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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



自己正当化ばっかする人は、かえって自分に対する根深い裏切りを犯している

自説への批判に対して反論する際、「~って言ってるだけだ!」式の表現を使う人が以前からいるが、あの言いぐさがどうもなじめない。もっと言うと信用できない。「だけ」が余計である、という気がするのだ。どうして「~と言ってる」で文を止められないのか。そこにはいいしれぬ「よどみ」が潜む。ちょっと考えてみよう。

 

「だけ」を付けると言い訳じみて聞こえるのは僕だけではないだろう。「だけ」は被害者意識過剰のにおいがする。それは自分で自分を矮小化して、罪悪感(?)を糊塗しようと必死になる、そんな心理かと思う。

 

こう考えるとやはり、そもそも批判を受けた自説なり自行動に、最初からやましいというか腑に落ちてない部分が含まれているんではないか、と思い至る。自分の行為の毀損性に関し、かすかな自覚がある。だからそこを突かれると痛い。痛いから過剰に反応する。その防御のひとつが「だけだよ!」という、問答無用的・一方的・断罪的な「いいわけ」に表れてると思う。

 

そして「だけ!」と言い張ったらそこで話はピタリ終わる(ことが多い)が、言った方も言われた方もなにか釈然としない気分だけが残る。それは論理ではなく、気分で対話を終えるからだ。「だけ」という言葉を相手に向かって放ったとたん、そこにはどうしても主観の補強や本質そらし、そして責任の希薄化願望の「色」が出てきてしまう。したがって「だけ」を使った対話は稚拙であり、甘えのあわられである。甘えとはムリを押し付けることだが、無理が通れば道理は引っ込む。というわけで二の句はついぞ継がれず、会話は終了と相成る。

 

ということで、端的に言って「だけ」は甘え。「~って言ってるだけよ!」って言ってきたら甘えてきたと捉え、『「だけ」だから何よ?』とでも言って冷水を浴びせてあげましょう。これもいわゆるひとつのやさしさです。さてこれで「だけ」をめぐる考察に決着がつきました。

 

以降はそれを踏まえてどうするのかって話に移りますが、ここで提案があります。今後は「だけ」はもっと控えめに使おうじゃないか、ってことです。相手のいる会話において、対話者に向けた「だけ」は意識的に外そう。逆に言えば自分への内向き鼓舞表現としてのみ「だけ」の使用は許される、と言葉を再定義しようじゃないか、と。推奨例①:「あなたにとっては手間のかかる仕事も、僕がそれをやればいいだけですから」。推奨例②:「それって僕が段取りしとけばいいだけですよね?だったらやっておきますよ」。禁止用例:「おまえがやりゃいいだけだろうが」

 

これは持論でありますが、自分を平明に軽く、透明に起立させるコツ、つまり人生をより輝かしく生きていくためには、巷間よく言われる「自信をもって自己を確立すること」よりはるか以前に乗り越えねばならぬことがあります。それは自分を正当化する方向に導いてしまうあらゆる表現(「~だけ」に限らない)から、まずはしっかり距離を置てカラッポを保つことであります。そしてカラ、つまり性格や外見といった生来的な要素はハナから度外視することによってニュートラルな部分に自分を置き、言葉や態度の意識的非選択によって自分のコントロールというか自己抑制を学びつつ、自分で自分を染めていく。その練度結果としてしぜんに成熟する自信や個性のみがホンモノであります。で最終的にはそのホンモノのみを注視し信じていくことが、良く生きることと同意になるのであります。

 

こういう順番を経ずにきた人は劣等感と、その裏返しである自意識ばかりが過剰になってきます。たとえば「おれがキモくてモテないのはあいつらのせいだ」となります。こうなると被害者妄想で頭がいっぱいとなった勘違い野郎が完成し、そいつが無差別殺人などをやらかすのです。そうです、凶悪犯罪者の予備軍など、どこにでもいるのです。

 

口先だけで自己正当化ばっかり達者な人って、進歩をあやまった大人って感じで醜いでしょ?あれが反面教師ですよ。高知にいたりしますが。

 

そういや「~してるだけなんだよ!」ってのは、子供の言いわけで最もよく聞かれる乱暴な修辞法でもありますね。外部からの意見に聞く耳をもたぬ執拗な自己正当化は、かえって自己成熟に対する根深~い裏切りであります。他者や関係性にもっと素直に、もっと透明に。認めることを恐れず、なんでも受容しちゃいなさい。受動的態度と弱さはちがいます。

 

「だけ」に代表される言い訳文言の対外的使用の禁止。これは自己が未発達のままの自己に固着することを効果的に防ぐ策として、子供のうちから教育すべき最優先事項のひとつと思われます。こんな教育論聞いたことねぇけどな笑。

 

<了>

情報商材に搾取されないための心得。

「サクっと」「まるっと」「ゆる~く」なんて形容詞が出たら、それはお前を惑わす意図と考えて間違いない。「ゆるふわ」とかもそう。

 

これらの言葉は一般の商業出版でもよく見かけるけど、そうした本は詐欺とまでは言わないけどやっぱり中身ないもんね。立派な装丁や、名の知れた出版社でも、それだけで信用してはいけない。読みやすさやわかりやすさを目指すのは大事だけど、それは難しくて論理的なことに向き合わずにゴマかすこととは違う。

 

あとは語尾ね。語尾が「~ですなぁ」みたいなヒトゴト詠嘆調だったり、「~だよー」みたいな甘えた感じだったり、「....」であいまいさを演出するのは、詐欺であることを悟らせまいとする煙幕であります。おもしろくもないし自虐でもないのに「w」を多用する輩も同様。

 

(特にSNSが普及しきってからの)ネット界隈の詐欺師は、ネット以前のリアル詐欺師と決定的に違う特徴を持つ。それは詐欺師本人が自分すらも欺いてるのに、そのことに自覚がない点だ。搾取の自覚なき詐欺ほどの厄災は、世の中そうそうない。知らん仏より、知っとる鬼の方がマシってもんだ。

 

ということで気を付けよう。取られるものが金くらいだったら、後からでも挽回できるが、魂まで汚染されると回復がやっかいなときもあるから。それと今の時代、体裁だけ追ってると被害者が後になって加害者に回ることもあるし、ぼくだって誰かを陥れる可能性は持ってる。

 

現場からは以上です。

トップレベルの会談を支えた裏方が教える、よそでは聞けないここだけの話。

宮崎駿と押井守の合作劇場アニメ企画があるというので、犬猿の仲といわれる両者の間を取り持つコーディネーターの役回りを仰せつかった。これ以上ないほどのミッション・インポッシブルである。

 

三鷹や熱海や都内をいろいろ奔走し、企画内容をアレンジしたり関係各所を巻き込みつつ、両者を口説き続けて約半年、ようやく両御仁の口から「やってもよい」との言質をいただくところまでこぎつけた。

 

お次は両巨匠の直接会談セッティングだ。会談の場所、時期、内容、クロージングの落としどころと、米朝首脳会談並みの実務協議を事前カンファレンスとして繰り返す。想定できるいくつもの課題に対し、幾重ものシュミレーションを張り巡らし、資料を準備する。ひとつの課題をクリア―しても別の課題が出てくる。そのどれもが、関係者の調整を経ないと解決できない。ノートパソコンをひとつ潰してしまったほどの作業量を経て、ついにその日を迎える。

 

長幼の序を踏まえ、宮崎駿のいる部屋に押井守が入る段取り。規定の力を及ぼせるのはここまでで、当然ながら会話の内容まで規制するわけにはいかない。ここから先は、両者共に歯に衣を着せぬ発言で知られる巨匠同士の、相互リアクション芸だ。どんな第一声があるか…

 

入室したとたん押井守は、宮崎駿を指さしてこう言った。

 

「あんたのアニメは一から十まで、アニュモス*(東欧の伝説的人形アニメ作家)のパクリだ!」

 

その衝撃の言葉を受けて、映画ゴッドファーザーにおけるドン・コルレオーネ最期のシーンのように、宮崎駿はひっくり返って動かなくなった。

 

ここで夢から目が覚めた。

 

 

<了>

 

 

*アニュモス:夢の中のテキトーなネーミングである。なお、ホントにパクリかどうかは、これまた夢の中のテキトー設定である。

 

電話はそんなに悪いのか

自称インフルエンザーとか、界隈ホコリ芸人どもはこぞって電話がお嫌いのようだ。自分の時間が強制的に取られるから、なんだそうだ。電話はかかってきても出ない、電話を使ってる時代遅れの人とは仕事をしない、と公言してる輩すらいる。

 

いやまったく、おそるべき勘違いだ。

 

確かにいまはメールもあるしLINEもある。しかもひとくちにメールと言っても、電子メールの中身だって一昔前のプロバイダーメールほぼ一択から各種webメールへと多様化してるし、各種SNSにもそれぞれにメッセンジャー機能が備わっていて、連絡方法は実に多彩だ。

それらに比べると、もしもし会話ツールとして音声電話の後進性・単一機能性、オールドウェーブ感はあきらかだ。そこを鬼の首でも取ったかのように指摘して、電話に対してドヤ顔するのは、実にたやすい。

 

だけど、あとから登場・普及したものの方が便利に決まってるのだから、力点はそんなところにはないのだ。そんな前提部分なんかさっさと乗り越えて、次の視点に移れよ、と電話否定派には進言したい。

 

次の視点っていうのは、ひとつ上をゆく対応をするってことね。すなわち、「通信手段はどんな方法でもかまいません。あなたのお好きな方法でわたしにアクセスしてください。どんなツールでわたしにコンタクトを取って頂いても、可能な限りすばやく対応いたします。お気軽に、いつでもどうぞ」っていうこと。

 

電話がお嫌いなのは勝手だが、自分の勝手は相手とは違うかもしれないという「恐れ」がないのが、「勘違い」の元凶。電話のもつ「古さ」という、わかりやすいフラグに、安直にマウントしてるだけの自分の見えてなさ。これが勘違いのもうひとつの側面。「電話には出ない」だなんて自分の勝手を相手に押し付けてるだけで、わがままなガキと同じ。見かけはオープンで先進的なようでいて、内実は自閉症。みっともないなぁ、と早く気づけよ。

 

だいたい会話ツールがどんなに高度に多彩になっても、ツールの目的はコミュニケーションの契機づくりだ。これは電話よりはるか以前に、狼煙で通信しあったり、伝書鳩(!)を飛ばしてた時代から不変で、コミュニケーションの順番は、理解がいちばんあとで、まず最初に関係を取り持つことなんだ。相手の時間を奪取して、相手に干渉・浸食していくことなんだ。その先に、理解があったり決裂があるんであって、コミュニケーションはいわば乱暴な直接性をどこかの段階でムキ出しにしないと、はじまらない方法論なんだよ。

 

でも、そこからしか人の仕事ははじまらないし、それは生きることと同義なんだ。電話は電話ですぐれたインフラ大発明なんだよ、今でも。人の聴覚感性を鍛えてきたし、いろんなインフラの基幹技術になってきたし。そこを足蹴にするってのは、たとえて言えば、創業者の遺産で食ってるだけで、みずからは何も動かない孫が、おじいさんを古い存在ってだけでバカにしてるようなもので。

 

自称インフルエンザー、界隈チリ芸人よ。少し引いた目線で見れば、おまえたちは自分で獲得したものではない、世の中が用意した新しいツールをただ渡り歩いてるだけじゃないか。それはぼくだってそうなんだが、そこにタダ乗りしてものを申す以上、勘違いを抑え、少しでも謙虚になってみたらどうだい。そこに気づかぬ限り、話す内容もお里が知れてるよ。

 

<了>