。

 

出版業界の真のライバルは、電車通勤・通学時間や夜寝る前の時間を奪っていった「スマホのゲームや動画」なのではないか?

トヨタ自動車のライバルは、日産ではなく、自動運転車プロジェクトを急ピッチで進めるGoogleなのではないか?

 

このスタンスで考えるクセが、やがてあたらしい分野を切り開くほとんど唯一の道に思える。すべての仕事は発明であるべきだ。どこを向いてるのか分からない、だれに向かってるのかもわからない、そんな空虚な作業でなく、周囲をしっかり咀嚼しきった、あなたなりの今がそのまま詰まってて、かつみんなの役に立つ、そんないい仕事を残したいものだ。少しでも前進した結実でありたいものだ。その点でこの記事は、たいへんいい刺激になった。

 

<了>

 

物語をキャラの対立軸で製作する不毛…ムリ設定のドラマが社会の生きづらさの根源

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子供向けのアニメや特撮ヒーローものは、ひずんだ人格の生産拠点

 

当方47歳だが、テレビの記憶をたどると「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年)が決定的によくない番組だったな。

 

それまでウルトラマンでも仮面ライダーでもなんでも、ヒーローは敵とサシで勝負するってのが基本だった。ウルトラ警備隊とかウルトラファミリーとかのワキ役はいても、主人公は身体ひとつで敵怪獣に立ち向かい、痛みを受け、血的なものを流し、身を切られながら戦ったものである。これは戦後のプロレス、特に力道山みたいな「強いお父さん」の系譜なんだろうな、と今にしては思う。ヒーローだけでなく登場人物の中のナントカ隊の隊長も、仮面ライダーのおやっさんも、幕間でいぶし銀に光る、父性と中庸の補強であった。

 

ところが75年に出た後発特撮ヒーロー「ゴレンジャー」になってくると世界観が変わってくる。ヒーローは5人揃ったユニット、チームで「活躍」するようになったのだ。それでいて敵は(戦闘員や世界征服の組織などはいたが)基本的に毎回たった一匹。その1匹がゴレンジャー5名の総攻撃を受け止め、最後はたいていなすすべもなく、こっぱみじんに破壊される展開であった。

 

つまりコレ、いじめである。

 

そしてゴレンジャーにリーダーはいるが、周囲にはおやっさん的包括人物、人格者は希薄であった。チームの構成員に女性はひとり、常に設定されているが、それは作劇上の付け足しにすぎず、基本的に全員が戦闘に前のめりである。そして行き過ぎの暴力を歯止めする父性は不在という構図である。それはまた、ひとりで立ち向かう潔さ(敵)を否定し、宇宙戦艦ヤマトやガッチャマンなどでもそうであったように、チームでの任務遂行を尊ぶ姿勢、その単純で明快なる強調でもあった。

 

ゴレンジャーのようないわゆる戦隊モノは、スポンサーたる玩具メーカーが、おもちゃをたくさん売りたかったから登場人物を増やす設定にした…という話は、今では周知の戦略である。しがたってつまらんオモチャをなんとか売りものにしたい当時のセコい考えが、わたしを含めた当時のこどもに、集団いじめの浅知恵をつけたといって過言ではない。

 

一方そのころ、女の子向けには東映動画(現・東映アニメーション株式会社)に代表されるアニメシリーズがあった。魔法使いナントカカントカ・シリーズである。昔のセーラームーンとか、今のプリキュアの原型である。そしてこっちも男の子向けのと大して変わらぬ構図なのである。

 

この原型シリーズも、今に至る連綿たる東映女児アニメの流れも、やたらキラキラした見かけを装ってはいるが製作陣が男性だからなのか、やはり敵を措定した戦闘対決路線であり、かつ集団で異なる敵に立ち向かうパターンであった。したがってかような番組を観て育った少女たちからは豊かでほのぼのしてて素朴で素直な人間性の育成契機を激減させ、かわりにカラっぽで表面だけの可愛さを与え、かつまた男的な単一指向の闘争本能育成に寄与し、当然ながら同時にオモチャやアプリをも買わせ、そうした一連の「オトコ価値観」の植え付けの果てに、今の男女平等社会とかいう名の実質的な総奴隷化社会(それも奴隷なりに不公平なそれ)の成就に、一役も二役もかっているのである。

 

まーこうやって文にすれば、昔からPTAなんかでさんざん指摘されてきたことと同じである。つまり、暴力的なコンテンツのテレビでの氾濫が、子供たちに悪影響を与える云々の図式である。最近あまりそれが言われなくなってるようなのは、当方が子供に縁遠いせいなのかは分からないが、社会が隠ぺいに巧妙になったからなのかもしれない。特に少女系アニメに潜む暴力性は、以前からあまり指摘されてないし。

 

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テレビがカラー放送時代に突入したあたりからつまらなくなったと、先日亡くなった永六輔はヒトゴトのように言っていたが(テレビ当事者のクセに)、「つまらなくなった」理由は、時間枠を番組で埋めることが何よりも優先される様になったからである。当為が先立つようになったからである。なにか放送しなきゃいけないから、何でもいいから粗雑乱造する。量が必要になる。できればヒットする類の。丁寧に作る時間も予算もない。したがって製作陣は安易に流れる。

 

なにかとなにかを対立させて、その対立項のうごめきでドラマコンテンツをつくる、そんなある意味カンタンな時代は、大昔の剣豪小説あたりでたぶんとっくに終わってた。そんな当時ですら終わってた方法論が、方程式はできてるので、その流れに沿ってベルトコンベアー式にコンテンツを作るのには最適解だった。つまり、工場労働に似てる。高度成長期は、コピペの時代、そして拡大再生産の時代でもあった。こども向けの番組も、モロにその流れの中にあった。例外は教育テレビくらいだろう。

 

さてそのあと紆余曲折はあったものの80年代にはシラケの時代が到来して、ご存知のようにナンセンスギャグや不条理ネタ、照れの表現が花開いた。その流れが基本的に今のサブカルチャーである。以前「なんで日本の演技はギャーギャーうるさいのか」という内容の記事を書いたが、いまでもたくさん存在する、対立を前提としたドラマや映画なら、俳優たちがわめきたてるのも無理はない。もともと無理筋の形骸にリアリティを与えようとあがく、シナリオや世界設定の方に無理があるからだ。ぼくらにそんなに対立は必要ないし、商売世界だとライバルはいるが、個人に立ち返れば対立は実際に多くはない。

 

ここらあたりにメスを入れるのは、大人になった「対立項育ち」のアニメ世代だろう。いままでの揺り返しをする時代に、とっくに20年前のエヴァから、入ってるのである。庵野監督あたりは、その第一世代に思えてならない。敵味方を描くコンテンツのもつ世界観は貧相で冷たい。旧人類の価値観だよ、それは。

 

<了>