身の回りにありふれてて、しかもあってもなくてもいいものに、託された意味は果たしてあるのか?っつーのを考えてみました。初回のネタは社会に長年存続してるのに存在感の薄いものである「帽子(ハット)」です。
ぼくは帽子ファン、とりわけつばのある、いわゆるハットのファンである。
ただハットといってもなんでもいいわけじゃない。
そこらへんでアンダー5千円とかで売ってる普通のハットでは、すでに飽き足らなくなっている。
ぼくが志向するのはクラシカルでヴィンテージな帽子、具体的にいうと1920~1960年代までにつくられた、当時そのままのハットである。2016年のいまでも、3~5万円と多少値は張るが、まだまだ実物は手に入る。それに状態のいい物だって多い(帽子ひとつに5万円とは!と思う方は、ここから先は読まんでもよろしい。たった5万円しかしないんだ!という価値観の方のみ、どうぞ読んでください)
フェルトの高級素材にファーフェルトという、ヴェルベットみたいないい手触りの素材があって、昔のハットはそのファーフェルトで作られているものが多い。
そのせいなのか、作られてから半世紀以上経過しても現存してるハットが意外に多いのである。
(反対にパナマハットのように、乾燥させた草を織ってつくる帽子は、構造上割れやすく、裂けやすい。日焼けもしやすいので、本パナマでつくられた高級ハットはヴィンテージ市場であまり見かけない)
↓こういうのがクラシカルでヴィンテージな本格フェルトハット。伊のボルサリーノ製で、推定1950年代のプロダクトだ。フロントビューはほとんど四角である。
↓そしてこういうのがイマドキの主流ハット。ぼくにいわせれば、三角形の"ハットもどき"。素材のフェルトもざらざらしてて手触りが良くない。
さてこのフェルトハットだが、いまは世間では第何回目かのハットブームだそうである。
確かに若い人は男女問わずハットを、ファッションアイテムとして気軽に被ってる人が多い。SNSで飛び交うフォトを見ていても、ハット派が多いようだし、ハットをかぶった芸能人も多い。
彼ら彼女らのお父さんはハット世代ではなく、むしろハットなど祖父世代に属するものだろうから、街の若い人のハットの氾濫は、すると隔世遺伝のようである。
ただ、ここで隔世遺伝といったが肯定の意味ではない。ぼくの考えでは、若い人だろうが年配の人だろうが、被ってるのがイマドキのハットならそこには"思想"がないので、ぜんぜんダメである。
流行しているハットのシェイプを見ると、ハット初心者が被っても違和感が少ないように作ることに、第一の、細心の、注意が払われているのが分かる。
つまりイマドキハットは、被られることに拒否反応が出にくいように、製帽しているのである。
具体的にはクラウン(ハットの本体)は天頂に向かってしぼんでいく三角形型であり、ブリム(つば)も5cm未満というふうに短い(上の画像参照)。
つまりそれは人の頭の形から、なるべく逸脱しないよう、従って誰もがかぶっても、はじめから違和感が少ないように作ってあるにすぎないのであって、その限定された意味においては"思想"といえなくもないのだが、ひとの頭部のカタチに迎合しすぎてて、ぼくにいわせれば大変ブカッコウなシロモノである。ハットとは、あからさまに違和でなければならない。
ところがいつのまにかその不恰好なフォルムが、ハットいうもののデファクトスタンダードになってしまった。スーツなどと違ってハットには伝統や正統の継承がなかったから、作る方にしたって、昔の正統派ハットなど見たことも触れたことも、ましてや自分でかぶったこともなく、いつの間にやら平準化されてしまったハットヒナ形にあわせ、マシンメイドでガチャコンと作ってるだけに決まってる。
フェルト素材もざらざらでキメが粗く、見ただけで質が悪いのが分かってしまう。中には厚ボール紙のようなエセフェルトまで出回っている始末である。
そんなものはやっぱり思想のない、いわばまがい物ハットであり、買うほうもファッションだから消耗品である…これがぼくの、イマドキハットにまつわる嘆きである。
もちろん世に出回る新品ハット全部が全部、そういうワケではないし、帽子デザイナーのこだわりを商品化するCA4LA(カシラ)やMAOZI(マオズ)などといった帽子特化型メーカー/ショップもある。
しかし大量生産で安価なハットほど、顧客に対してトンがったセンスは要求しないし、かぶりやすさが大命題である。
CA4LAなどでもやはりその手のハットは置いているし、むしろそうしたものの方が、高級品よりも販売の主流であろう。
そんなハットの安直生産と使い捨てが前提で回っているブームならば、ハットブームなどいらない。
ある程度以上の品格を備えた帽子を、大事に長く被って、自分の子供や孫にまで伝承していくつつましさが、ハットのとの本当のつきあい方である。これは帽子に限らず、紳士靴やブーツ、革ジャンやステッキなどにも共通するモノとの付き合い方であるが、わけてもハットは、圧倒的に役に立たない、実利が少ないので、その分ひときわ光る存在であると思っている。
ハットはなんといってもクラシカルなフォルムに限る。それらは高級で、店のカウンターでも容易に手の届かないところに鎮座しており、売り物でありながら人を見下しているような帽子であり、はじめからはうまくかぶれないものである。得心するのに時間や試行錯誤が必要な、そうしたものこそが人間本来の豊かな本道であって、それは人生や読書、子育てや教育と同じである。
クラシックハット、すなわちヴィンテージハットは、上にボルサリーノハットの画像を貼ったけれど、それをごらん頂ければお分かりのように、数ある帽子の中でも、つばが広く、クラウンは垂直に高く、そびえ立つような形をもっぱらの特徴とする。だからそれらは、(歴史の中に埋もれた烏帽子や特殊な制帽、シェフ帽などを別にすれば)、もっともクセのある被り物である。じゃじゃ馬のようにいなしにくい。
いまはファッションアイテムとしてツバ広ハットも比較的多く出回っており、ブリムの長さが6cm以上あるような、まるで70年代の女性向けハットのようなものも確かに売っているのだが、ぼくからみればそれらも邪道である。
ブリムはワイドだが全部クラウンが低くて、バランスが悪いものばかりであるし、やっぱりフェルトの質だって良くない。
また、いまふうのそうしたワイドブリムハットに関しては、被りこなし方にも意見したい。そのほとんどが、昔でいう"あみだ被り"になってしまっているのが残念である。街で見てると若い人ほど、そうなのだ。
あみだ被り、すなわち、後頭部に引っ掛ける程度の浅い被り方のことである。それは頭部の円形シルエットへのなじみはいいしそれがゆえに初心者向けなのであるが、正統派の被り方ではなく、幼稚でチンピラっぽい被り方なのである。そしてそれも、やっぱり頭部への迎合の一種なのである。
偉そうに言わせてもらうが、それもこれもやはり、帽子の被り方としては邪道といわざるを得ない。
ハットの被りこなしの真髄は、何といっても斜めにかぶることである。
前後にではなく、左右に傾斜をつけて、斜めにする。
歌舞伎の由来となった「傾く(かぶく)」(正当からナナメにはずす)のである。
ここらへん、日本の「粋(イキ)」と、ほぼ同じセンスかと思われる。
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さてここでハットとは、被り物とは何かという話題に移る。その本質は2つほどあるのだが、まず外見的には人間の象徴ともいうべき頭部の、恣意的な空間切り取りセンスの表出である、ということ(これの眼球版がメガネ)。ハットで身を飾るということは、帽子という、まるっきり異形にして無性能なもの(←これ大事)を一番大事なカシラに戴くことで頭部を擬似的に盛り上げたり切り裂いたりして、それをもって装飾やエレガンスに値する状態にまで高めるという、高度で高貴なセレモニーなんである。
そしてもうひとつのハットの本質とは、ハットをかぶるという行為にある。
帽子をかぶるということは、小さな変身である。普段の自分から別の自分を引っぱり出すのに、ハットとはたいへんいい小道具なのだ。
それは自意識と他者からの視線のブレンドを際立たせる鏡になる。
鏡を覗く自分の様相全体を、主観的にも客観的にとらえる、小さいけれど宇宙的な、そんな営為である。
被り物をして街を歩く、人に会う。そこに無帽の状態とは違った、小さな「緊張」を意図的に創り出す。
その緊張を自分に帯同させることによって、緊張を矜持的なものに昇華出来る可能性が芽生えるのだ。
やや気恥ずかしく、かつあいまいで世俗的な言葉であるが、分かりやすい表現で言い換えると
「美学」
ともいえる。
そしてその帽子本来の美学は、やはりハット全盛期の、いまから60年くらい前までに作られた、古典的なハットの中にこそ、横溢しているのである。
ヴィンテージハットは被ってみると存在感が大きい。さっきも書いたように物理的にクラウンは高く、垂直にのぼっており、ツバは幅広く、ただ頭に載せただけでは頭の上にさらに頭を載っけてる風になってカッコ悪い。
つまり、空間占有が正方形的に大きいので、丸い頭部にはなじみにくいのである。
だからハットに慣れてないひとは、それだけで似合わないという判断を瞬時に下してしまう。自分が滑稽に見えてイヤになる、もしくはキザに見える。それらすべてはハットという"じゃじゃ馬"に負けてることである。
だがひとたびハットをかしげてみると印象が変わるはずである。
頭を斜めに横切るフェルトブリムのふち、それは先に述べた"空間の切り取り"である。
それは被る人に、抑制という名の知性をもたらす。また見た目にはイマ風の小顔効果すらも付与する。
斜めに被ることで、ワイドブリムの表情も豊かになり、被り甲斐も広がる。
そう、ハットの似合わぬ大人などいないのである、時代も人種も問わず。
昔の大人は、誰であっても外出時にはハットなり、何かしらの帽子を被った。
全員がサザエさんの波平であった。
それがマナーだったという理由が大きいがしかしそれだけに、かぶる姿がサマになるどうか、各自研鑽を重ねたはずである。
そして最終的には欧米人でもないのに誰もが似合った。
人が大人になるとは、他者の視線の経験を多く経ることによって経験則を自覚することである。
帽子をいかにスマートに被りこなすか、その自己研究は、大人になることの儀礼をうまく抽象化した、昔のあまたある服飾範例の中でも、最もたるものであったといえよう。
ホンモノのハットには、洗練という長い歴史が封じ込まれているのである。
そしてそうしたハットの正統性など歯牙にもかけず、「ハットまがいのもの」を何の疑問もなく生産しつづけ、また、その紛い物をブームに乗せられた消費者が、粋でない被り方をして悦に入るという行為が横行する、その安易な全体光景は、帽子に限らず、この社会のあらゆる部分を蝕んでいるに違いない。
本格ハットなど、ブームでかぶるものではない。またもしかぶりたいなら、簡単に手できるようなもので紛らわせないことだ。イージーに手に入るものだと、底のきわめて浅い「変身」しかできない。
帽子とは、人生である。無用どころか現代こそ、すべての大人に必要なものだ。
↓これも米ステットソン製のヴィンテージ・ハット。推定1950年代のブツ。気品あるでしょ。
<了>