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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



文章を「!」で締める人はだいたいダメ。

いいたいこといっぱいあるんだ!って人ほど陥りやすいんが、結論結論いっそく飛びのガチガチ文の強制連結に、文末は「!」の多用でありますな。

 

ありゃ自分しか見えてない、頭でっかちの発露です。読み手にとって「!」は、まずは警戒が即必要だってことの第一目印です。

 

「!」と突きつけられた読み手の方はどうなるか?それは硬直化し、身構えし、ときに不毛さに身もだえしながら「いったいこれはどーいうイミか?」と自問する事態に強制連行されるのでありますが、「!」をいい放った方は宿便を出してエエ気分なのであり、読み手のことは放置プレイ。こりゃアンフェアーであります。

 

で、「!」をよく使う手合いに限って、人の意見におぶさったことや、感情の赴くままの意見しか言ってないことがほとんどで、まぁたいていは中身がなく、読むに値しない。

 

SNSなどで見てるとそんな文章の書き手ほど、正体不明の有象無象にアカウントが乗っ取られやすいのは、やはりあれか、類は友を呼ぶというヤツか。

 

「!」は、たま~に使う程度にしときましょ。「!」のない淡々とした文章こそが健康に寄与するものであります。人柄と同じです。

 

<了>

 

 

小学校でお金の教育をしようじゃないか

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「暗黙の了解」といえば、なんかこう閉鎖的、日本の因循固陋な、悪しき習性の代表格って感じだが、これはこれで知的な動態ってところがある。富山市議員の詐欺体質、改ざん容認体質が話題だが、一般サラリーマンだって会社で出る宿泊費上限内の宿泊費の改ざん、会社の備品を量販店で購入しそのポイント貯蓄、その補填の私物化など、同様の「不正」は広く行われている。

 

だから、経費専用クレジットカードなどを法人として所有し、経費支払いはその1枚で完結させるなど、制度面での整理が必要だろうし、じっさいそれは普及してるのではないか。カネに関してだけは、性悪説に立った用水路造りが必要なんだろうと思う。

 

さて現代の初等学校教育が抱える弊害はいろいろあるが、そのひとつにお金の教育をどう扱ってるのか?ってのがある。

 

いまは、そんなもの見て見ぬフリして理科だ算数だと教育は勝手に始まり続き、また金のハナシを抜きにして一足飛びに、次は働くことや初歩経済の授業に移っていくわけだが、教育制度はどの段階でも、金銭の本質を子供らにきっちり植え付けることをしない。そりゃお金の知識くらいは教えるが、たとえば貨幣のエグいダークサイドには触れない。ダークサイドとは具体的に言えば雇用者の給料のからくり、金利や高利貸しやクレジットカードという吸血鬼、物品に値段が付いてることのイヤラシさとごまかし、根抵当権というザル的目くらまし制度、借金の際の保証人と「連帯」保証人とでは、いざトンだ時の立場は雲泥の差であること、夜逃げの悲惨さ、等々にはほおかむりだ。その逃げが、子供たちが長じてからの今の世が、これだけひずんでる大きな原因となっている。なにしろ、30年くらいはアッという間に経ってしまうものだから。

 

金銭の本質を教えるとは、カネなんざ資本のモノサシ、基準や差異を計測するだけのもの、マボロシやツチノコの類にすぎない、という概念を幼い頭にネジ込むことである。まちがってもカネを持ち上げてはならない。「金はあるにこしたことはない」だとか、「必要悪」とかといった消極的な肯定もダメ。さらに甚だしくは「金稼ぎは正義」「金持ちこそが人生の成功者」などの教えはもってのほかである。現世に主流の、多少なりとも肯定的な態度は全部否定し、人間はそんなものに縛られてたらどこにもいけない、という感性を育てることだ。ニュートラルを超えてネガティヴな文脈で金を定義してあげることである。カネは、ひとの愚劣さの拡大鏡、擬態にすぎないということの念押しである。この点だけは、教育は強烈なファシズム、ゴリ押しくらいの塩梅でちょうどよい。こどもを貧困の当事者にしてはいけない。

 

稼ぐだけで、造れないのがお金

 

世間を巡ってるだけの流通記号がゼニカネ

 

買い物とは、投票や寄付のような行為

 

貯金なんか、大の大人がマジに取り組むことでない

 

いままでの金銭に対する教育のスタンス、すなわち腫れ物に触るかのような、もしくはシカトをキメ込むような教育態度は、ほかならぬ教育の内容設定者が、お金のことについて知らない、考えたことない、慣れてない、教育にとっては不純で扱うにはふさわしくない題材であるものと、あらかじめ規定してしまってるから、起きるのである。

 

こういう銭の虫ならぬ無視が「暗黙の了解」になる社会は、お金への執着が傍流に貶められ、人はそこではじめて、誰はばかることなく大きく呼吸できるだろう。自由の実現は、かくも簡単である。

 

ときたまテレビや雑誌などで借金○億円を10年で返した人なんかが、逆境をはね返したヒーローのようにおもしろおかしく取り上げられるが、そんな多額の負債などハッキリいって正体不明である。借金が借金を呼んで膨らんだだけの幻の集積である。友達から借りた金なら不履行ではまずいが、借金とは額がデカくなればなるほど、返済しないことで困る具体人はいなくなる性質があるのだ。カネは自己増殖する蜃気楼であり、したがって額が増大すればするほど借金を扱う担当は具体的当事者から遠のいて、代理人や金融機関といった「制度」に希釈される。こうなると救済制度(自己破産など)が発動できる余地が生じるし、それを個人が行使しても、悪徳金融業者でない限りは「本当に」迷惑をかけてしまう相手はいない。こうしたことも現代社会の基礎知識であって、子供にまっさきに教育すべき内容である。

 

だいたい日本国政府が、ふだん金ばっかり勘定してるクセに、おのれ自身が巨額の「借金」繰り延べ(という名の実質的踏み倒し)や、さらなる借金体質の本家本元、総本山であり続けている。で、金額の帳尻合わせに苦労はしても、本気の債務返済でマジに悩み抜いてる人は閣僚にもいない。このことは子供にもじきバレるのであるからして。

 

<了>

 

 

「世界を旅する系」のひとからだけ、ぼくはやたらフォローされるんだ。

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どうも 石王イシオウ (@fotobiginesu) | Twitter です。得意なことは意識高い系と意識高い逆張り系への、両方にリーチするイヤミなモノマネです。

 

2005年あたりの川島(下の名前忘れたが思い出す価値もない)ブレイク以降、インターネットには自称成功者があふれた。世界を旅するフリーランサーとか、南の島で毎日サーフィン三昧の、パソコン1台で仕事する華麗な人々のことだ。この流行はずっと続いてるようで、この手の人たちはいまだによくtwitterで飛来してくる。よりによってぼくのアカウントに、だよ?よくもまぁ彼らそんな地球の果てから、しかも振幅の大きそうなfunで染まりきった生活の中から、東北の半引きこもりでしかない、しがない47歳のぼくを親切にも見つけてフォローしてくれるものだ。感心することしきりである、と皮肉のひとつも言いたくなる。たまごアイコンの人とかも。

 

↓例。クリックしなくていいです。

twitter.com

 

これってbotでアカウント集めて一括で自動フォローしたりするんでしょ?詳しく知らないけど小ざかしい仕組みだわね。しかも秒進分歩のネット界、いや、リアルワールドの中において、きゃつらの手法は十年一日の如く変わらない。ナンセンスなだけでなく、立派な公害。もうこれだけで片腹いたいわ。でも、笑わしてくれるのは仕組みに関してだけではないのであります。自称での肩書きがそう。もうひどいのなんの。

 

いうまでもないがフリーランスやノマドワーカー ー要するに自営業ー には、旅するも旅しないもない。好きにしたらいい。また、サーフィンしようがしまいがどちらでもよい。いづれにせよ他者に言うべきことではないからだ。例えば「恋する正社員」(笑)みたいな自己紹介の言葉がもしあったなら、そんなの映画のタイトルじゃあるまいし変でしょう?恋愛とその人の勤務上の名称は関係なんかあるわけない。たとえその人がブライダル産業に従事する社員であっても、関係ない。それと同じことだ。つまり要らない情報である。偉そうに言うがそうやって不要な情報を垂れ流すより、まず己の恥を知れ。

 

職業に言及するなら、内容を述べるだけで十分。さらに業務評価は仕事ができるかできないかだけに向けられるし、その評価は自己申告制ではない。身分を自己紹介するときに、無関係な旅行や遊びの形容をくっつけるのは、相手に対し自分を欺く、いわゆる「釣り」意図があるときだ。それか、本当に中身のない人間なのかの、どちらか、もしくは両方だ。

 

したがってそういう手合いに限って、tweetの内容はペラッぺラのコピペ受け売りだし、本当の業務内容は不明である。というよりそいつの正体は、まず間違いなく何もしてこなかったし、これからも何もできない輩である。世界を旅行どころか、なにがしかの規範や殻や枠から、意識も体も飛躍した経験などないに相違ない。

 

・・・とまぁ、ここまでは世によくありがちな文意。ぼくなりの見解が含まれてるとするなら、自己紹介に変な形容詞が付いてたらそれがだましの目印って指摘かな。で、これからは少し話がズレつつ、独断の領域に入っていきます。

 

だいたいにおいて旅行とは、趣味という名の余裕を嫌うアマノジャク(=ぼく)の持論だと、「自分をゴマカシの中に麻痺させていく」というロクでもない逃避の代表格である。人は、何かの用で、特定の場所に赴くか赴かないかの事実があるだけだ。「自分の現場」はいつだって自分の内面堀りにあると思ってるぼくに言わせれば、旅とはその分自分を見つめることをおろそかにしましたと公言するような行いだ。

 

近代社会での旅行や観光とは、絶景(何という思い上がった言葉か)や名勝など、すでに権威によってお墨付きの場所や何かを、ひとりか何人かで追認していくだけの行為である。それは見えない「レール」の上で振舞うだけであるから、楽しさもどことなくむなしい。

しかし旅行という契機でなく、いま、ここで、自分が「見るんだ」という意識さえ持てば、そこらへんの草木だって虫だって新たな自分だって、すべて唯一の絶体的な他者との出会いである。その「発見」こそが、ものすごく豊かな体験になるはずだ。

 

だからよく聞く決まり文句としての「自分を見つめる旅」「自分探しの旅行」など、鼻白むだけの言い草である。旅先や観光に本物の自分や真の自由、充実などが落ちてるわけがない。もしそんな大事なものが落ちてるなら、ポケモンGOどころではない。みんなキョンシー(知ってる?)のように勝手にピョンピョンと、仕事も学校も子育ても、全部放り出してうつろな目でその辺をさまよっていることだろう。「ほんものの自分」というとんでもない宝がどこかに本当にあるのなら、人はそのユートピアやガンダーラを探すためなら何だってするだろう。

 

ということでここでの旅行を地方移住とか開墾、オンラインセミナー、名言botなどと言い替えてもいい。外部へのあこがれであればみなおなじ、同類だ。ネトウヨやヘイトだって憧憬とは反対に見えるけれど、根っこは同じであって、みな、みにくい。

 

また別の角度から言うと、旅行したとしてもそれは自分の中だけのお話であり、無関係の人様にはとくだん吹聴するものではない。関係ある人たちへ話すときや関係する話題につなげる時のみ、つまり言う必要のある機会にだけ、旅行に触れるってのが好感の持てる会話だ。聞いてもいないのに言われたら、そんなの単なる自慢話である。この部分も、ネトウヨやヘイトに相通じてると言えよう。

 

だから自称「世界を旅するフリーランス」さんに話を戻すと、彼は二重の意味でカゲロウそのものである。旅行と仕事(笑)という無関係二項を結びつける発想も、上に述べたように自分を定位できてないおろかさを浮かび上がらせるだけだ。目的はどうせ情報商材売りのための創作サクセスストーリーなんだから、売る方のキャラをもっと立体的独創的なものにしておかないとお話にならない。また、繰り返しになるが旅という「お茶にごし」に依拠して自分を飾り立てたつもりになってることも、ぼくの意見ではギマン行為だ。しかもこれらをぜ~んぶ自分から言う(そうせざるを得ないわけだが)形式をとってるのが、また噴飯ものの全体構図である。

 

旅に限らずスイーツだとか幸せとか、いま話題の「人生のレール」とか気付きとか、後からでも解釈をいかようにも変えられる、玉虫色のものを前面に押し出して寄ってくる相手には、今の世の中いくら警戒をしてもしすぎることはない。というより、はじめからそんなものに時間を割く必要はない。だから、そいつらに近寄らせない態度でいることが必要だ。一度でも甘い顔して話に付き合うと、かなり長期間つきまとわれると考えた方がいい。だからどうでもいいものの勧誘は、断固として、瞬時に断るのが鉄則である。

 

なにか面白いものないかなぁとか、誰かあたしに声かけてくれないかなぁなどといって、ものほしげにキョロキョロしてるからかえって危険を招き、カツアゲにあったりするのである(もしカツアゲにあったら撃退方法はこちら)。そう考えていくと、twitterで偽アカウントによく吸着されるぼくは相当にウカツなのか。この泡沫ブログでいくら偉そうなことを書いても、無効なようである。この記事の冒頭にアカウントを貼り付けるなど、その意味では愚行である。

 

だがブログのPVが、数としてはいくら泡沫でも、読んでくれる読者ひとりひとりを信じることからしか、ものごとは始まらない。このあたり、偽アカウントくんにゃ分かるまい。

 

以上、恋する正社員をめざす47歳独身オジサンの、たわごとでした。

 

(了)

 

ハーフタレントの人気は動物園の珍獣と同じ。

 

ハーフの芸能人は以前から人気だが、あれもずいぶん殺生なことだ。

 

まず人はひとり残らず誰かと誰かの混血児であって、つまりハーフである。だから、本当はハーフってことは特別なことではない。ハーフさんの容貌は確かに目に付くが、西洋人と日本人のハーフでも、一目で「ご愁傷様」って言いたくなるルックスも多い。

 

それと、外見があまりに秀でてる人の中には、しじゅう見られてしまうことや目立ってしまうこと、すなわち動物園の動物と同じ状態であることに耐えられない人もいるだろう。いわゆる有名税というやつだが、あんな無用で不幸なものに慣れる人など、いないような気がするし、慣れてしまったらそれはそれで真綿で出来た監獄だろうという考えも浮かぶ。

 

そうした考えを延長しながらハーフタレントにあこがれる側の心理を考えると、彼彼女に無反省にあこがれる一般人の態度は、実はその裏返しであるところの差別主義の始まりであろう。ハーフへの憧れは差別だ。あまりに普及しすぎてて、ヘイトスピーチなんかよりはるかにタチの悪い類の。そうしたいわれのない差別が良かろうはずもない。ベッキーがなかなか再起できない真の理由は、ここら辺にもあるのではないか。

 

したがってハーフに限らず憧憬とは、これ撲滅すべき感情の筆頭である。すべてのアイドル産業やテレビ、グラビアのたぐいは、思慮の浅い人々のあこがれを刺激して食い扶持にしてるという点で、動物園同様に愚鈍を助長する犯罪行為に日々加担するものである。また、それにうかうかと乗せられる方も罰する仕組みが必要だ。そうしたものにハマらないよう、警察や公安、議員や教育者がしっかり指導せねばならぬが、そいつらがまっさきにハマってるのが他ならぬハーフタレントであるのが今の日本である。公務の不正が後を絶たない本当の理由がここにある。

 

そして同様に人を評価する際、天才秀才努力の人を言い過ぎる手合も同じ穴のムジナである。みずからの内なる天才性に怠慢なひとが、オリンピックのメダリストなどの外部にわぁーっと流れてゆくのは、ハーフに対するのと同型の、やみくもで醜い憧憬である。人はみな、同等の魂保持者なのだから、生存してるだけでおまえはおまえなりの、宇宙唯一の、天才なのである。それはヒーローやレジェンドやメダリストといった世俗的なものどころでない、キッカリとした類似性ゼロのそれである。他者への無意味な憧憬をなくす地点は、こうした認識からしか発生しない。

 

とにかく人を持ち上げるのもほどほどに。無意識のうちの「ホメ殺し」は、転じて高度の悪意に変貌することは言うまでもない。そしてこういう文を書く、他ならぬぼくも容易にその加担になりうるわけである。冒頭の「ご愁傷様」というイヤミが、その端緒である。用心用心。外見や見た目は欺きの元なり。自戒である。

 

***ところで、いわゆるハーフといえば母が日本人で父が西洋人ってパターンが多く、父母の性別が逆のことは少ないが、これがまたひとつの傾向、すなわち「ますらおによる女の蹂躙」を物語る。男なんざいわゆる草食系に限るし、他方、キャリア女性は男社会が生んだいびつなハイブリッドである。このひずんだ柔構造の話は前にも書いたが。

 

<了>