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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



足下に潜む闇。

去る11月8日に起きた福岡の博多駅前道路陥落事故は、発生から約1か月が経過した現時点で、もうとっくに収束している、もはや忘れかけの旧聞である。それどころか発生から1週間で地は埋め戻され、平穏はあっという間に戻ってきた。

 

まるで何ごともなかったかのように。

 

道路陥没の直後における後処理は72時間程度で一応の収束を見せたという。また、崩落が始まった際の初期対応の迅速さ、臨機応変さ、そして復旧のスムーズさは、日本の機能社会の、ある面での美談である、という。

 

しかしそんなものはいつものように、この社会の後処理における手際の良さの話でしかない。日本は、後始末の段取りが小ざかしいまでにウマい国No1だ。この70数年がその「巧さ」の歴史である。

 

そんな後始末よりはるかに問題なのは、人が踏みしめてるつもりの大地が、実は「大地」などではない、という戦慄の方だ。

都会の地面は砂上の楼閣の上に立ったアスファルトでしかなく、地下には大きな空洞とすべてを削る地下水脈を抱えていて、いつまた窪むとも知れぬものであるという、このそこはかとない不安。

都市とは現代社会とは、いつ崩落するかもしれない脆弱な基盤の上に立つ砂上の楼閣であって、地下鉄など正気の沙汰ではないインフラである。そのほかに地震だってあるのだから。

ジャマなものは埋めちまえ、という人為的短絡が真に意味し、環境が人にしっぺ返しするこのサイクルは何なのか。それがあの事象の「本質」。それは、いくらボーリング調査しようと、土木の最先端技術を集結しようと、原因究明などできない真因。

 

その本質の噛み締めすら与えないほどスピーディーな、かの地の「復旧」に、いい知れぬ痛痒を感じる。空白は足下にいつもあり、崩落して人を飲み込むその闇は、いつも手ぐすね引いて人の、車の、インフラの転落を待つ。その崩落を準備するのもまた、人である。地下開発計画自体は緻密なものだろう。だが電力が、地下鉄が、ケーブル類が、トータル性をわきにどけて我が物顔に地下を掘って大地を蹂躙することへの、根本からの反省はない。

 

あの博多の大規模崩落現場付近は、固い地盤なんだそうだ。でもそんな地質学上の定説をあざ笑うかのように、崩落個所は実に醜悪な断面を見せつけていた。ビルの基礎の杭がかくも醜いとは知らなんだ。歯医者でよく見かける、歯周病で歯の根元がやせ細り、指で歯を押しただけでグラついてしまうような腐った根元の写真を、あの福岡の現場は想起させた。その他は漆黒の暗黒。汚水が噴出し、信号機や電信柱をいとも簡単に飲み込んでしまう闇。

 

かくも無残にして醜い道路の断面を、不便なままムキ出しに晒していたほうが、人の意識改革に、かえってよくはなかったか。

 

ひるがえって、東京。少し前のニュースによれば、都下は、知事が電柱の地下化を推進するのだという。たしかに無秩序に延長交錯された電線は醜かろう。地下化するのも、よくは知らないがイマドキの技術なら、多少はスマートに推進できるだろう。

 

だが利便性の急速な発展に伴って発露してきた電線・電柱のような「醜さ」を、別の合理性で糊塗することは、別種の闇を生み出す。そしてそれは人に「復讐」する。その東京の場合のその「復讐」は、福岡のケースとは違ってスケールが大きい分、人命をたやすく奪うだろう。

 

有事の際に首都圏ではよく帰宅困難問題などが取りざたされるが、帰還できる住居が残存してることが前提の災害対策など、牧歌である。一瞬ですべてを、根こそぎ喪失して跡形も残らない、その真の意味を、3.11で噛み締めてこなかったのか。博多駅前も南三陸町も、東京の明日の姿だ。

 

「男は家を出たら七人の敵がいる」なんて時代ではない。今は「外に出れば百の復讐が待ち構えている」だ。おお怖い。引きこもってる方がどれだけマシか。

自宅が崩落地盤の直上にあるかもしれないこの私もまた、牧歌を謳歌してるおろかな民であろう。

 

<了>