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【書評】「箸の持ち方―人間の価値はどこで決まるのか?」 適菜収 (著)

「箸の持ち方―人間の価値はどこで決まるのか?」 適菜収 (著) 2014年

 

人間の価値を言うのなら、目の前の作法でなく、 目に見えない真理の方に。

 

ひどく勘違いした本である。

 

箸の持ち方が変なことを悪として、あれこれあげつらっている内容だが、正しくない箸の持ち方はなぜ良くないのか?という根源の分析は、文明だとか型などと言ってるだけで食い足りない。あれは分析と呼べるようなものでない。自分の言葉でないからである。
よそからかっぱらってきて、後付けでもっともらしく言ってるだけである。

 

箸の持ち方をタイトルにしながらも、分析をこのようにほぼ放棄してるから、この本全体においては、ただ嫌いなものをクサすだけの、感情の堂々巡りパートが際立ってしまう。著者のオリジナルな言葉は、こきおろす部分にのみ発揮されている。
で、感情で流して書いてるから反発にしろ共感にせよ、読み手には響く。それだけだ。

 

著者は先人の言葉を多数引用する人で、本書でもそうしているが、引用はボリュームアップの体裁作りに動員されているだけのコピペだ。
人の書いたものは、その人の書いたものである。それだけだ。
筆者は読書経験を豊富に持つ人のようだが、人間は、本をどれだけ読んできたかで形成されるのでない。ましてや、適切な引用を適切な箇所で出来ることなど、テトリスが上手なことと同じで、単なるマッチング・テクニックである。

 

で、不肖ながら私メが、なぜ変な箸の持ち方が悪なのかを考えたので、ここで教えてしんぜよう。

 

それは、自分の命はみんなのものだからである。
「自分の人生は自分のモノ」というのは間違った幻想だからである。

 

自分の人生は自分のモノという幻想に人は染まりやすいので、食事の度にそいつを打ち砕き、是正するために、正しい箸の持ち方、ひいては品のいい食事作法は存在するのである。

 

テーブルマナーはあんたのため(だけ)じゃない。あんたの周りで食事するみんなを優先する思想の現れであり、あんたを含めたみんなで形成してきた共生確認の知恵である。
法律なんかよりも厳密に服従せねばばらない義務である。

 

人間形成にいちばん身近で一番重要な「食べること」。
そこに私とあなたの大宇宙が出来るのが、食事の場である。
それは個別の欲求で乱してはならん聖域なんだ。
この聖域において、箸の使い方などというチンケな分野で勘違いの独自性を持ち込む人は、個性や自由を単にハキ違えてるだけである。だから醜いのだ。

 

これが私の考えだ。したがって筆者にこの考えは通用しない。なぜか?適菜収はマボロシだからだ。

 

著者名の適菜収というのはペンネームである。ペンネームと言えば聞こえはいいが要するに適菜収というのは偽名である。著者近影はイラスト、それもテキトーすぎて読者に失礼な、ちきりん品質以下のイラスト自画像だ。著作は多い。多いが内容はかなり重複している。コピペ量産である。このように自己をなるべく隠し、安住の隠遁部屋の陰から、ドヤ顔で馬糞を投げつけてるだけの透明人間が適菜収だ。私の話が通じるわけがない。


筆者のこの逃げの姿勢は自分が大事だからこそであろう。本人だけがスマートだと思ってやっている。
攻撃的にふるまう人の豪気さの裏にはしかし、えてして小心さが漂うものだ。この筆者とて、例外ではない。


適菜収の醸し出す狡猾さは、ほかならぬその本人が指弾する、箸を正しく持たない人と同じ醜さを根っこに持つ。ペンネームを指摘されると「三島由紀夫もペンネーム。何が悪いの?」とイケハヤみたくシラ切って開き直る適菜収は、箸使いの変な人が「どう箸を持とうが自由だ!俺の権利を踏みにじるファシストが!」と反発する醜さと何ら変わりがない。

 

気付いてるよね?今の世は、免罪符があれば何にでも乗っかるあさましさが正義になっている。
このチャンスを逃すなとか言いちらかして、乗らねば損な「芸風」が、大手を振って世を支配している。
仮想通貨ブームなんかまさにそうである。自分で生きづらくしてる。

 

過去の偉人とやらの言葉は、自分が剽窃したり、なりすますための器でない。
それを糧として自分が別の何かを発見することで、乗り越えるためにあるのだ。
そのための媒介項(正しい意味でのメディア)として有益なのが、いわゆる名著なのだ。
参照元として言葉を蓄積するだけなら、AIに早晩越されるだけではないか。

 

AIと言えばこの筆者のように、言うに事欠いて人間の価値などと言いだすのは、独裁権力の系譜がスタートする地点である。
人間に価値などいっさい関係ない!人はだれしも無価値もしくは規格外なだけだ。

 

作者よ、もうおやめになったらいかがか。引用に熱中し、気に入らんもんへの罵倒コレクションにばかり自分の言葉を費やすのを。もっと別の展望を言葉に載せられないのかなと思う。たとえば自分の内なる醜さへの自覚と切込みこそが、他からの借り物でない、自分自身の言葉を獲得する契機になるではないか。それには世を忍ぶ仮象はジャマであり、限界でもある(ひどくハードルの低い限界)。

 

言葉とは、みんなで「捨てる」、みんなに「捨てられる」ためにあるのだ。
「それをしなくなっていく」「自然消滅していく」ためにあるのだ。
宝物みたいに後生大事に引き継ぐためではない。座右の銘など毎日コロコロ変えてしまえ。

 

もういまとなっては、とどめを刺すのはこれを読んでくれる貴方だけだ。正しい箸の持ち方がそれを担保する。
生きづらくしてるのは、私たちがせっせと築いてきたこの歪んだ個人性の反映だ。
箸のひどい持ち方を看過してきた、その姿勢の蓄積が、私たちを背後から撃つ。
筆者の主張を代弁すればこういうことだが、ほら、言ったとたんに霧散するような言葉でしょう?

 

日常の振る舞いに期待しないことが、あなたをみんなを救うんだ。

 

<了>