就職、試験、資格、入学等々、定員のある枠での選考なら競争が付きまとい、その度に世では倍率なるものが取りざたされる。
しかしある関門を通ろうとする際、人はいつだって自分×1倍でしかなくて、合否なんぞはその結果にすぎない。
この、いわば当事者意識をなおざりにして、一般概念としての倍率とやらに思考の座を明け渡す最初の一歩から、僕らの不幸は始まっている。そこで自分が消えてしまうから。人の世は、キミがそれをやるかやらないかだけだ。または続けるか、やめてしまうかだけだ。
知り合いに小説家志望の者がいて、どこぞの文学大賞へ応募して入選するんだと張り切っている。それでは、ということで書き上げたものを読ませてくれと頼むと、一編も書ききったことがないから見せられない、というのだ。
だから私は、彼はそのうち文学大賞への合格率を計算しはじめると踏んでいる。彼の中では「合格」がゴールであるからだ。そのうち効率化の名のもとに、入選作の傾向と対策を分析しはじめるかもしれない。入選作でよく使われる語彙や世界観を抽出し、それを再構築する「科学的」手法で「文学」に対処する、そんなコピペ人になるのではないか。
そもそもその関門が君にとって本当に、突破するに値するものなのかの検討こそが、いっとう最初に必要だろう。皆が賛同するものとは、上に述べた一般概念の産物である。したがってそいつはロクなものではない。「進路」とて、例外ではない。
それそのものを指向する態度。数値や一般論に還元されうる「覆い」には惑わされない姿勢。個性などというが、ほんとうの自分はそうした追求からしか出てこないように思う。
<了>