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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



曜日の感覚を疑う。ハウンドドッグとジョントラボルタをネタに。

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陶酔しきったヴォーカルの顏、セルフパロディーとしか思えない。1985年、西武ライオンズ球場でのライブより。

Hound Dog「嵐の金曜日」(オリジナルは1980年リリース)

 

 

曜日の感覚を疑う。

なくなったら生きやすくなるもの、そのひとつは曜日感覚だと思う。

 

普通は逆に思うだろう。曜日感覚が薄らぐことは、大げさに言えば社会からのドロップアウトを意味するからだ。

 

でも、やっぱし違う。曜日感覚は、曜日という覆いを時間にかぶせてるだけだ。

 

毎日、というのは巡る日々であるだけで、それ以上でも以下でもない。「曜日」は後付けで生成されて、西洋という外部から付与された公準だけど、宗教由来だけあって日の本質をあいまいにする覆いだ。日に意味を持たせるのは、曜日ではなくぼくらである。日々の違いを充実によって際立たせるのは人間にしかできない。それが僕ら一人一人に託された、本来的な「仕事」だ。

 

こないだあるところでハウンドドッグ(という昔のバンド)の「嵐の金曜日」というヒット曲(上のYouTube参照)を聞いたが、まったく聴くに堪えなかった。情緒べったべたの、聞き手に甘えきった歌で、体裁はムダにドラマチックなロックバラードだが、内実は演歌だと思った。

 

どこが甘ったれた歌かというと、サビにもなってる「Friday night」という部分に象徴される、おそらくは無意識の、「金曜」への依拠である。金曜という単語の持つ、いつもと違う週末感とか、ちょっとした冒険への淡い期待などといった記号性、情緒性によりかかって気分的に世界観を出している。しかも「きんよー」と日本語で直接言わず、Fridayなどと外来語を使って迂回してるのがまた小ズルい。ライブなんかだと大熱唱になって、暑苦しいことこのうえない。

 

うたで自分の実感を吐露するなら、なんにも頼らないで、自分の編み出した歌詞で歌うべきだ。単語の使用も、「嵐」くらいなら修辞法として分かるけど、「金曜」を出してはダメだな。だから、僕が作詞するなら「嵐の日」とかになるな笑

 

記号性に奉仕する発想が曲の根元にあるから、曲調もバラードのイメージを忠実にトレースして破綻はなく、太い音のフレーズであいまいに流しながら空疎なドラマをおっ建てるしかないんだな。

 

ぼくらに必要なのはなぐさめあう情緒ではなく、ドライに対象化された冷徹な意識である。

 

曲に罪はなく、好みもひとそれぞれだが、それだけにあの曲の持つ甘えた幻想はあいまいさゆえに拡散しやすく、その麻薬のような連鎖構図はほとんど犯罪的だ。

 

ハウンドドッグなぞ、最初から歌謡曲バンドだと思ってればいいのかもしれないが、「嵐の金曜日」以外のヒット曲にもロクなものがない。甘えた幻想を垂れ流し、ロックの衣で商売してたそのやり口は、パフォーマンス本来の品格をひずめてて、過去のバンドながら賛成しかねる。この、偽物に語らせるようなえせロック・スタイルは誰が始祖なのか知らないが、商売するには便利なのでB'zなんかに連綿と受け継がれている。

 

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曜日に関して言えば、別の日に見た「サタデーナイト・フィーバー」という映画もゴミだった(これも40年くらい前の大ヒット映画)

 

ストーリーは、平日は単純で面白みのない労働に束縛された若者が、週末のディスコでは開放され華麗に踊り舞い、限定された空間の中だけでヒーローになる。そこで主人公にハプニングの数々が降りかかりそして…といったもので、いうなれば陳腐。「嵐の金曜日」と変わりない。

 

どちらも要は、金曜とか土曜とかの曜日に、意味や根拠を求めてるのである。「サタデーナイト・フィーバー」だと、平日の工場なんか自分のいるところじゃない・週末にしか自分の居場所はないと思い込むその短絡。ディスコとか週末とか、外部が用意してくれた環境の中でだけが、自分の輝く場所だというその根性。

 

まったく気に入らないね。自分が空虚ならいつどこに逃げたって、おんなじにきまってるじゃないか。だから僕の感覚だとそうした現実逃避のむなしさに向き合って、丁寧に作劇していくのが、ほんとうに実感のこもった、優れた映画表現になりうると思う。

 

「嵐の金曜日」とか「サタデーナイト・フィーバー」をやり玉に挙げたけど、曜日はたんなる区別記号だと気が付けば、同じようなものは世間にいっぱいあることに気づく。「一服の清涼剤」とか「純文学」とかね。

 

ぼくらは催眠術にかかってるように麻薬漬けになってるわけだ。

 

自分の依って立つは暦などの記号性ではない。流行歌や映画は、いろんなもののイメージを拝借してまるでほんもののようにスリ替わってるだけで、その洪水の中で真の表現を見つけることなんかほんとにまれだ。

 

だからせめて君は、表面イメージに自分を溶かしたり、丸め込んではいけない、あいまいにとどめおいてはいけない。ぜんぶ自分ひとりの問題だ。

 

曜日の感覚をなくすとひとまずは社会生活に困るかもしれないけれど、すくなくとも曜日に付随するモノを疑うクセを身に付けてないと、もっと困ることになるよ。

 

<了>

お盆のまんなかで、愛を語る

「地球の中心で、愛をさけぶ」なんて、激薄の水増しウイスキーみたいなベストセラーがあったが、ひどい話である。なぜなら自分中心のああいう発想が間違いであって、それが自己疎外の元凶だからだ。あそこで主張される「世界の中心はどこだって自分なんだ、自分を信じることこそが大事なんだ」という甘~い、そしてある意味耳タコなスローガンは、実はゴーマンさの隠れ蓑である。ベストセラーだけあって論理的な誘導が巧妙だが、そこにだまされてはいけない。

 

世界の中心=自分ではない。自分が世界そのものなのである。みんなその点のみにおいて平等なのである。世界とは、ずいぶん漠然とした言い方だがこれだけは断言できる。つまり世界とは地図になったり、天体として観察できるもんじゃない。会社の延長でも国家体制でもなく、ニュースのネタになったりするものでない。世界とは言ってみれば空気、そして関係性の平野だ。つまり、目に見えないものだ。だから自分と他人はおんなじ、世界の出先機関なのだ。愛を言うなら愛はそこにしか生じない。それ以外の、いわゆる「愛」はエゴの妥協と、孤独からの逃避である。

 

また、叫ぶのは愛を認めてほしいためじゃなくて、愛を偽った自分をアピールしたいから、要はかまってほしくて叫ぶのである。ないものにカタチを与えて視認したいから、わめいたり泣いたるしてじたばたするのである。

 

いまはお盆期間だが、あっち(彼岸)とこっち(現世)を分けるのも間違いだ。墓参りはあっちもこっちもつながってるんだってことを確認する儀式だと、捉えなおそう。

 

<了>

ブックマークをください

いきなりだがこのブログは、開設して2年余り、他のネット記事では読めないようなことを、出し惜しみなく全力で書いているつもりだ。だから有料のProコースを選択し、独自ドメインを付けている。前にも書いたがこれは自分に対する「重し」なのだ。

 

そして他では代替不可の、おなじように全力投球の、真に読むに値するblogもとうぜん存在してるはずだが筆者のアンテナには引っかかってこない。

 

当ブログのアクセス解析によれば、記事の離脱率はたいへん高い、もしくは回遊性が低い。また、そもそものアクセス数も1日せいぜい2ケタ台であり、なおかつその半分くらいはロボットによる自動巡回やロシアの検索ポータル、Yandexからのアクセスである。

 

このことにかけての責任は執筆者である僕に100%ある。キャッチーなことば、斬新な論旨、ビビッドな表現に欠けているからダメなのだ。これに関しては独断に満ちたこの生硬な文体がネットやブログの流儀に合わないからダメなんだ、なんて考えたこともあったが、そんなのは言うまでもなく、僕の甘え、言い訳でしかない。文は中身で勝負するしかないではないか。アイキャッチ画像を付けるのも、言い訳がましい感じがして、いつしかあんまりやらなくなった。

 

だから、どうぞささやかなる以下のお願いを聞き届けて欲しい。それはこのブログの過去記事が1行でもあなたの胸に刺さったのなら、気軽にブックマークをしてほしいということだ。そのことによって、僕自身が、先に書いたような真に読むに値するブログにリーチできる可能性が出てくる。それはあなたにとってもそうだろうと思う。

 

はてブとは、見知らぬあなたのソウルメディア(=書いたもの)に触れる羅針盤になりうるし、自分への拡大鏡にもなる、そんな優れたシェアシステムではなかったのか。

 

そんなことを思う毎日である。

 

<了>

「倍率」とはなにか

就職、試験、資格、入学等々、定員のある枠での選考なら競争が付きまとい、その度に世では倍率なるものが取りざたされる。

 

しかしある関門を通ろうとする際、人はいつだって自分×1倍でしかなくて、合否なんぞはその結果にすぎない。

 

この、いわば当事者意識をなおざりにして、一般概念としての倍率とやらに思考の座を明け渡す最初の一歩から、僕らの不幸は始まっている。そこで自分が消えてしまうから。人の世は、キミがそれをやるかやらないかだけだ。または続けるか、やめてしまうかだけだ。

 

知り合いに小説家志望の者がいて、どこぞの文学大賞へ応募して入選するんだと張り切っている。それでは、ということで書き上げたものを読ませてくれと頼むと、一編も書ききったことがないから見せられない、というのだ。

 

だから私は、彼はそのうち文学大賞への合格率を計算しはじめると踏んでいる。彼の中では「合格」がゴールであるからだ。そのうち効率化の名のもとに、入選作の傾向と対策を分析しはじめるかもしれない。入選作でよく使われる語彙や世界観を抽出し、それを再構築する「科学的」手法で「文学」に対処する、そんなコピペ人になるのではないか。

 

そもそもその関門が君にとって本当に、突破するに値するものなのかの検討こそが、いっとう最初に必要だろう。皆が賛同するものとは、上に述べた一般概念の産物である。したがってそいつはロクなものではない。「進路」とて、例外ではない。

 

それそのものを指向する態度。数値や一般論に還元されうる「覆い」には惑わされない姿勢。個性などというが、ほんとうの自分はそうした追求からしか出てこないように思う。

 

<了>