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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



トップレベルの会談を支えた裏方が教える、よそでは聞けないここだけの話。

宮崎駿と押井守の合作劇場アニメ企画があるというので、犬猿の仲といわれる両者の間を取り持つコーディネーターの役回りを仰せつかった。これ以上ないほどのミッション・インポッシブルである。

 

三鷹や熱海や都内をいろいろ奔走し、企画内容をアレンジしたり関係各所を巻き込みつつ、両者を口説き続けて約半年、ようやく両御仁の口から「やってもよい」との言質をいただくところまでこぎつけた。

 

お次は両巨匠の直接会談セッティングだ。会談の場所、時期、内容、クロージングの落としどころと、米朝首脳会談並みの実務協議を事前カンファレンスとして繰り返す。想定できるいくつもの課題に対し、幾重ものシュミレーションを張り巡らし、資料を準備する。ひとつの課題をクリア―しても別の課題が出てくる。そのどれもが、関係者の調整を経ないと解決できない。ノートパソコンをひとつ潰してしまったほどの作業量を経て、ついにその日を迎える。

 

長幼の序を踏まえ、宮崎駿のいる部屋に押井守が入る段取り。規定の力を及ぼせるのはここまでで、当然ながら会話の内容まで規制するわけにはいかない。ここから先は、両者共に歯に衣を着せぬ発言で知られる巨匠同士の、相互リアクション芸だ。どんな第一声があるか…

 

入室したとたん押井守は、宮崎駿を指さしてこう言った。

 

「あんたのアニメは一から十まで、アニュモス*(東欧の伝説的人形アニメ作家)のパクリだ!」

 

その衝撃の言葉を受けて、映画ゴッドファーザーにおけるドン・コルレオーネ最期のシーンのように、宮崎駿はひっくり返って動かなくなった。

 

ここで夢から目が覚めた。

 

 

<了>

 

 

*アニュモス:夢の中のテキトーなネーミングである。なお、ホントにパクリかどうかは、これまた夢の中のテキトー設定である。

 

電話はそんなに悪いのか

自称インフルエンザーとか、界隈ホコリ芸人どもはこぞって電話がお嫌いのようだ。自分の時間が強制的に取られるから、なんだそうだ。電話はかかってきても出ない、電話を使ってる時代遅れの人とは仕事をしない、と公言してる輩すらいる。

 

いやまったく、おそるべき勘違いだ。

 

確かにいまはメールもあるしLINEもある。しかもひとくちにメールと言っても、電子メールの中身だって一昔前のプロバイダーメールほぼ一択から各種webメールへと多様化してるし、各種SNSにもそれぞれにメッセンジャー機能が備わっていて、連絡方法は実に多彩だ。

それらに比べると、もしもし会話ツールとして音声電話の後進性・単一機能性、オールドウェーブ感はあきらかだ。そこを鬼の首でも取ったかのように指摘して、電話に対してドヤ顔するのは、実にたやすい。

 

だけど、あとから登場・普及したものの方が便利に決まってるのだから、力点はそんなところにはないのだ。そんな前提部分なんかさっさと乗り越えて、次の視点に移れよ、と電話否定派には進言したい。

 

次の視点っていうのは、ひとつ上をゆく対応をするってことね。すなわち、「通信手段はどんな方法でもかまいません。あなたのお好きな方法でわたしにアクセスしてください。どんなツールでわたしにコンタクトを取って頂いても、可能な限りすばやく対応いたします。お気軽に、いつでもどうぞ」っていうこと。

 

電話がお嫌いなのは勝手だが、自分の勝手は相手とは違うかもしれないという「恐れ」がないのが、「勘違い」の元凶。電話のもつ「古さ」という、わかりやすいフラグに、安直にマウントしてるだけの自分の見えてなさ。これが勘違いのもうひとつの側面。「電話には出ない」だなんて自分の勝手を相手に押し付けてるだけで、わがままなガキと同じ。見かけはオープンで先進的なようでいて、内実は自閉症。みっともないなぁ、と早く気づけよ。

 

だいたい会話ツールがどんなに高度に多彩になっても、ツールの目的はコミュニケーションの契機づくりだ。これは電話よりはるか以前に、狼煙で通信しあったり、伝書鳩(!)を飛ばしてた時代から不変で、コミュニケーションの順番は、理解がいちばんあとで、まず最初に関係を取り持つことなんだ。相手の時間を奪取して、相手に干渉・浸食していくことなんだ。その先に、理解があったり決裂があるんであって、コミュニケーションはいわば乱暴な直接性をどこかの段階でムキ出しにしないと、はじまらない方法論なんだよ。

 

でも、そこからしか人の仕事ははじまらないし、それは生きることと同義なんだ。電話は電話ですぐれたインフラ大発明なんだよ、今でも。人の聴覚感性を鍛えてきたし、いろんなインフラの基幹技術になってきたし。そこを足蹴にするってのは、たとえて言えば、創業者の遺産で食ってるだけで、みずからは何も動かない孫が、おじいさんを古い存在ってだけでバカにしてるようなもので。

 

自称インフルエンザー、界隈チリ芸人よ。少し引いた目線で見れば、おまえたちは自分で獲得したものではない、世の中が用意した新しいツールをただ渡り歩いてるだけじゃないか。それはぼくだってそうなんだが、そこにタダ乗りしてものを申す以上、勘違いを抑え、少しでも謙虚になってみたらどうだい。そこに気づかぬ限り、話す内容もお里が知れてるよ。

 

<了>

ヘタウマとブサカワは世界を救う。

いきなり結論だが、おそらく日本にしか顕在していないふにゃふにゃ感性であるヘタウマやブサカワは、「うまい・下手」、「ブサイク・カワイイ」のガチガチ二項単純対立をコケにして、軟弱な体(てい)のままで越えてゆく上位概念だ。

 

で、この概念を堅持・発展させていけば、人類はあたらしい歴史を刻めるね、間違いなく。

 

ヘタウマとはwikipediaによれば、「物事には本来「ウマい」と「ヘタ」の相反する概念があり、上達するということはヘタな所からウマい所へ上ってゆくことで、二極の間には一筋の道が存在する。しかし、両者とは全く別の尺度である「オモシロい」という「第三極」が現れ、「オモシロい」物にメディアが注目すれば、大衆もこれに追随するという図式が成り立ってゆく。(中略)つまり技巧にかかわらず何らかのかたちで琴線に触れる作品であれば受け入れられるという文化的基層の下に、「ヘタウマ」文化が芽生えていったといえる。」(筆者注:ブサカワは比較的新語のせいか、まだウィキはないようだ)

 

ファッションでいえば20数年前のヴィンテージ大ブームも、ヘタウマやブサカワとおんなじ系列の価値観だったね。半世紀前につくられたジーンズや皮ジャンの枯れた経年変化の中に、単なる衣服を超える価値を発見し、古着の意味を変えたムーブメント。今やもう、完全に定着した視点だよね。

 

イラストでも文字でも歌唱でも、技巧よりも味のある方を優先するというこの姿勢は、対象を一瞥して単にヘタとかブサイクと素通りするのでなく、対象に踏みとどまって凝視・思考する余裕がないと生まれない。だからこれは高度なお遊びだ。従来からある複数の価値をヒネって交錯させて止揚し、適切なネーミングで新カテゴリーを創設するという、既得のものをネジる遊び。しかも全体として力まずイキまず、あくまでポップに、どこまでもライトに。要するに人の高次元機能である。

 

主に若者の間でヘタウマという言葉が70年代にでき、ブサカワという言葉がここ20年くらいで市民権を得たこの語感は、戦後に初めて発生したわけじゃなく、ワビさびとか、粋とか、背後にひそむものをたしなむ感性を根底に持つ僕らが、世界に初めて打ち出した感性なんじゃないかな。それも戦後の高度成長期を経て、物質的豊かさを享受できる人類初の状態を経て、なんでも相対的に見ることが可能になった僕らの、おニューな詫び寂びであり、ナウな粋。

 

なんで昔そういう価値観ができたかっていうとさ、世の中の95%以上はヘタでブサイクに決まってたから。しかもうまさとカワイさを目指したところで成功例は少ないのもわかってた。だったらそのハザマで遊んじゃえ、っていうね。ポップだなぁ。海外のものをモノマネして改良して、新たな価値をつけてふたたび輸出する、戦後日本のそうしたお家芸も、ハザマに価値を見出すワビさび的な姿勢が生んだ、ひとつの芸風なんだね。

 

アメリカみたいになんでもべたーっと単一に塗りこめて、ひとつのものにひとつの価値のみを封じ込めて落着する横暴さ(アメリカのお菓子はなんと毒々しい色しとんじゃ!)よりも、上に書いたような価値のズレに着目する日本の方が、ひとつ上を行く態度なんだよね。アメリカの価値観だとアンディ・ウォーホールとかバスキア程度の「ずらしアート」で革新的なんだから。

 

といってもアメリカにはジム・ジャームッシュとか、トム・ウェイツ、ジャック・ホワイトがいるからまだ救われるけど。

 

だけど彼らもヘタウマとかブサカワのネーミングにはピンとこないだろうなぁ。英語はそーいう気分的なものを掬い上げる機能が弱いから。禅みたいなブランドと英語圏で称される無印良品も、英語では(「No mark」とかじゃなく)「Muji」でしょ。あ、これは固有名詞だからか。でもでも、言葉が先に立たないと、現象の発見が遅れるんだよね。

 

ということで、ヘタウマとブサカワの持つ止揚の世界、調停力がモノを言う価値観は、憲法第9条なんかよりも、軟弱パワーで世界を平和に導くのであります。

 

<了>

むかしAKIRAという、マンガを超えたマンガがあった。

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AKIRA (漫画) - Wikipedia


AKIRAという大友克洋のコミックがあった。独自の世界観が圧巻の名作だ。

 

AKIRAの世界観。それは日本的な土着性、(陰湿な)伝統性、ムラ社会的な因循姑息な閉鎖性と、近代以降のカラカラにドライな科学至上主義、もしくは科学的なるものへの無批判礼賛主義の二項を対立させた世界を下敷きにし、その2大勢力の対立を、意思を持たない超越者、AKIRAの宇宙球体がすっぽり覆っている、というストーリー構造になっている。そこではネオトーキョーというのは、単なる舞台、素材だ。

 

2020年東京オリンピック開催を、週刊ヤングマガジン連載開始の1983年時点で予言し、チェルノブイリ事故に近似の現象を予見した。AKIRAはジャンル的には近未来SFであり、イメージ的にはサイバー系であるが、人智を超越した超能力を描いただけのたんなるSFではない。


ひとことでいうとそこで描かれた超能力めいたものは、人間の根源的なチカラのメタファーであり、AKIRAとは、なによりも人間を描いたヒューマンドラマであった。人間、もっと具体的にいえば、自分と他者の関係を、宇宙規模で描くというのが、大きなテーマである。


特にアキラ覚醒以降のストーリーに顕著なのだが、目くらましのように巨大な光の球が何度か現れ、そのたびに地上人は右往左往し、紛争もあって民衆が虫けらのように死んでいく描写が繰り返され、物語はシリアスで殺伐とした風景が基調になってしまう。


しかし、そこには生きる知恵がふんだんに封じ込められている。AKIRAとは、人生の優れた指南書なのである…この指摘が、この記事とそれに続くエントリーでのテーマである。


AKIRA以前に超越存在を描いたものとしては「2001年宇宙の旅」や、「童夢」など大友克洋の一連の旧作があったし、近未来描写は「ブレードランナー」やフィリップ・K・ディックの世界という「お手本」があった。荒廃した世界観は「マッドマックス2」や「幻魔大戦」、メビウスの影響があったが、何よりも「AKIRA」には本格ハードSFとしての重厚な世界観が横溢しており、一読してマンガというジャンルにはあだたぬ奴、という風格があったのである。


はじめて絵を見たときの、ダイナミックな構図には、コマから本から、絵の圧が飛び出してくるような迫力であった。

トメ画の迫真性は実写映画もかくや、と唸らせるものがあり、一方アクションシーンは息をもつかせぬ圧倒的な疾駆感で読み手に迫る。


細い書き込みひとつひとつに、そうでなければならない必然があり、逆に描写に迷いやゴマカシはなく、メカ設計、キャラ設定、話の運び、そのすべてにおいて破綻がない。作者の大友本人も、二度と超えられなさそうな巨大すぎる仕事であった。


見たこともないガジェットの数々。例えば大きくていかにも開発黎明期といったデザインのレーザー砲、フライングポッドや、炭団と呼ばれる自警ロボットといったメカニック。金田専用のあのバイク。


現実的なところと地続きになった、それでいていかにも実現できそうで出来ない、絵空事とは言い切れないメカの数々。すべてが独創的であるのは、私などが申し上げるまでもない。

 

カプセル(クスリ)やアーミー、暴走集団のビジュアルなどに随所に見受けられる、設定と絵の何気なくも、とんでもないクオリティー。かん口令や第7警報発令など、いかにも現実にありそうな法令業態措置といった、いろんなものが出てくるが、物語はあくまで本筋を追ってゆく。



すべての構図、絵、キャラクター設定、筋立てには、AKIKRAに限らず、作者の巧妙にして繊細な意図が隠されている。このブログは、そこを独断的に紐解くものである。

 

記事の内容は多少は流行のナゾ本めいてもいるが、たとえばSOLが何の略であるのか、とか、大佐の苗字は?などといったマニア的豆知識は、筆者が特に興味を持てないので書くつもりはなく、AKIRAを題材にした人生論めいたものになろう。それもこれも、つまりエンターテインメント、サイバーSFの衣をかりて人生を描くということこそが、作者の大友克洋の想定範疇だったであろうからだ。

 

途中になんども中断はあったものの、足かけ8年という長期に渡る連載。
世界中の商業刊行物の中でも最もハードな週刊連載という超ハイペース。
作画のクオリティもストーリーのテンションもいっさい落とすことなく、あとから読み直してもプロットに矛盾はなく、構成にも破綻がみられない。
この超弩級の巨大作に、最大限のリスペクトを捧げます。続く。

 

<了>