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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ヘタウマとブサカワは世界を救う。

いきなり結論だが、おそらく日本にしか顕在していないふにゃふにゃ感性であるヘタウマやブサカワは、「うまい・下手」、「ブサイク・カワイイ」のガチガチ二項単純対立をコケにして、軟弱な体(てい)のままで越えてゆく上位概念だ。

 

で、この概念を堅持・発展させていけば、人類はあたらしい歴史を刻めるね、間違いなく。

 

ヘタウマとはwikipediaによれば、「物事には本来「ウマい」と「ヘタ」の相反する概念があり、上達するということはヘタな所からウマい所へ上ってゆくことで、二極の間には一筋の道が存在する。しかし、両者とは全く別の尺度である「オモシロい」という「第三極」が現れ、「オモシロい」物にメディアが注目すれば、大衆もこれに追随するという図式が成り立ってゆく。(中略)つまり技巧にかかわらず何らかのかたちで琴線に触れる作品であれば受け入れられるという文化的基層の下に、「ヘタウマ」文化が芽生えていったといえる。」(筆者注:ブサカワは比較的新語のせいか、まだウィキはないようだ)

 

ファッションでいえば20数年前のヴィンテージ大ブームも、ヘタウマやブサカワとおんなじ系列の価値観だったね。半世紀前につくられたジーンズや皮ジャンの枯れた経年変化の中に、単なる衣服を超える価値を発見し、古着の意味を変えたムーブメント。今やもう、完全に定着した視点だよね。

 

イラストでも文字でも歌唱でも、技巧よりも味のある方を優先するというこの姿勢は、対象を一瞥して単にヘタとかブサイクと素通りするのでなく、対象に踏みとどまって凝視・思考する余裕がないと生まれない。だからこれは高度なお遊びだ。従来からある複数の価値をヒネって交錯させて止揚し、適切なネーミングで新カテゴリーを創設するという、既得のものをネジる遊び。しかも全体として力まずイキまず、あくまでポップに、どこまでもライトに。要するに人の高次元機能である。

 

主に若者の間でヘタウマという言葉が70年代にでき、ブサカワという言葉がここ20年くらいで市民権を得たこの語感は、戦後に初めて発生したわけじゃなく、ワビさびとか、粋とか、背後にひそむものをたしなむ感性を根底に持つ僕らが、世界に初めて打ち出した感性なんじゃないかな。それも戦後の高度成長期を経て、物質的豊かさを享受できる人類初の状態を経て、なんでも相対的に見ることが可能になった僕らの、おニューな詫び寂びであり、ナウな粋。

 

なんで昔そういう価値観ができたかっていうとさ、世の中の95%以上はヘタでブサイクに決まってたから。しかもうまさとカワイさを目指したところで成功例は少ないのもわかってた。だったらそのハザマで遊んじゃえ、っていうね。ポップだなぁ。海外のものをモノマネして改良して、新たな価値をつけてふたたび輸出する、戦後日本のそうしたお家芸も、ハザマに価値を見出すワビさび的な姿勢が生んだ、ひとつの芸風なんだね。

 

アメリカみたいになんでもべたーっと単一に塗りこめて、ひとつのものにひとつの価値のみを封じ込めて落着する横暴さ(アメリカのお菓子はなんと毒々しい色しとんじゃ!)よりも、上に書いたような価値のズレに着目する日本の方が、ひとつ上を行く態度なんだよね。アメリカの価値観だとアンディ・ウォーホールとかバスキア程度の「ずらしアート」で革新的なんだから。

 

といってもアメリカにはジム・ジャームッシュとか、トム・ウェイツ、ジャック・ホワイトがいるからまだ救われるけど。

 

だけど彼らもヘタウマとかブサカワのネーミングにはピンとこないだろうなぁ。英語はそーいう気分的なものを掬い上げる機能が弱いから。禅みたいなブランドと英語圏で称される無印良品も、英語では(「No mark」とかじゃなく)「Muji」でしょ。あ、これは固有名詞だからか。でもでも、言葉が先に立たないと、現象の発見が遅れるんだよね。

 

ということで、ヘタウマとブサカワの持つ止揚の世界、調停力がモノを言う価値観は、憲法第9条なんかよりも、軟弱パワーで世界を平和に導くのであります。

 

<了>