なんたる愚鈍、なんたる浅ましさ
「趣味でみんなを元気にする」「パワーをもらった」「好きなことに熱中できる幸せ」「じぶんに自信を持つ人生」etc…全部気の抜けたおためごかし
タイムライン上のこうした「前向き」な心持ちは、テロと殺人と戦争の温床になるであろう。
あ?なにいってんの?と思った人も、そういう類いだ、つまり、争いの予備軍。
周囲との調和をわざわざ強調するのは逆の意味である。孤独。自分しか見えてない証拠である。そして、そいつは未だそいつ自身ですらない証拠。
ひとは幸福な個人たらねばならぬとの幻想がある。しかるに「幸福」とやらも「個人」とやらも、本来的にこの宇宙のどこにも存しない。その類似品ならわんさとある。幻想なら影はいっぱいできるから。こんなこと、じつはあなた、分かってるよね。
想い出してもみてよ。「それは個人の自由だから…」「ひとそれぞれだから…」という腰の引けた態度が、これまでどれほどの暴挙を、愚劣を、黙殺し、横行させてきたのかを。自分すら欺く方便だよ、それは。なぜ「おまえ、それは間違ってる」と言ってあげられないのか。優しさをはき違えすぎ。自分が自分にいちばんやさしい…これが現代を覆うまやかし肯定性の正体である。
アイデンティティーなど追い求めるな。それは、自分の影でしかない。
不安が自分の主人になっている。不安なのはスタイリングの違いを拡大しながら見てるからだ。隣の芝生は青い式の。
でもそうじゃなくて、これからは同じところに目を奪われ続けちまうのだ。ミミズもオケラも雑草も、みんな同じという発想体系、新しい習慣づけである。人はみんな誤差の集積なのと同じ位相で、同時に奇跡のカタマリだ。さすれば何にも怖くない。死すら「お迎え」である。
で、同じところにどう目を奪われるのか?で、その人の純度、知力、感性が決まる、と思っていい。そしてつぎには、その「発見」をみんなに報告するのだ。それが報告の連鎖となったら、キミと響き合えるだろう。これが人の本当の仕事。ことばの本当の効能。webが役に立つのはそこしかない。ほかのは、ぜんぶノイズ。
自分とは、宇宙律を抱えて浮遊するものであり、新陳代謝のモルモットである。自分起点のラットレースに、みんなで追随する者のうちの一人である。全があってはじめて個も成り立つ。
人は毎日何かを終えているし、また、自然に終わっている。「終えた記憶」をあいまいにせず、後始末をつける、終わりを引き受ける。そして次の萌芽を受けとめる。なにかを期待しながら待つことなど、この上なく尊大な態度であるので切り捨てておく。この繰り返しが生きることじゃないのか。
ぼくは突拍子もないヘンタイだよ。いつもだれかを希求してやまないヘンタイだ。このブログなんかまさにそう。でも希求の突拍子のなさはみんな持ってる。だれもが持つそのヘンタイ性が、文字通りの「変態」であること。そこを見つめるのが、ぼくの流儀だ。
SNSか。もうちょっとマシな希求の新表明スタイルかと思ったが。まぁこんなブログのネタ元にはなるくらいの価値はあるか、よよいのよい。
<未了>