浮遊感のある曲、肯定感しかない歌。
それが ”ドラッグみたいなもん”という酩酊の詞で表現できる時代。
今に通じないだろうか
この当時のバブルガム・ヒットとしては秀逸。特にオルガン。
長年愛聴している。
生き方も顔も何もいいとおもえないある芸人の言葉で、たったひとつ内実を感じた、しっかりした言葉がある、それは、
「生きてるだけでめっけもん」というやつだ。
そう、生きてるだけでひとはすべて尊い。と同時にみんな醜い。その点では真理は実に公平にできている。
世間では他人を評して一流とか三流とか平気でよく言うが、そうやってひとの属性を測ることは、すでに醜さの露呈である。それは底辺層である、精神的な。
お前はどうなんだお前は。
ひとはみな粛々淡々と生活を積み重ねることしかできない。そうしていて時たまフレッシュな認識に出会って、自分の中に新たな回路ができる。自分が切り裂かれる。その自分の中にできた瞬間の位相断層~その対象化~考察過程こそが、人が最も着目すべきポイントであり、本当の勉強・学習の起点だ。それ以上の価値は、あなたにとってこの世のどこにもない。それが生きることや人生の正体であり、また、その出会いの橋渡しをすることにしか、いわゆるメディアの存在意義はない。
どうでもいい芸人の、前述した何気ない言葉に照射された僕の経験が、そう教える。したがって人はみな、いつだってムキ出しのまま。若いまま。
ぜんぶ当たり前のことだ。他人をとやかく言ってるヒマなどないってことだ。
人に助言するときだって、自分だったらこうするね、以上のことなんか僕は言えないね。子供に対してだってそうだ。自分の経験を述べると同時にそこにニュートラルな味付けしかしない。出しゃばらない。その留保が、ぼくからあなたへの礼儀の贈り物だ。
「批評」でなく「非評」を、「協力」でなく「参加」を。よりはっきりと、みずからすすんで自分の態度を開放していくことが、よく生きるコツ。そのあとだ「生きてるだけでめっけもん」って言えるのは。なぜなら「生き」てなければめっけもんも何もないから。
<了>
リリカルで、叙情的で、凛としてて、静謐で、清々しい。
アレンジも音の組み立ても、立体感がありながらもわざとらしくなく、オーガニックに響く。
この頃(1971年)のホール&オーツこそ、音楽。キミとぼくの境目を溶かす、本当のコミュニケーション。岡田史子のマンガのように刺さるこの滋味。人は単に人であるのでない。人は連鎖の結束点だ。人がいて人に魅了し魅了される、そのこと以外に、この世に素晴らしいものなんて何もない。分かってるだろ。
かくも包容力のある、このような優れた音は、相互の浸潤こそが真理への道程という直観を支える、そんなか細い糸。豊かにしなる蜘蛛の糸。
キミは何もわかっちゃいないが、すべてを「知っている」。ぼくはキミに降参だ。
<了>
イオンの家電コーナーにて発見。イオンてのがまた渋い。これじゃ荻野目洋子も復活するわけだ。