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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



作業は仕事のイチ手段。

世間一般に仕事と思われてる中身を検分すると、私見だと以下3つになる。

①勤務地や客先への移動や社内会議など、個人の肉体的移動及び個人時間の占有

②業務遂行のための作業

③仕事の本丸

で、本当の仕事は③しかない。

①が仕事の本体であるというのは幻想である。
それはコロナ前から分かる人には分かっていたし、この2年でコロナによって崩された。

 

問題は②と③の混同。
これがくっきり意識的に区別できるようにならないと世の中は良くならない。左様、仕事→世の中と、いきなり主語はデカくなるのだがそれも当然だ。あなたの仕事ぶりと世の中(社会性)の風通しの良さは分け隔てがない。

 

前にも書いたが例えば弁護士でいうと法廷でいろいろ弁論したりするのは上記でいえば②の作業にあたる。仕事の本筋ではない。
では弁護士の③本当の仕事はなにか。
それは②の「作業」を通じて、いさかいのない社会を少しでも実現していくということ。
言い換えれば弁護士という職能が不要になる世の中を目指すということ。
すなわち弁護士業の自己否定ということになる。
自分の仕事(作業)にしがみついていてはこの視座は得られない。

 

こういう視座を持ちながら業務に取り組めるかどうかで、ひとつ上を行く社会を実現できるかが決まる。

 

あなたの思う③を、ぜひお教えいただきたい。

 

<了>

世の中すべて化かし合いのバカ試合。

服屋のセールを当然だと長い間思わされているが、考えてみるとこれは定価で買った客への裏切りとも言える。

 

(セールにも善的な意図があるのだろう。例えば在庫処分や販売予測のズレ修正、従業員の給与捻出や販売促進などだ。またセールを歓迎する消費者は多いだろうし。しかしここではそこら辺はあえて考慮しない)

 

安く売っても原価割れしないか損しても受忍範囲内だから、販売側は(食品と違って賞味期限もないのに)服を急いで捌こうとする。
そこでは定価購入者はカヤの外だし、仕入額を公表しながら商売してる事業者など、いまだかつて1人もいない。

 

ということは販売業(もっというと物販ゼニ儲け)は、ダマしの要素をはじめから含んでる、と考えている。ダマしの要素を可能な限り少なくして誠実にしたかったら、値段の表記を例えば「原価と販売手数料の分離表記」に切り替えるなりして、過程を透明にするしかないと思う。でもそんなことは誰も提唱しない。値段とは、幻想である。

 

かくして、貨幣経済と資本主義の土俵の上では、化かし合いの欺瞞が連日繰り広げられている。

 

販売業には元々こういう構図があるから、情報商材屋も詐欺もなくならない、と思ってる。

 

<了>

仕事ができる人になれる最もカンタンな方法。

仕事ができる人になりたいですか?それも今すぐに。

 

大丈夫、なれます。それも超カンタンで超即効、ありふれてますが同時に秘伝中の秘伝のやり方です。

 

それは…

 

それは話し方を変えることです。

 

なーんだって言わないで笑。詳しく述べましょう。

 

話し方をどう変えるかというと、形容詞や副詞を使わないで数字や事実で内容を伝えるんです。

 

例「ちょっと待って」じゃなくて「3分待って」と話すんです。「なるべく早くやります」じゃなくて「11時までに仕上げます」って言い切るんです。これだけで十分です。

 

「ちょっと」や「早く」は主観表現なので、相手への誤解の余地が生じますが、3分や11時は客観描写で誰が測っても3分は3分だし11時は11時ですから、間違えようがありません。

 

そもそも仕事とは何か。仕事とは誰かのために行われるものです。すなわち仕事とはすべて公共事業です。公共という言葉が冠されてるくらいですから、事業者とは全部客観領域のものです。ですから仕事には客観表現がふさわしいのです。

 

世の仕事の始まりはすべて私性個人性(情熱とか発想力とか)からですが、仕事の過程共有や成果物アウトプットの段階になったら他者との関りが出てきますから、仕事の主体者自身で公共化を図り、仕事の外装を客観的で具体的、そして公的なものに変えなければなりません。

その主観→客観への換装時には、感情や形容・希望的観測といった私性誘導は介さないのが鉄則です。仕事はみんなそうで、制服なんてのはこの考えの外部化ですね。

 

製造・経理・営業・サービス業といった比較的よくある仕事から、農業漁業といった第一次産業や建築土木、あげくのはてには軍隊から反社会的稼業まで、世の職種はすべてこうした構造になっております。


また、被雇用者だろうが自営業だろうが、正規だろうが非正規だろうが、雇用形態にも関係なくみな同じです。

 

それと客観表現を使うと約束になりますから責任が生じます。3分後や11時すぎには相手と向き合わねばならないからです。

 

これで動機が生まれるし、行動の終りも線引き出来ます。ケツを決めればいやがおうにも(つまり個人のヤル気・気分のあるなしにかかわらず)仕事が発動します。発動させざるを得ない。

 

以上のような仕事の流れが、数字や事実を使って話すことで自動的・強制的に作れます。

 

このように言葉で自分に軽くプレッシャーをかけるのを繰り返せば、今日からでも必ず仕事ができる人になれます。この行動原理を身に着けるのは、なかなか苦しい部分もありますが、それだけに効果は絶大です。

 

もちろんうまく約束を果たせない(期限に遅れてしまう)ときもあるかと思います。不可抗力の時もあるでしょう。そのときは自分から早めに詫びを入れ、言い訳をはさまないで(これ大事)次の具体的数値を提示し、受け入れてもらいましょう。その行為自体もまた、あなたの評価を高めます(遅れないのが一番ですが)

 

それもこれも形容詞や副詞という主観で「甘え」や「逃げ」を作ってしまってるうちは、いつまでたっても到達できない領域です。友達とのおしゃべりならいざしらず、少なくとも仕事の場では形容詞と副詞は麻薬なのです。覚えておくと良いでしょう。

 

上に書いたような観点は皆なんとなく分かってるんだろうけど、当たり前すぎるのか現場ではあまり言語化されない仕事術だと思われますので、この文をお読みになった方でいいなと思って下さったら、一日の業務の中でひとつでも数字を入れ、終わり時間なりを自分で宣言してみてください。その後だんだんこうした「宣言」を増やしていけばいい。

 

新入社員はもちろんのこと、中堅社員や会社幹部、果ては定年間近の人だって、これをやればよみがえりますよ。定年後の人生にも有効です。

 

「PDCAサイクルを確立する」とか「報・連・相の励行」、「作業に優先順位をつける」など、いろんな仕事テクニックが巷間言われてますが、基本中の基本はこれです。すなわち端的に言えば「やるかやらないか」だけです。いわゆる「仕事テクニック」も大事さはわかりますが、それもこれも、まずはこの基本ができてからの話です。

 

これを機会にぜひ、お試しあれ。

 

<了>

新型コロナ、汝の名は死神か神か

新型コロナの社会的特徴は、持論では以下4つ

 

①これまでの人間行動に反省を強いる点

 

日常生活のあらゆる面で3つの否定(行動、会話、倫理*)を強いられる。
許されるのは思索のみ(*倫理に関しては後述する)


自分さえよければ、わが県だけ、自国だけでも感染を抑えられれば、という考えは否定される。これは4月も中旬に差し掛かり自粛の嵐となった昨今ではみんなが身に染みてることだろう。少なくとも特効薬やワクチンが出るまでの間は。誰もが内なる公共心に規範を求める。したがって人間の基調が大きく変わらざるを得ない。すなわち、近代以降に人類が獲得した自己存在論から、人間関係論に変化できるかどうかが問われている。

 

要は我が身のことだけ考えてると、我が身をも滅ぼすことになるのだ。

 

総じて、近代世界が獲得してきた物質的便利さを、このままではいったん放棄しなければならないところにまで行きつくだろう。

 

AIやIoTの発展、あるいはグーグルやトヨタ自動車が昨今取り組んでると話題の「モビリティ都市」が、コロナ禍のもたらす物質文明の質的変化の中でどういう役割を果たしていくのか、筆者にはまだ見えていない。

 

②レベルの違う衛生観念を強要される

 

今後はマスクどころではなく、フェイスガード、そしてハンドガード(手袋だけでなくじまで覆うもの)も品薄になるのではないか。

 

投機目的の買い占めはなら次はこのあたりですぜ旦那。

 

他人との共有物の忌避(貨幣紙幣、飯屋での食器や塗り箸、公衆浴場、ショッピングセンターのトイレ)傾向から、だれが触れたものかわからないものへの接触を、とりあえず躊躇するようになるだろう。マスクがなければ口頭での会話はしない、もしするなら、背中を向けた同士の会話もしくは電話を媒介とした会話(直接会ってるのに)の指向が来るのではないか。
ひざを突き合わせて話し、同じ釜の飯をつつくのが、人との付き合い方の王道、という良識は通用しなくなる。

 

さらに今後は医療用全身ガウンの一般普及→ヒューマンスーツの出現、もしくは車から出ないで買い物したり映画見たり(スマホで車内から)会話するようになるだろう。


他者不潔への恐怖から、異性も警戒対象となり、濃厚接触の最たるものといえる性的交渉も、もちろん減少し、ひいては出生率の世界的減少をみるだろう。

 

以上のように①(博愛)と②(孤立)が矛盾する。
なので、①に述べた3つの否定には倫理を加えている。
要するに人と会うとき、こいつはコロナホルダーではないかと、互いに疑心を腹に抱えながら向かい合うことになる。


テレビ番組なんかも、いまかろうじて放映している過去の収録ストックが尽きたら、もうひな段芸人とか、街ブラや世界訪問といった牧歌的なロケなんか成立しない。テレビ局も制作会社もテレワーク、芸能人は自宅収録になってきてる。今後テレビはアニメと再放送ばかりになるのではないか。

そしてそれを見るコロナ以後の僕らは、コロナ以前のコンテンツの呑気さに、唖然とするのだろう。携帯が普及する前の人間ドラマを観てるかのように。

 

③貨幣経済や資本主義の崩壊

買い物で貨幣や紙幣をさわると、かすかに怖さを感じるようになった。
コロナウィルスが付着しているかもしれないからだ。

 

多くの人が忘れているが、もともとカネとは仲介手段にすぎずそれ自体に絶対的な価値はない。簡単に言えばマボロシにすぎない。
貨幣からそこらへんのポイントカード、手形小切手から電子マネー系まで、すべてが幻想である。元が幻想だから、時代の変化に沿って何にでも変容してきたのである。

 

その幻想に気づかずに、カネ自体に価値を認めそれを疑いもせず、のんきに消費活動をおこなってこれた。その幻想の基礎を、コロナは乱暴に揺さぶっていく。

 

人が移動しなければ集まりもなく、そうなれば市(いち)が立たない。
実店舗がつぶれネット通販が伸びても、今度は配達員が感染を運んでくるかも知れないし、届いた商品にも(清潔そうに見えても)コロナが付着していないとは限らない。クレジットカードだって自分専用ではありながら、店員に渡したりする。ネット決済くらいだ、最初から最後までゼニに非接触で取引ができるのは。しかしそれとて前記したように物理的清潔を保証するものではない。つまりゼニというマボロシを介してリアル物質を手にしても、それすら疑いの対象となる。

 

そう考えると今まで無邪気に行ってきた買い物の意味も、おそらく歴史上はじめて形而上学的に変化せざるを得ない。これが世界中で起こっている。

 

このような日常レベルから貨幣経済や資本主義の崩壊が予見されるのである。健康あっての経済だし、そもそもリーマンショック以降の世界的な金融危機の中で、ゼロ金利→マイナス金利など、いわばラストのカードを切って様子を見ていた世界金融界は、おのれの本質が仲介業に過ぎないことに果たして気づくだろう。これは保険屋や株屋など、広義の金融業も同様であるし、上記したテレビ屋のコンテンツ不成立と質的に同じである。

 

繁華街は飲み屋に意味があるのであって、呼び込み屋にはさしたる意味はないのである。

 

④ある意味、神レベルに人間の平等を実現させている

これについては考えがまとまってないので、そのうち書くこととする。

 

筆者はいま、有史以来の基本ワーク、農業従事者相手に肥料の商いをさせてもらってるが、農家は強いはずだ。なにしろ前回の戦争の時だって持ちこたえた。でも今後はさすがにどうかな。
世界規模の中での自分を考えざるを得ない、おおきな円環の中であってこその野菜生産だからな。

 

9年前の3.11の後、この国を襲った放射能への恐怖は、目に見えない恐怖、越境する被害など、今回のコロナ禍と共通点が多く、予行演習だったのかもと思えるほどである。
が、その時と今回との違いは、安全圏が世界中どこにもない、という絶望である。

 

以上の行程は、過去に述べた私論(このブログ)では人間を真に開放する変化であるが、さすがに現在はこの変化が急激に過ぎるのと、コロナのような外部恐怖、いわば黒船の威圧によっての変化ではなく、人がみずからの意識改訂によって変わらなければホントの脱皮じゃない、という考えから、悲観のトーンで書いている。

 

あとから振り返って、上記した内容が杞憂にすぎなかったと笑える日が来ることを願う。だけど日常が戻ったとしても、コロナ以前の風景とは確実に違っているはずだ。もう一線は踏み越えてしまって後戻りはできないんだ。

 

<了>