お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



情報商材に搾取されないための心得。

「サクっと」「まるっと」「ゆる~く」なんて形容詞が出たら、それはお前を惑わす意図と考えて間違いない。「ゆるふわ」とかもそう。

 

これらの言葉は一般の商業出版でもよく見かけるけど、そうした本は詐欺とまでは言わないけどやっぱり中身ないもんね。立派な装丁や、名の知れた出版社でも、それだけで信用してはいけない。読みやすさやわかりやすさを目指すのは大事だけど、それは難しくて論理的なことに向き合わずにゴマかすこととは違う。

 

あとは語尾ね。語尾が「~ですなぁ」みたいなヒトゴト詠嘆調だったり、「~だよー」みたいな甘えた感じだったり、「....」であいまいさを演出するのは、詐欺であることを悟らせまいとする煙幕であります。おもしろくもないし自虐でもないのに「w」を多用する輩も同様。

 

(特にSNSが普及しきってからの)ネット界隈の詐欺師は、ネット以前のリアル詐欺師と決定的に違う特徴を持つ。それは詐欺師本人が自分すらも欺いてるのに、そのことに自覚がない点だ。搾取の自覚なき詐欺ほどの厄災は、世の中そうそうない。知らん仏より、知っとる鬼の方がマシってもんだ。

 

ということで気を付けよう。取られるものが金くらいだったら、後からでも挽回できるが、魂まで汚染されると回復がやっかいなときもあるから。それと今の時代、体裁だけ追ってると被害者が後になって加害者に回ることもあるし、ぼくだって誰かを陥れる可能性は持ってる。

 

現場からは以上です。

トップレベルの会談を支えた裏方が教える、よそでは聞けないここだけの話。

宮崎駿と押井守の合作劇場アニメ企画があるというので、犬猿の仲といわれる両者の間を取り持つコーディネーターの役回りを仰せつかった。これ以上ないほどのミッション・インポッシブルである。

 

三鷹や熱海や都内をいろいろ奔走し、企画内容をアレンジしたり関係各所を巻き込みつつ、両者を口説き続けて約半年、ようやく両御仁の口から「やってもよい」との言質をいただくところまでこぎつけた。

 

お次は両巨匠の直接会談セッティングだ。会談の場所、時期、内容、クロージングの落としどころと、米朝首脳会談並みの実務協議を事前カンファレンスとして繰り返す。想定できるいくつもの課題に対し、幾重ものシュミレーションを張り巡らし、資料を準備する。ひとつの課題をクリア―しても別の課題が出てくる。そのどれもが、関係者の調整を経ないと解決できない。ノートパソコンをひとつ潰してしまったほどの作業量を経て、ついにその日を迎える。

 

長幼の序を踏まえ、宮崎駿のいる部屋に押井守が入る段取り。規定の力を及ぼせるのはここまでで、当然ながら会話の内容まで規制するわけにはいかない。ここから先は、両者共に歯に衣を着せぬ発言で知られる巨匠同士の、相互リアクション芸だ。どんな第一声があるか…

 

入室したとたん押井守は、宮崎駿を指さしてこう言った。

 

「あんたのアニメは一から十まで、アニュモス*(東欧の伝説的人形アニメ作家)のパクリだ!」

 

その衝撃の言葉を受けて、映画ゴッドファーザーにおけるドン・コルレオーネ最期のシーンのように、宮崎駿はひっくり返って動かなくなった。

 

ここで夢から目が覚めた。

 

 

<了>

 

 

*アニュモス:夢の中のテキトーなネーミングである。なお、ホントにパクリかどうかは、これまた夢の中のテキトー設定である。

 

電話はそんなに悪いのか

自称インフルエンザーとか、界隈ホコリ芸人どもはこぞって電話がお嫌いのようだ。自分の時間が強制的に取られるから、なんだそうだ。電話はかかってきても出ない、電話を使ってる時代遅れの人とは仕事をしない、と公言してる輩すらいる。

 

いやまったく、おそるべき勘違いだ。

 

確かにいまはメールもあるしLINEもある。しかもひとくちにメールと言っても、電子メールの中身だって一昔前のプロバイダーメールほぼ一択から各種webメールへと多様化してるし、各種SNSにもそれぞれにメッセンジャー機能が備わっていて、連絡方法は実に多彩だ。

それらに比べると、もしもし会話ツールとして音声電話の後進性・単一機能性、オールドウェーブ感はあきらかだ。そこを鬼の首でも取ったかのように指摘して、電話に対してドヤ顔するのは、実にたやすい。

 

だけど、あとから登場・普及したものの方が便利に決まってるのだから、力点はそんなところにはないのだ。そんな前提部分なんかさっさと乗り越えて、次の視点に移れよ、と電話否定派には進言したい。

 

次の視点っていうのは、ひとつ上をゆく対応をするってことね。すなわち、「通信手段はどんな方法でもかまいません。あなたのお好きな方法でわたしにアクセスしてください。どんなツールでわたしにコンタクトを取って頂いても、可能な限りすばやく対応いたします。お気軽に、いつでもどうぞ」っていうこと。

 

電話がお嫌いなのは勝手だが、自分の勝手は相手とは違うかもしれないという「恐れ」がないのが、「勘違い」の元凶。電話のもつ「古さ」という、わかりやすいフラグに、安直にマウントしてるだけの自分の見えてなさ。これが勘違いのもうひとつの側面。「電話には出ない」だなんて自分の勝手を相手に押し付けてるだけで、わがままなガキと同じ。見かけはオープンで先進的なようでいて、内実は自閉症。みっともないなぁ、と早く気づけよ。

 

だいたい会話ツールがどんなに高度に多彩になっても、ツールの目的はコミュニケーションの契機づくりだ。これは電話よりはるか以前に、狼煙で通信しあったり、伝書鳩(!)を飛ばしてた時代から不変で、コミュニケーションの順番は、理解がいちばんあとで、まず最初に関係を取り持つことなんだ。相手の時間を奪取して、相手に干渉・浸食していくことなんだ。その先に、理解があったり決裂があるんであって、コミュニケーションはいわば乱暴な直接性をどこかの段階でムキ出しにしないと、はじまらない方法論なんだよ。

 

でも、そこからしか人の仕事ははじまらないし、それは生きることと同義なんだ。電話は電話ですぐれたインフラ大発明なんだよ、今でも。人の聴覚感性を鍛えてきたし、いろんなインフラの基幹技術になってきたし。そこを足蹴にするってのは、たとえて言えば、創業者の遺産で食ってるだけで、みずからは何も動かない孫が、おじいさんを古い存在ってだけでバカにしてるようなもので。

 

自称インフルエンザー、界隈チリ芸人よ。少し引いた目線で見れば、おまえたちは自分で獲得したものではない、世の中が用意した新しいツールをただ渡り歩いてるだけじゃないか。それはぼくだってそうなんだが、そこにタダ乗りしてものを申す以上、勘違いを抑え、少しでも謙虚になってみたらどうだい。そこに気づかぬ限り、話す内容もお里が知れてるよ。

 

<了>

ヘタウマとブサカワは世界を救う。

いきなり結論だが、おそらく日本にしか顕在していないふにゃふにゃ感性であるヘタウマやブサカワは、「うまい・下手」、「ブサイク・カワイイ」のガチガチ二項単純対立をコケにして、軟弱な体(てい)のままで越えてゆく上位概念だ。

 

で、この概念を堅持・発展させていけば、人類はあたらしい歴史を刻めるね、間違いなく。

 

ヘタウマとはwikipediaによれば、「物事には本来「ウマい」と「ヘタ」の相反する概念があり、上達するということはヘタな所からウマい所へ上ってゆくことで、二極の間には一筋の道が存在する。しかし、両者とは全く別の尺度である「オモシロい」という「第三極」が現れ、「オモシロい」物にメディアが注目すれば、大衆もこれに追随するという図式が成り立ってゆく。(中略)つまり技巧にかかわらず何らかのかたちで琴線に触れる作品であれば受け入れられるという文化的基層の下に、「ヘタウマ」文化が芽生えていったといえる。」(筆者注:ブサカワは比較的新語のせいか、まだウィキはないようだ)

 

ファッションでいえば20数年前のヴィンテージ大ブームも、ヘタウマやブサカワとおんなじ系列の価値観だったね。半世紀前につくられたジーンズや皮ジャンの枯れた経年変化の中に、単なる衣服を超える価値を発見し、古着の意味を変えたムーブメント。今やもう、完全に定着した視点だよね。

 

イラストでも文字でも歌唱でも、技巧よりも味のある方を優先するというこの姿勢は、対象を一瞥して単にヘタとかブサイクと素通りするのでなく、対象に踏みとどまって凝視・思考する余裕がないと生まれない。だからこれは高度なお遊びだ。従来からある複数の価値をヒネって交錯させて止揚し、適切なネーミングで新カテゴリーを創設するという、既得のものをネジる遊び。しかも全体として力まずイキまず、あくまでポップに、どこまでもライトに。要するに人の高次元機能である。

 

主に若者の間でヘタウマという言葉が70年代にでき、ブサカワという言葉がここ20年くらいで市民権を得たこの語感は、戦後に初めて発生したわけじゃなく、ワビさびとか、粋とか、背後にひそむものをたしなむ感性を根底に持つ僕らが、世界に初めて打ち出した感性なんじゃないかな。それも戦後の高度成長期を経て、物質的豊かさを享受できる人類初の状態を経て、なんでも相対的に見ることが可能になった僕らの、おニューな詫び寂びであり、ナウな粋。

 

なんで昔そういう価値観ができたかっていうとさ、世の中の95%以上はヘタでブサイクに決まってたから。しかもうまさとカワイさを目指したところで成功例は少ないのもわかってた。だったらそのハザマで遊んじゃえ、っていうね。ポップだなぁ。海外のものをモノマネして改良して、新たな価値をつけてふたたび輸出する、戦後日本のそうしたお家芸も、ハザマに価値を見出すワビさび的な姿勢が生んだ、ひとつの芸風なんだね。

 

アメリカみたいになんでもべたーっと単一に塗りこめて、ひとつのものにひとつの価値のみを封じ込めて落着する横暴さ(アメリカのお菓子はなんと毒々しい色しとんじゃ!)よりも、上に書いたような価値のズレに着目する日本の方が、ひとつ上を行く態度なんだよね。アメリカの価値観だとアンディ・ウォーホールとかバスキア程度の「ずらしアート」で革新的なんだから。

 

といってもアメリカにはジム・ジャームッシュとか、トム・ウェイツ、ジャック・ホワイトがいるからまだ救われるけど。

 

だけど彼らもヘタウマとかブサカワのネーミングにはピンとこないだろうなぁ。英語はそーいう気分的なものを掬い上げる機能が弱いから。禅みたいなブランドと英語圏で称される無印良品も、英語では(「No mark」とかじゃなく)「Muji」でしょ。あ、これは固有名詞だからか。でもでも、言葉が先に立たないと、現象の発見が遅れるんだよね。

 

ということで、ヘタウマとブサカワの持つ止揚の世界、調停力がモノを言う価値観は、憲法第9条なんかよりも、軟弱パワーで世界を平和に導くのであります。

 

<了>