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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



【書評】「左翼も右翼もウソばかり」古谷経衡 著…ミイラ取りがミイラにならないために。

 

<ウソを論破する弱さと強さ ~否定のかなたに目指すもの~>

新進気鋭の著述家による新作。どんな思想が語られてるのかと思い、読んでみた

情報の偽装をあばくという切り口で「戦争」「若者」「福島」「中国」「クールジャパン」など様々なタームにまつわる虚構を一刀両断し、白日の下に別の真実をさらす本である。右翼左翼などの既成の枠にとらわれず、反論の考察もなるほどと思うところから資料を引いて論拠とするなど鮮やかである。
例えば、若者のクルマ離れという「常識」に対し、20代の免許保有率の高さを当てて反論するあたり、なるほど騙されずに生きる思考法めいたものは感じられる。

が、本書の限界はほぼそれだけに終始してる点である。


「中国は崩壊する」という、よく言われる言説の中に、嫌中派のdis願望を読み取り、それを浮かび上がらせ反証を加えたところで、だいたいみんなその辺のことは気づいていることであろう。そして本書では各論において、事実を冷静に受け止めて対処せよ以上の価値観提示は、薄い。


これでは一般的中庸的な解説の域は脱しておらず、いわば池上彰的なスタンスである。学校の先生の説教のようなこの点が食い足りなかった。
僕にはそうした外部の物を、軽やかにカテゴライズし、斬ってもみせる筆者の鮮やかな手口だけが、読後感として残ったのであった。
つまりそれは著者の血肉が、見えてこないということである。かような牧歌的な立ち位置で書かれた本は他にも山とあるのであるからして、あんまり刺さらなかったのが正直なところ。

本書の最後には、科学とデータを客観的に見つめることで、このような観点が獲得できる、それが重要であるというような、まぁ当り前のことが書いてあるが、主観と客観の位相の違いってほんとにあるのかな?ひょっとして本当の客観視座などは、どこの誰も持てたことなんかないんじゃないかな?という僕の考えからすると、偉そうで申し訳ないが筆者の考察は矮小なレベルでとまってるような気がする。


<相対化の前では、その場しのぎ療法は足踏みするばかり>

現代はネットという無責任罵詈雑言装置が発達しまくったせいで、マスコミの専横力、洗脳力が退化したがその一方、そうした欠落分を補ってあまりあるノイズパワーが、匿名の世界(ネット)の一大勢力となったのは、僕なんかが申し上げるまでもない。
もはやネット世界の俯瞰なくば、この手の本はない。
ネットによってあらゆる価値観の相対化が日々亢進している2015年の現在は、事物の本質めいたものを覆い隠す作用だけが、どんどん幅を利かせている。

 

例えば「意識高い系」なんていう言葉があるが、もともとは自分磨きに熱心な様子を指した造語であったのが、世間的にはあっという間にキツい揶揄のネガティヴスラングに転落したし、最終的には「実は大した経歴も無いのにプロフィールを盛ってるヤツ」という、ほとんど虚偽と同じ意味にまで転落してるという。

また、この本でも紹介されているように「草食男子」は元々ガツガツしてないやさしい男性の意味だったというのに、それがいつに間にか「異性に無関心で消費意欲も低い層」という意味に変容したらしい。

これらもネットという無慈悲な相対化劇場へのいけにえ、もっといえば引きずりおろし効果のせいで起きた現象だ。

確かに世間には蔓延している。

文意に巧みに仕込まれた誘導が、

文脈になにげなく、あるいは無意識に織り込まれた論理の飛躍が、

参考にされ引用された数多くの意味のないノイズの数々が。

こうした書き手の願望のすり替わりでしかない、カッコ付きの「真実」で、SNSのタイムラインは埋め尽くされている。
その数々に気づけば気づくほど、この論者のように嘘だと叫びたい気持ちが起きる。

しかしいくら隠された真実とやらを暴こうと、読み物としてはフンフンと読めるが、それは現実には対処療法に過ぎないレベルで落着してしまう。

なぜ対処療法にすぎないのか。

まずひとつにはいくら批判しても批判される側は、読みもしないから届かないし、改善もされないということ。
言葉を足せば足すほど、すべてが相対化の奔流に巻き込まれ、本質からむなしく遠のいていく気がするのである。

そしてより大きな理由は、悲しいことにその筆者の糾弾もまた、あらたなる「嘘」の生起点となりうるためである。

本書で虚偽呼ばわりされた方(ほう)に、筆者は想いを馳せたことがあるだろうか?実はその「ウソつき」側だって、当初はだますつもりも、他者をたぶらかしたりするつもりも微塵もなく何事かを主張したのであった。

嘘は、その発言者からみれば主観と、彼彼女なりの客観から導かれた「真実」なのだ。これが現代の相対化の成果である。

この本で批判される諸々の現象は、拡散や定着の仕方に無批判や曲解の生じる隙間はあったにせよ、当初はそれ相応の意見のつもりだったはずだ。
この「情報化社会」の本質的なくだらなさ、無為な構図の連鎖こそが、人間の知性に照らして本当に糾弾すべき対象だと思う。

あるいは、

この全体像にどれだけ自覚的であるか。すべてわきまえた上で言葉も飲み込み、途方に暮れる姿勢だけが信頼に値するのではないかと思う。

 


<自分を巻き込まない社会論のむなしさ>

冒頭にも書いたように本書では数々の「嘘」をひっぺがし、反論の矛先を突きつけて読者を目覚めさせる効果はありそうだ。
しかしその先それでどうするのかというと、本文の最後に願望を超えて意志を持てと書いてあるくらいである。
世の嘘を暴き、他者を論破するだけだと、一時的にはいい気がするのだが、その先の虚空には雲すら浮かばぬのである。
鋭利な批判力を持つ筆者の知性は認めるが、その矛先が自分をもエグる痛みは、本書には感じられない。
この「本丸」への洞察がないと、くどいようだがこうした本は「ただしいもののとらえかた」みたいな、ノウハウ書籍の域を出ない。
せっかくの知性なのにもったいないかな、と少し思う。

自分をもまな板に載せないのなら、黙って畑でも耕す方がまだ生産志向だ。そんな感想を本書に対して持った。


<「新・どシラケ態度」発令宣言>

右翼だ左翼だというカテゴリー分け作業や、いろんな社会問題の羅列コンテストは、客観的事実の美名の下に陳列する程度の意味であって、もはやヒマつぶしの遊戯に等しい。
大手新聞も政府も、既存権力ははじめから建前の世界であるのは明白だし、いっぽう自由や権利などの無形物は、有史以来人がもてあましてばかりいる画餅である(人は何らかの枠組みがないと、糸の切れた凧のようになってしまう)
また人の世における真実は、砂浜の砂金のように超貴少なのも、これまたみなさんお分かりの通りだ。

防衛、政権、クールジャパン、放射能汚染、若者の草食化右翼化…

この本に挙げられた論点について、個々人の意見で濃淡も賛成・反対も、いくらでもあるだろう。

それはそれでいい。100の頭があれば100の意見や立場がある。この本もそのひとつだし、僕だって世の事物にモノ申したいときはある。

 

しかし僕らが自分の身に引き付けて、しっかり目を見開いて、本気でがっぷり格闘すべき対象は、そうした意見や立場よりも上位に位置する概念だと思ってる。だから僕の書いたものは、現象的なものに対する違和感の表明から文をはじめても、最後にはなるべく自分を出し、自分ならどうするだろうという観点に引き付けて書き、より上位の高いところに到達できないか、まぁカッコ悪いのだが、あがいている。

そう上位の概念。それは僕にとっては「全人が全人であるだけで、生をまっとうできる社会の実現」だと思う。
そのために僕は「本当の仕事」を武器に、その社会の可能性をコジ開けていくことだけに懸命でありたいし、うまくその端緒でもつかめたら、そのメソッドを今度は世界に広めたい。

「本当の仕事」の獲得。具体的に言うと僕は、そのひとつとしていわゆる自分史のプロデュースをしている。
これについては以前も「真の仕事はタイムカードのないところに」という記事の後半に書いたのと、ここでは話がややずれるので、カンタンに記すに留めるが、自分史を出版するということは、個人の持つ、とんでもなく巨大な内実を、人生の足跡(の一部)として残すことで、だれか別の人の人生を豊かに、実り多く、輝かせる、太陽のような営為だと思ってる。

この(ミクロな個人的な)営為に対しては、現在の「超高度情報化社会」から放たれるいろんな言説はほとんど役に立たず、どうでもよろしく、回避すればするほどむしろ当方の益になる。
したがって、流れに沿って身をかわし、たまにカラダにまとわりつくものは丸めてポイ捨てするだけであって、否定にしろ対抗にしろ論評にしろ、かかわりあいは徒労である。

昔言われた「シラケ世代」という言葉をもじって言えば、これを僕は「新・どシラケ態度」と宣言する。

これを僕などは、本書の古谷経衡さんに代わって、現代社会の生きる知恵として喧伝する次第である。

以上、誇大妄想的な宣言で本エントリーを締めくくります。ご清聴、ありがとうございましたw

 

 

<了>