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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ぼったくりの経済学、傾いてるのはマンションの基礎だけではない。日本の住宅事情も根元から傾いでいる~三井不動産グループのマンション傾斜問題をめぐって~

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<世の中は、ごまかし、水増し、おためごかしの体裁揃えで、今日も動いている>

 

いま大事件になってますこのマンション偽装、データ改ざん問題。

 

ぼくは建築家でも何でもないが、いきなり身もフタもないことを書くようだけれど、めっちゃ多数のくい打ちが前提になってる建造物を志向するのが、そもそもよくない。


上モノはデカくして細かく中身を割ってたくさんの戸数を造りたい、売りたい。だから巨体を支えるため、クイをたくさん打つ。たくさん打つけども一方で、工期も予算も限られてる。だからできるだけ効率良く、下請けを叩いてやらせるのが鍵になる
…と、こんな意図と構図がミエミエであって、この段階で住民(=お客さん)のことなどまるで見えてなかったに相違ない。売る方の思惑ばっかり透けて見えるものはすべてにおいて良くないに決まってる。

 

ぼくの近所には建売り住宅が近年多く建造されているが、最近のそれは大して広くもない土地を2分割3分割して、窮屈に建ててるのばかりである。「ウサギ小屋」などと揶揄されていた昔の家の方が、広々と余裕があるように今では見えてしまうが、これはどうしたことだろう?
日本は人口が減る時代になったんではなかったのか?いや、子供の数が減ったから小さな住宅でいいというニーズに変化したのだろうか?それならそれでもいいけれど、もうひとつ気になるのはなんだか隣との距離が近すぎないかっていう点…1軒屋なのにまるで玄関が違うだけのアパートみたいな気も。いづれにせよ、やっぱり売る方の都合しか見えてこないのである。

 

マンションの話に戻るが、巨大なものにはムリが潜んでいる。マンションなどは、空中に住むムリに、形と道理を与えた現代版長屋、共同住宅である。
地面の占有面積と住人数を計算すれば、一人当たりの面積など、タカが知れている(なのに固定資産税は変な計算式で割高にかかってくるのである…その辺がまた為政者の狙いか…)

 

今回の問題の白眉は、いまのところ杭であり、それが支持層に届いていないのが何本あるかとかが問題になってるが、支持層に届いていればつまり長さがOKなら即OKなワケでもあるまい。強度こそが問題なのだから。


そこまで確認するとなったら建物を取り壊す以外には実際問題、分からない。いまのところ全部推測でしか確認できないというのも、なんかフクイチの消えた核燃料の行方みたいな、脱力するしかない話ではないか。


それにこのマンション、そんな肝心なところを手抜きしてるようでは、これからだって色々問題が出てくるような気がしてならない。セメントの質(塩分除去の不十分さや水分量の多さ)レベルまで着目すれば、問題は山と噴出してこよう。

 

建物の土台を手抜き工事するなど、土木の根幹という仕事の本質をないがしろにする行為であり、大げさに言えば人間の、人間に対する疎外・阻害である。疎外・阻害とはすなわち、現場の施工者たちを「業者」「下請け」と呼んで銭で釣る現代の奴隷制度が、ゼネコンの慣例・根底にあるということであり、かつ購買者にまでその被害が及ぶことである。この不幸な構図を反省なく続ける限り、こういう事態は拡大の一途をたどり、収拾がつかなくなるのは明白だ。

 

そう考えていくと問題はイチ企業、イチ業界の慣習レベルにとどまるものではなく、ましてや属人的要因(特定の責任者のズボラさ、資質等々)で済まされる話でもない。今回の事態が、日本社会全体のひずみに起因し、ひずみの集約が噴出したほんのほんの一例でしかないことは、もはや明瞭であり、またかくも壮大な欺瞞の傷跡を見せ付けられては、庶民としては途方に暮れるしかないのであります。

 

国会議事堂も、原発も小学校も、建物として仔細に見ればすべて手抜きだらけに違いない。それも土台の杭という、もっとも虚偽してはならないけれど、最も見えないところにこそ、不正がはびこるのである。すると日本は、見えないところであればなんでもズルをしていいことになる。これでは子供たちに対し、犯罪に走るなという方がムリである。

 

 

<そのごまかしは誰を欺いてるのか>

 

表面上はスマートにピカピカしていても、肝心で可視できない部分(土台など)では病理が進行してることを、あらためて今回の事件は明示した。


マンションという巨大な建造物(あの横浜市都筑区のマンションは、特にスケールが大きい)の元々あるムリを、何とかそれなりに正しく収めようとするために、数々の法令や審査があるといってもいいが、規則でがんじがらめにすればするほどそこにまた偽装や見逃し、不備などの、別種のムリが吹き溜まっていく。親会社の旭化成と、その分社の子分、孫請けのような体制は、トカゲの尻尾切りに好都合な、資本家側の隠蔽論理である。
こうしてムリが別のムリを呼び、うそをうそで上塗りして、結局は不正の巣窟になる。バレたら「組織ぐるみの隠蔽ではなかった」などと逆の事をいう(現代では組織が、構造が、企業レベルの隠蔽行為に無縁でいることなど、論理的に不可能だ)


そしてさらに新築マンションではごまかしのトッピング仕上げがある。外装やエントランスのスマートでインテリジェンスな雰囲気がそれであり、宣伝面においては実体の無い幻想を振りまく、ラクジャリーなマンションポエムがそれである。
不正の巣窟を糊塗するため、総仕上げで飾り立てるのである。

 

(マンションポエム…「新副都心の利便性に、心安らぐリッチな空間を…」とかの空虚でこっけいなあのコピーのことね。リッチな空間かどうかは、こちらが感じることであって余計なお世話なんであるw)

 
ぼくはエコロジストではないし、ナチュラリストでもない。なんでも自然が一番だとか、自然回帰こそ王道みたいなスローガンには懐疑的だ。
でも有形無形問わず、途方も無く「大きなもの」を志向する態度は、すべてそれ自体が不正か、もしくはその温床たりうると決め付けているんだ。

 

飛行機、国会議員、国税、造幣局、日銀組織、原発、大企業、高層ビル、銀行の頭取、東京都庁…

 

「大きなもの」になればなるほど、身の丈にあった安心からほど遠くなるこの矛盾、欺瞞、茶番。
寄らば大樹の陰など過去の言葉である。いまは大きなものほど、あやしいと思わねば。
原発を再稼動させるのに、地盤の活断層の精密調査を必要とする時点で、お笑いではないか。ここは地震大国、日本なんだぜ。それに原発はあらゆる面から安全なんだろ?


従って一般人としてはそうしたものから距離を置くこと、懐疑的であることしか、対峙姿勢はない。

 

 

<住まいの値段が高すぎる、このぼったくりの本丸>

 

また、今回の横浜マンション問題のようなムリは、建造物としてデカいから生じるだけでなく、日本では家が高額すぎるから(買う側に)無理が出るという側面もある。あのマンションは分譲時いくらしたのか知らないが、安いわけはなかったろう。

 

家を買うといえば自動的に3,000万、5,000万などといった話になるが、それを当然のものとして、うっかり販売側と同じ土俵に乗ってはいけない。ローンなど組もうものならさらに1.5倍くらいには価格が膨らんでしまう。


マンション1物件の原価など、青木雄二というナニワ金融道の作者によれば、100立方メートルの部屋の概算で300万円だというのである(およそ15年前に刊行された「銭道入門編」というエッセイに、そう書いてあった)


今の時勢で倍に上昇してたとしても原価600万円。買うほうが最終的にいくら支払って、しかも支払った後、どのくらいの資産としての残存価値があるのかを考えると、いくら商売だっていってもボリ過ぎである。

 

デフレの世といわれて久しいが、100円ショップのような目クソ鼻クソ商品ばかり安くなって嬉しがる程度の民意からは早いとこ脱却し、暮らしにかかわる基幹中の基幹で、本当に大切なのに不当に高く、かつそのことを見えづらくさせられているもの(住宅のほか、例えばガソリン税などもメチャメチャ高い)を、しっかり認識していきたい。

 

「一生のうちで一度しか出来ない買い物」とかいう力みを必要とする地位に、住宅を持ち上げてはいけない。むろん家は大事であり、安くもないが、かといってイチ不動産ごときに人生の豊かさを縛らせてはいけない。力みはしなやかさや多様性を奪う。この日本の住宅事情は、そうした光景を何十年にもわたって個人に強要しているのである。そうして青息吐息状態で獲得し、維持していかざるを得ないものを、わが家とか、持ち家などと、本当に呼べるのか?


この大きすぎる買い物は肝心のオーナーの生きる姿勢を硬直化させて、今回のような欠陥が明るみに出た際には、他にオプションがきかない事態に陥らせる。それはそれは悲惨な、当事者にとってみれば訴訟はもちろん、もしかして傷害事件にも発展しかねないような、シリアスな事態になるのである。
何年かして問題自体は解消・解決したとしてもコンチキショウ感覚を引きずって暮らす人もいるだろう。
そうなると人生の負い目になりかねない。

 

最初の数年だけ甘い金利の長期ローン、借り入れ時の無茶、等々により、家を購入した以降、世帯主の生きる動機は知らず知らず不純になっていく。
高額だからこそ購入後は該当物件へしがみついてしまい、人が本来持っている軽やかで明るい心が硬くなり、見えないものへの隷属がはじまる。
マイホーム、一国一城の主といった憧れで、人本来の持つ自発性がくらまされてしまう。

 

ホームレス10人ほどに転落の人生を語ってもらったインタビュー本を以前読んだことがあって、その書名は失念したがそれによると、半分以上の転落人生の原因は、マイホームのムリ目な購入と、会社の業績悪化による解雇→自己破産であった。

 

 

<政治貧困は住宅政策に顕在化している>

 

住宅なんざ1,000万~1,500万円程度で、庭(土地)まで付いたそこそこの新築が買えなきゃウソである。この安価さが、人々の暮らしにどれだけ大きな安堵と余裕を与えるか、考えただけで将来の展望が開けるというものである。


これは僕の勝手な目安だけれども、家ひとつがクルマ5台分とかである。これくらいであれば今回の事件のように住宅瑕疵が後から見つかって売却がムリになっても、補償金を足がかりにすれば買い替えするか、建て替えするかのオプションも(人によるけれども)何とか計算が立つのである。つまり、挽回できる、盛り返せる、はねのけることが出来る。クルマ5台分程度なら、20年くらいにわたって新車で乗り継いでる人はたくさんいるではないか。

 

またこういうことも考えられる。隣人から受けるハラスメントへのリスク対応である。

 

いまのご時勢、隣の民家がある日を境に突如ゴミ屋敷化するかもしれない。もしくは数年のうちにネコハウスや騒音屋敷に変貌するかもしれない。もしそうなっても、最悪の事態を迎える前に、自分がさっさと引っ越すことで状況から逃れられる可能性が欲しいのだ(こんなレベルのリスクマネージメントは、できればごめんだけれどね)

 

とにかく不可抗力に対する1回くらいの失敗で、それもモノを買うという、ゼニカネレベルの失敗で、残りの人生を棒に振るという不幸へまっしぐらなど、とても文明国の実態とは思えない。ガッツを発揮できる余力を人から奪うことほど、人の世で殺生なことはない。
サブプライム問題の前のアメリカでは、家のローンは平均7年で返し終え、あらたなローンで新しく大きな家へやどかりのように買い替えるのが割とよくあるパターンだったと聞く。

 

ナニ?安ければ不動産やゼネコン業界が冷え込む?その経済縮小効果は甚大だぜってか?それがどうした。制度を人間の間尺に合わせたとたんに破綻する業界があるとしたら、その業界の規模の方を疑うべきである。原発や金融界なんかもそうだが、人間が人間本位に生きられないことを条件要求しながら回る経済など、経済の風上にも置けないではないか。そんな本末転倒に対しては、奴隷制という別の名称が与えられよう。

 

人は、住居が無ければ何もはじめられない。住所不定では履歴書も空欄になるから就職面接すらおぼつかないじゃん。
住宅供給の社会インフラ的重要性いやそれどころか、人間存在の根源ともいえる家の重要性など、ずっとずっと前から分かってるではないか。


それほど大事な住宅政策なのに、ヨーロッパ諸国と違って日本政府はこれまで住居政策のビジョンもなく、したがって介入も主導もせず、経済政策だけもっぱらやってきたって専門家からは聞いてるよ。経済が回ってお金が入れば、自動的にみんな家、買うんじゃね?的な、非常にお粗末なザル思想がその裏にあった(が、だれも問題にしてこなかった)

 

現代日本において、いっぽうで空き家が増えてるという問題も、その長年の無政策、全体最適視座の不在が生んだ、大いなるツケである。

 

ここ半世紀ばかしの日本で、冒涜的なまでに住居が高額であること、たとえば30年もローンを払い続けて、払い終わったころには資産価値ゼロなどというにムリさむなしさの実態に関し、この2015年になっても不動産やゼネコン、ハウスメーカーの各業界や、相場や路線価格、金融業etcという、既得権と恣意性満載の、人間性不在の指標にばかり目を向けて、全体構造になんらメスも入れない政治なぞ、もはやそれだけで犯罪である。そのうえ、日本の住宅事情を、将来に渡ってどう先導していくのかの大元のコンセプトも、考えたことすらないのも明白であって、それを考慮するともう死刑である。ケータイ代が高いから安くするよう国が指導しますみたいなニュースがあったが、こんなことは、たんにゴマカシのための目くらまし施策だ。

 

そりゃあ自分たちはいいさ、ゼニもあるし家ももう持ってるし払い終わってもいる。

 

だけどこれからの人はどうなる?若い人が社会的に抑圧されているという論調はよく聞くが、当たり前である。住居費がいちばんの障壁になっているからだ。
アパートの家賃だってここ30年位に渡って、当然のように高値安定なんだもの。
大家業なんて怠惰な商売。およそマトモな大人の携わる仕事ではない。大家はみずからのがめつさを反省し、名ばかり管理費を徴収することだけに一生懸命な不動産屋とともに、別の食い扶持でも探したまえ。

 

そしてまたイヤラシイことに、世間のものは値段が高ければ高いほど、途中でタカられる、タカラレやすい構造になっているのである。
例えばナントカ取得税、手数料、ローンの金利、管理料、印紙代などなど…である。
住宅にまつわる税金だって固定資産税だけ考えてればいい時代なんか遠からず終焉する。
これら余計な支払いは、世間の余計な仕事に対して、われわれが負担を強いられているということの証なんである。

 

結論:人生、でかいものに欲を張らず、いくら金があっても1回で100万以上の買い物なんか何もしないのが吉。ほしいのがあればまず中古で探したり、半額以下で買えないかゴネるくらいでちょうどいい。

 

以上こうした日本の行政の、経済活動本質の抽出、分析、改善のなさ、そしてビジョンの欠如といったいつもの、大いなる怠慢が、今回の横浜マンション事件の根幹にも結実しているのである。
あの住民当事者のみなさんには、実にお気の毒な話である。
しかしあなたもぼくも、いまは問題が顕在化してないだけで、デベロッパーそのほかもろもろの食い物に、もうなってるかもしれないのである。

 

人生だけは食い物にされてはならない。

 

<了>