お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ものをかくということの恥知らずさ。

 

<アウトプットなどと最近ではカッコよく言われる、「書く」という所業の実際>

僕の場合「書く」とは、自分の中に地下水脈のように想いがとうとうと存在していて、そこにテレビニュースやネット記事、誰かのツイートやSNSシェアの中で、その「水脈」に刺さってきたものだけが、そこを起点として爆発のように肥大して記事が書ける、という体験だ。

 

日ごろ思い付いたことを手帳にメモることもあるが、それは断片的なものでしかなく、あるひとまとまりの文意には、そのままではちょっとならない。

 

(かといってそうした断片的な言葉群を、うち捨てておくのも忍びないので、メモは残しておくが)

 

やはり冒頭で言ったように自分の地下水脈を経て、何かに突き上げられるように、一気呵成に書き上げるものでないといけない。そうでないと、ブロッキーでエッジの立った文型に、「固まって」こないのだ。

 

これは誰でも多かれ少なかれ、文章を書くときはそうだと思う。
日常的にブログなんかやってる人は、特にそうだろう。
すなわち普通人も、年に何冊も本を出すような流行作家もおんなじである。

 

楽器をやったり曲を書いたり、絵を描いたりなど、アウトプットする人はみんなそういう「勢い」とか「流れ」があるんだと思う。プロ、アマはその場合関係ない。(ぼくは文をタイピングすることしか出来ない不器用なヤツなのでブログしかやってないが、本当は色々マルチに表現できたらなぁとは思う)

 

だから、僕にできるのは、その地下水脈の路を、太くしておく、硬化させずに、滞留させず、新しい支流づくりも含めて、せっせと水を流しておくことぐらいであって、それはどういうことかと言うと、自分の思索に関する内的点検、つまり平たく言うと、日常を疑い、自分の意識のささくれや違和感をすくい取ることに敏感であり続ける、ということなのだ。


それ以外の日常生活は、ブラブラしてるより他に仕様がない。


そのブラブラが、「疑い」や「すくい取り」を担保してくれる。


つまりヒマでなければ、なんにも書けないし、これは別言すれば偶発性とか、待機や忍耐がモノをいう領域なんである。計画や目標、作業進捗や報告・連絡・相談などとはぜんぜん違う世界がここに在る。また、周囲とは正しくチョン切れていて、自分のひとりぼっち性にまっすぐ向き合ってしっかり「聴診器」を当ててないと、内なる声に気づかない、という代物でもある。

 

外に出てもいつも独りでウロツキ、しょんぼりして、くたびれていて、トボトボ歩いてこそホンモノ(?)である。最近の若い人みたいに、イヤフォンで音楽を聴きながら歩くなどしたら自分の声が聞こえないではないか。言語道断な行為である。

 

かくしてぼくの姿は対外的には「ニート」「ダメ人間」「引きこもり」「うつ」「挙動不審」「役立たず」「負け組」「下流中年」「生活困窮者」「メタボ」(←ほっとけ笑)といったネガティヴ属性の固まりになる。

 

そしてそれはあらゆる面からみて、正当な評価なのであります。なぜなら自分の価値は他人から見た姿だけで、まずは評価されるものだから。

 

それに抗って、ううむ…いまにみてろよ、などとという俗な感慨を持ったなら、その自意識をも疑うことが、書くことへの基本姿勢なんである。そしてその構造すべてをひっくるめて、自分と向き合うことより大事なものなんて、(自分にとっては)ないのである。

 

これを称して因果と呼ぶのだなぁ。

 

 

<了>