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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



世界はショーバイショーバイ

ひとつショーバイは放るもの、つまり使い終わったらすててしまうものこそ、実は際限なく儲かるものである。飲食店で出てくるビニールに入った紙おしぼり、綿棒、コットン、車のエンジンオイルなどなど、競合他社はあるものの、あまり着目されない「捨てるもの」という切り口でビジネスを見ると、意外なアイディアが浮かぶものだ。

 

これら「放るモン」を消耗材とか必要経費と思ってもらったら、相手の思考停止領域に潜り込めたってことになるのだ。

 

もひとつ、ぼくなりのショーバイの進め方にはコバンザメ方式ってのがある。似た意味で便乗商法って言葉もあるが、この2つは僕の定義では全然違う。コバンザメ商法は合理化のことで、便乗商法は単なるコピペ剽窃だ。ぼくはコバンザメの文脈からQRコードに長らく着目している。誰でもweb上で無料制作できて、載せられる情報列にURLがあるため情報量は多彩、容易に図版化もでき、紙媒体に印刷できる。情報を受け取る方もスマホ時代の今日では時間も場所も問われない。

 

このQRコードをコバンザメ的に使う。すなわち放るモン、つまり消耗材とQRコードをかけわせたらどうなるか…ここらへんがショーバイをクリエイトする、企画を広げる楽しさだろう。例えば切手にQRコードが印刷されている、カフェの卓上紙ナプキンにQRコードが載っている、紙オムツの裏面が情報の発信源になりうる…

 

Suicaやスマホ決済、ビットコインとか、貨幣レスの流れが世間で止まらない。前からあるクレジットカードもそうだし、貯まったポイントは円ではなく、あくまでポイントでしかないのも、貨幣価値の変容しやすさを象徴している。福岡での3.8億円強奪というのが、ずいぶん古典的な犯罪に思えてしまう。ぼくとしてはこの流れが貨幣経済や資本主義の形骸化までを、実用面からもたらすムーブメントになってほしい。なぜならそうしたマネーレスサービスとその普及こそが、貨幣制度の持つ本質、すなわちその空洞性、物神性への、しっかりとした批判になっているからだ。お金という、人をして人を牛耳り奴隷化させる盲目ツールを、その利用実態という名の内側から崩壊させ、筒抜けに解体するものであってほしい。

 

QRコードに代表される情報という可変態と、箸袋のようにすぐに捨てられてしまうもの。そうした従来だと無価値ないしは対価を発生させにくいものが、貨幣や紙幣の実体のなさを照射する、そういう動きは気付かぬうちにとっくにはじまっている。

 

生活実感としても、お金に右往左往させられるのはもうウンザリではないか、諸君。

 

 <了>

 

地方銀行の支店が、ド田舎でもつぶれないのはなぜなのか

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地方銀行の支店が、ド田舎でもつぶれないのはなぜなのか

 

何十年か前、コンビニにATMが設置された時期以降、銀行の支店の役割は確実に減った。お金をおろす、こんな一番日常的なことが銀行の支店に出向かないと出来なかっただなんて、考えてみればATM普及以前はずいぶん屈辱的な制度に従わされていたもんである。別に銀行に預金しなきゃならん法もないし。

 

でも、減ってもいいはずなのに、今でも銀行の支店数は体感的にはほとんどなくなってない。特に地銀の支店は地方各所に健在である。たとえば筆者の住む宮城県の筆頭地銀に「七十七(しちじゅうしち)銀行」というのがあるが、ここの支店はさして広くもない宮城県内に142店舗もあり、そのひとつひとつに正社員が配置されている。建物はあったって別段ジャマなものではないが、この栄枯盛衰の激しい現代の中で、金融機関の支店がゆるぎなく安泰なのは不思議だ、とは思わないか。筆者は金融業界のことなど詳しくは何も知らぬので、以降はこのナゾ(笑)にバイアスをかけて独断で解説し、毒を吐く次第である。お付き合いいただけたら幸いだ。

 

もちろんこんなイチ素人でも、銀行の機能は口座からの現金引き出しだけでないのは分かる。融資の相談とか、金融商品の説明だとか、貸金庫業務などなど、いろいろあるんだろう。でも支店に行くとそっち方面の窓口はだいたい空いてて、人が並んでるのはATMの前とか口座関係の窓口ばかりに見える。銀行にとって市中のカネ(=庶民の預貯金)は、単なる「仕入れ」である。金利でおっきく儲けるための原資(の一部)でしかない。そうしたチリも、積もれば山となるが、基本的にこまごまとしたものであるから対応は機械などに任せておけばよろしい、となる。

 

イチ庶民としてカウンター越しに観察してみると、前にも書いたが悪いけど銀行の中の人たちは、そんなに大した仕事をしてるようには思えない。彼ら彼女ら行員サンは、キチンとした服装で常に忙しく、うやうやしくもまじめに立ちふるまってるようだけど、でもキチンと感も忙しさもマジメさも、その仕事が実質的な重みを持ってるかということとは、実はぜんぜん関係がない。むしろ逆の場合も多い。行員さんなんかは、まず第一に、自銀の「権威」や「建て前」に向かって仕事をしてるように思える。

 

さて一方で、銀行と同じように全国津々浦々にある施設に、学校がある。近年では少子化や地方空洞化により、ご承知の通り義務教育校の統廃合は著しさを増している。でもこないだも卒業生15人の地方小学校の卒業式を撮影してきたけど、子供への熱意や重要さの総量は、児童数が300人いるマンモス学校だろうと、生徒がたったひとりしかいない分校だろうと、変らない。カリキュラムとしての教育制度とは別に、その子ひとりのために教員も地域も支え合うのが公務としての教育の、志の高さの表れだろう。この現場には建前に奉仕する倒錯はほとんど見られない、というのが実感だ

 

ここで思うのは小中学校のような、経済なんかよりはるかに大事な子供成育の場は、昨今のように乱暴なまでに「合理的に」統廃合をすすめてきてるのに、なんで金融機関は無傷のままで今日も明日もノホホンと、涼しい顔で同じ場所に居座って、しかも午後3時とかには一律で営業終了なんだろうか、ということである。

 

銀行の場合、統廃合みたいなのはするとしても、それはA銀行とB銀行との合併、すなわち親会社同士の資本系統整理であって、なんというか、財務の帳尻合わせの整合性・落とし前、要するにおためごかしっぽい。支店の現場はほぼ無風のように見える。

 

冒頭にもチラと書いたが、コンビニにATMが立ち並び、クレジットカードでネット決済ができたり、仮想通貨が流通したりだといった金融変化の中では、50年くらい前の物理的拠点としての金融機関の意味は変わってきてる。支店だけでなく銀行の本店も、その意味は薄まってきている、弱まっている。そこに無自覚なのは、判断停止の愚鈍さや臆病さの表れであり、もっといえば怠慢だ。

 

(で本当は金融の意味そのものが変容していってるので、建物レベルの話なんかむしろ末節の議論なんだけどね)

 

銀行と同じようなものだと郵便局ってのもそうだね。郵便の社会的地位が相対的に下がってるのに、まだ郵便局は津々浦々に健在で、統廃合みたいなのともほぼ無縁。郵便受付カウンターに客が集中し、融資とかの窓口はガラガラというアンバランスさも、銀行にそっくりだ。客のニーズにレイアウトが対応しきれてない。ひな形に沿って造っただけのカウンター配置と、当然それに沿うように決定される人員のオペレーション。自分しか見えてないとそうなるわな、という感想を持つ。支局を減らすことが、携帯が普及したから公衆電話を減らしたように簡単にいかないのは、支店が機械でなく雇用機会の場であるからだけど、そういうのは組織しかみてない態度なんじゃない?そこらへん、もう本末転倒じゃないのかね。

 

全国津々浦々にある金融機関の支店。地方でも首都圏でも、本当に必要とされてる拠点は(あるんだろうけど)たかが知れてるはずだ。拠点の持つ建物固定性と、経済や金融、情報の流動性は、時代の利便性が進めばいつか真っ向から対立する。いまの経済ニュースはその「段差」に真因が求められるような問題であふれている。ここ数十年は過渡期だっただけだ。むしろ今や、金融機関の支店を存続せしめているものこそ、「不経済」の正体だと断じていい。そう考えれば、その本丸たるメガバンクの本店(本社)そのものもしかりで、だいたい数が多すぎるのである。「三菱東京UFJ銀行」と「三菱UFJ信託銀行」の違いなど、まるで冗談である。間違ってくださいといわんばかりにややこしい。これはメガバンク側からの、ユーザー不在のセクショナリズム押し付けではないのか。

 

だから銀行や郵便局の本部は既存の不動産にただいつまでもしがみついたり、リストラを忌避してないで、そろそろ大ナタを振るって事業縮小でもして廃止し、支店建物は地域のコミュニティセンターに転用したり、捨てられたペットなんかを集めたふれあいセンターにしたり、廃止された小学校の代替分校として「復活」させるとか(認可制度の悪点などは、行政に働きかけて改善してしまうのがホントの仕事だ)、いっそ建物は取り壊して共同菜園みたくするとか、なにか新しい「芽生え」の拠点にしたらいいんじゃないか、と勝手に言ってしまう。こういうトータル視点からの地域再構築指導が、行政の本当の仕事でないのかね。

 

本体の経営が堅調なうちにならそうやって転身できるし、これがホントのリストラだとも思うし。

 

切実な必要に駆られていま、何かを切り捨てることは、恥ずかしいが言ってしまうと、むしろ今後に花開くための種まきだ。つぶすなら、つぶしてしまえ無用物、それがやさしさ。証券会社の、構えだけは立派な本社ビルとかを見上げてると、なんだかむなしくなってくるよ。

 

え、そこで働いてた行員はどうするのかって?

 

自分なりに働きはじめりゃいいじゃないの。既存の権威や建て前の方じゃなく、あたらしい価値や実利に向かって。そりゃ苦しいし、何度もポシャってメゲるし、ぼくなんかも何度トライしても全然ダメダメさ。けどみんないつだって、これから芽吹く種みたいなものじゃないか。ひとりひとりが学校、巣立つ母体は自分の中にしか生まれない。

 

当たり前のことだよ、そんなことは。

 

<了>

 

「はあちゅう」こそが、自分を縛る肩書きだ

lineblog.me

たまにはトレンドに乗ってみよう。はあちゅうが久しぶりに第一線の話題に躍り出たのだ。上の記事によればはあちゅうは、自分はライターじゃなく作家だと宣言し、媒体にも作家で呼称統一するように、つねに求めているらしい。つまり、もう何年も本人が言ってることの繰り返しだ。作家作家っていつも懸命に主張してるもんな。

 

www.excite.co.jp

…で、上に貼った概略記事のように、はあちゅう慣れ(?)してない人たちにその主張がかぎつけられ、ライターとか作家といった言葉の定義付けで周囲はボンボン燃えさかってる。あまりにやいのやいの言われるもんだから、はあちゅうはいつものように強権発動!「自称作家」と肩書き変更せざるを得ない非常事態に追い込まれていた(ただしこれまたいつものように強がり付き)、それが昨日のできごと。

 

 

で、騒動から一夜明けた本日は、以下のようなブログを書いた。

lineblog.me

曰く、「他人から見える自分の肩書きなんてどうでもいいと思いつつ、自分で名乗る肩書きを認めてもらえない世の中なんて息苦しすぎるので、私はこの件に結構執着しています。」

「世の中の同意がないと本人が肩書きすら名乗れないって、どうなのか。」

「肩書きには縛られない、新しい作家の形を作りたいという志があって更新し続けているnoteのほうもよろしくお願いします。」(←人一倍、旧来的な作家認定されたがってるくせに何いってやがる)

 

…なんて、一切反省もない。肩書きにこだわる・こだわらないとの間で、いつも認めてほしい、構ってちゃんな乙女心は大いに揺れております。文意もヨロめいてて、作家でなく錯覚の間違いではないか?などと感じ入る次第です。

 

しからば教えてしんぜましょう。ええですか、逆ですよ。あなた自身もお気づきの通り、自分が何者なのかを評価しレッテル貼りするのは、あなたじゃない。世間だ。そこを逆に考えてる限り、その息苦しさとやらは終わらない。肩書きを名乗りたいなら「文筆業」「著述家」程度の、古風ではあるがイヤミ成分をほとんど含まない、ニュートラルでドライな言葉にとどめておいて、周囲になんと評されようと、それには抗わないでおく。媒体での肩書きに目を光らすヒマもないくらい自分の仕事にひたすら粛々と邁進してゆく、これだけだ。逆に言うと肩書きなどという些末にこだわってる時点で、肝心の文に内容がないことがバレてしまう。そんなこと、聡明な貴女なら分かってるはずだ。

 

はあちゅうが批判されてるのは、あの程度の文をなんぼ量産したってクズはクズ、だからおまえが作家いうな、ではない(いや、少しはあるか)。ライターや作家といった言葉のニュアンス違いでもない。肩書きの効能そもそも論でもないし、自己承認欲求と実際とのズレの話でもない。

 

非難を浴びてるワケは、自営の人間が自分の考えたエラそうで不釣り合いな肩書きを名乗って恥じらいのそぶりもない、そこに厚顔な態度が透けて見えるからである。「作家」に感じられる、のっぴきならない闇や、屹立とした切実を抱えた個人が、自分を「はあちゅう」などと言うか?という自省がないからである。そしてそんな自意識過剰なイヤらしさを大の大人が自覚もしないばかりか、稚拙な言葉遣いと論法で、逆に声高に理論武装して強がり主張してることへの周囲からの違和表明。それらが批判となって噴出しているのである。

 

また、批判に対する彼女からの応酬が、肩書きが必要なのか不要なのか分からない、あっちふらふらこっちふらふらのゆるふわであり、それがまたさらにはあちゅうの自意識過剰さを浮き彫りにするといういつものループ構造が、これまたクサいからである。彼女のおこした数々のボヤ騒ぎの原因は、常にこの「みずからを省みることなく強気を通す」ワンパターンであって、「作家」であられる限り、そしてこの鈍感さに気付かない限り、彼女はこれからも炎上騒ぎをたびたび起こすだろう。要するにお子さまである。

 

はあちゅうよ。そもそも「はあちゅう」とは、自分の子供時代の自称(本名:伊藤春香)であり、そこから名乗りはじめたペンネームであるらしいな。しかしピカチュウだかハイチューだか知らないが、自分の幼児時代の甘えを他人に押し付けるそのネーミング感覚こそが、自分を縛る大いなる肩書きである、とまずは自覚せよ。

 

と、ここでいいこと教えてあげよう。自分の人生は自分のものじゃない、みんなのものなんだよ。特定の肉体と時間を借りて、ヒトのある種の具現化が行われてる実験場、それがぼくやあなたの人生なんだ。たましいは、老若男女みんな同一であって違いはない。だから自分の名前は記号として、改変せずに唯々諾々と受け入れるものなのだよ。

 

その潔さの中にこそ、自分を見限るとか、自分が大事大事ちゃんマインドからの卒業意志とか、自意識ゼロ過剰といった好ましさが含まれているのだ。わが身カワイイカワイイ自分が一番大事!的な保身からは何も生まれないどころか、周囲との軋轢が生じるだけなのは、もう言わなくても分かってるよね。(まちがった形での)個性重視とか、ペンネームとかラジオネームとかの風潮に流されて、うっかり自分の夢をネーミングやアカウントにしたりしないようにしよう。

 

事実、本名の伊藤春香名義のFacebookでは、寂しげでありながら、気負いのない、スッキリとした顔写真がTOPに採用されている。同じ人物でありながらいつも作りものの、寒々しい笑顔で目が笑っていない「はあちゅう」とは、実に違った顔に見える。「伊藤春香」なら炎上とは無縁の、みなに愛される、等身大で朗らかなお嬢さんのような気がする。

 

ぼくはこの「伊藤春香」の透明な素直さを支持する。つつましく清らかで、いい名前じゃないか。そこにはウソはないし強がりもない。したがって肩書きも無用だ。

 

<了>

 

ビートルズを葬り去るために。

ビートルズはなんといってもヴォーカルであった。ロックの長い歴史の中でも肉声の強度がズバ抜けている。特にあの2名。「その人の声でなければならない」という切迫した人格を反映したあの、のっぴきならないシャウトは、聞き手に居ずまいを正させる磁力がある。音楽鑑賞などという高みの見物的態度を反省させる契機がある。対峙を強要する素手の迫力がある。

 

なぜあれほどまでにうたがソウルフルであったのか。黒人音楽のソウルやR&Bと違うのは、破綻を隠そうとはしないところであった。ダイレクトでむき出しであった。生の濃厚な凝縮であった。声のかすれや割れをそのまま出し、ダブルボーカルなどの録音技術への逃げ、依存、処理は、後期でも最小限だった。また主要2名だけでなく、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターの声のトーンの違いもうまく緩用し、曲の構成に意外性とふくらみをもたせた。

 

ジョン・レノンは、あるときポール・マッカートニーに向かって「きみのは軽音楽だ」と言い放ったそうだ。

 

ビートルズは天才であったが、飽きと変節が結果的にうまくいったバンドだったからあとで天才と称された。

 

いちずにやりすぎるとストーンズやメタリカのように、うっかり長く続けられてしまう。ロックバンドには音楽のスタイルを確認すること自体がスタイルとなって、それが持続できる最大のポイントとなる領域がある。AC/DCなどはその領域に居続けているバンドだ。

 

表現活動の世界で、長年に渡ってアーティストを続けられちゃう人は、途中からウソの成分が増えてくる。

 

ぼくはオタクではないがオタクの「持続力」がうらやましい、と同時に疑わしい。よく飽きずにままごとを続けられるものだ。

 

ビートルズが70年に解散したのは、当時録音技術が飛躍的に向上し、声の荒れを平滑に、マイルドにコンプレッサーをかける傾向が顕著になったことへの抗議ではなかったか。うたを破綻させたままで録音するのでなく、商品化の発想のもとに、あらかじめ丸めてしまうことに「飽きた」のではなかったか。

 

また、ビートルズの解散要因のもうひとつは、録音作業やレコードやラジオ、テレビといった中間伝達物へのもどかしさ、イラ立ちではなかったか。ハンブルグ時代はあれだけ熱気のこもったかのようなコンサート活動も、いつしか直截的なものではなくなって、やめてしまった。だがもしかしたらハンブルグ時代も、じつは大して聴衆とは一体になれなかったのかもしれない。

 

レコードへの録音しか、声を届けるすべはなかったあの時代。

 

やはり音楽「活動」とは、不純なものなのだ。瞬発で溶解という性格を持つライヴ演奏と、それを続けるという、永続で固着という性格の経済的要請。こうした音楽の純正性との拮抗構造が、バンド活動のテーマにすりかわってしまう。これが近代音楽シーンの不幸であり、ビートルズはその期初告発者であった。あのヴォーカルの生生しさは、いまでも聴者を撃つ。

 

<了>