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「シン・ゴジラ」(7.29公開)が楽しみすぎる。その前にゴジラのおさらい。

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*仙台駅前PARCOでゴジラ展やってたので撮影。

 

youtu.be

ゴジラ全28作のダイジェスト動画。戦後のゴジラという「対決」や「打倒」の方法論変遷がよくまとめられていて、思わず引き込まれるように観てしまった。なにを隠そうぼくは怪獣映画が大好きなのだ。で、2つほど思うところがあったのでそれを記していきたい。

 

ひとつは、ゴジラ単体で物語を構成しないで周辺の新怪獣で盛り上げるのは、キャラビジネスの要請への迎合であり、無用なバラエティー作劇感への逃げである点。やっぱり製作側にとってゴジラ映画は、まず集金が頭にあるのであって、観客にしっかりと向き合う姿勢なんてのは最後なんではないかな。90年代のゴジラを1作観たことがあったが、ジュラシックパークの劣化コピーみたいな代物でボロボロの出来だったな。ゴジラばっかり「対決」させても、製作が客と対峙してないと映画は生きないでしょう。

 

2つ目に思ったのは、ゴジラは時代と共に、外部の事象やその時々のトレンドを目いっぱい取り込んだいろんな敵と戦ったり共同戦線を張ったりしているが、こうして時系列に対決の歴史を辿っていくと、その中でひとつの転機になってるのは、70年代初頭に出てきた、メカなんとかとの対決であるということだ。

 

これはおそらく同時期のアニメロボットやメタル戦隊ものとかの直接的影響であろうし、背景には高度成長期のロボットへの無邪気なあこがれがあったであろう。

 

この新トレンドにより、それまでゴジラが相手していた生体敵はオールドスタイルに後退し、その後のゴジラはバイオテクノロジーから生まれたビオランテだとか、宇宙から来たスペースゴジラだとか、メカ系の変形といえるものも含めた敵のオンパレードになった。

 

こうしてキングギドラも機械化を果たし、敵は作を重ねるごとにギャンギャン大型化し、対決は東京全土を破壊しかねないほど派手なものになっていった。なんでもメカに足し算していき、なんでも合体に収斂するワンパターン。これはつまりインフレである。過去何度もゴジラシリーズが中断してるのは、契約とかの事情でない。こうした際限のない戦いの中で、シリーズの仕切りなおしが、都度必然的に迫られてきたからである。

 

また、そうしたメカチックなものは、背後に糸を引く存在がいるのだが、ゴジラは背後の真犯人ではなく、眼前に現れた敵と消耗的に争うのみである。どうもこの辺がいろんな意味でゴジラ方法論の限界ではなかろうか。

 

対決するものとがっぷり四つに組むことで、高次の自分をつむぎだす…これは人になぞらえても成長には欠かせないステップであると思われるが、その対峙する相手が機械の系譜であるというのは、現代の人の世で言えばアプリやAIなのではないかな。こちらとの、それこそ背後に隠された、目に見えない隷属という名の「争い」の方も、際限がなさそうだ。

 

そして、こちらの方の闘争では、仕切りなおしは無効なのである。人の生は中断するわけにはいかないのだから。

 

さてわがマエストロ、庵野総監督の指揮する「シン・ゴジラ」は何と対峙し、乗り越えるのだろうか。コピーによれば「虚構」だそうである。詳細は不明だが、このすべてが相対化されきった2016年の地平におけるゴジラの方法論は、確かにそれしかないだろうな。

 

shin-godzilla.jp

 

<了>