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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



変な箸の持ち方は、ほとんど公害。

箸使いがおかしな人ばかりになった。それはもう、見事なまでに目を覆いたくなるような無残な光景である。テレビの中の食レポも、飲食店における客も、箸を三角に正確に操って所作も優美に食べる人はもはや少数派に転じた。若者だけでなく、老人も、女性もである。これはいうなれば人が、ちっぽけな自分の殻、ちゃちい個性に閉じこもる醜さを、無反省に露出している光景である。他人の食事風景なんか、もはやまともに視野に入れられない。

 

箸が正確に持てないと見た目の審美性が下がるだけでなく、食べ物のホールド力が弱くなり運ぶ距離が短くなるため、結果として品のない犬食いスタイルになりやすい。人の食事作法は世の東西を問わず、頭は高く保持しておいて、箸やフォークといったツールの上下運動によって食べ物を口元に運ぶのが基本であると、古来より決まっておる。にもかかわらず現代では、箸の正しい使い方はないがしろにされたままである。

 

箸の使い方とは、寄せ箸などの禁忌事項と共に、歴史の中で先人たちによって何万何十万の試行錯誤を経たうえで洗練されてきた、由緒正しい系統である。素直に従ってれば、それでよい。

 

…などと言うと「おまえ何様のつもりだ」「箸の持ち方など個人の自由だ」「他人に迷惑をかけなければ何をしても許されるのがあたりまえ」「世間の流儀を押し付けてくるやつはエゴイストで嫌いだ」などという反発が出てくる。しかしこのテの反発は、発言者の魂にとってまず良くないことである。難しく言えば、戦後民主主義に関する最も醜い曲解であるからだ。

 

それは相手の考えを尊重するという、一見したところ公正であるがその実は腰の引けた不干渉な態度であり、自分しか見えてない精神の穴倉化の例であり、自己批判能力の欠如であり、個が個にとどまることである。自分が個にとどまることは個人性の強化に思えるが、それは自分が自分にふるうファシズムなのである。本当の自分とは、もっと大きなものに隷属している存在だ。それは表面的には例えば礼節とか規範とかであるが、本当はその本丸に鎮座する、ある種の普遍に与する帰属である。箸を正しく持ったり、食事の作法に気を使うことは、なによりも、一緒に食卓を囲むかけがえのない外者のためである。いいかえれば、自分は常に後回しでいいってことへの、美しい謙虚さの表出である。

 

浅薄な自己主張と、感情による直情的で主情的な反乱なぞ、ここ数十年でぼくはもう見飽きたよ。忘れ去られた「滅私奉公」という、この古めかしい言葉の正しい解釈と実践こそ、いま肝に銘じたい。

 

<了>