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医者の不養生~くだらないことに殺されないために。

医者の不養生という言葉がある。

 

これは「人には養生を説きながら、医者自身は体を大事にしない。 転じて、立派なことをいいながら実行が伴わないたとえ」の意味だという。

 

このたとえ、後半部分はともかく前半部はよく言ったものだと思う。

 

筆者の近所には開業医が以前からたくさんいるが、確かにここ30年ほど見てるとみんな長生きしてない。内科、外科などのジャンルを問わず、50代くらいで亡くなる医者が結構(3名)いた。それ以降の年齢で医者を続けられてるのは、知る限りでは82歳の歯医者1名のみである。

 

ではなぜことわざになるくらい「医者自身は体を大事にしな」くなるのか。

 

いろんな理由がこじつけられるだろうが、筆者の私見では、専門医として、すなわち上位者として患部を客観観察し、その観察で得た知見を既存の知識と照合する、という現代の診察及び医療行為が、めぐりめぐって医療者自身の心身に悪影響を及ぼすのではないか、と勝手に見当をつけている。自分の命とハダカで向き合うのに、目くらましが多すぎるのではないかという疑いである。

 

ケガを除き病とは、どんなささいな症状のものであっても部分に属するものではない。患者自身の暮らしぶり、人格や心理、他者とのかかわり、孤独との向き合い方など、生のトータルからつむぎだされる、その人固有のものだ。その個別のものに、一般解で対処しようというムリさが、現代医療にまつわる問題の、全部とは言わないがかなりの因子であり、それは他でもない、医療専任者にも及んでいるオーラであるというのが、ぼくの大風呂敷理論だ。

 

よく患部の悪化した部分写真なんかが待合室に貼られているでしょう?あれって実に悪趣味だと思いません?啓蒙のつもりか知らないがあんなポスターを作製し、掲げて平気なその神経を疑うね。グロい画像が多いということではなく、あれが病のトータル性にほおかむりして、なかったことにしておいて、部分のみの抽出と指摘で平然とサラり済まそうとする醜い態度の表れであり、原爆による悲惨な被害者写真のごとく悪趣味である。「自分には関係ないね」とうそぶきながらデバカメする、その根性がおのれの死を招く。あれを撮影された患者自身の身になって考えると、実にいたたまれないではないか。自分の病状くらいは自分のものにしておいてくれないものか。

 

いい医者とは、患者と向き合う姿勢を大事にする人のことだし、そういう人はアフターケアも、医療本番と同じくらいの比重を保とうとするのではないだろうか。

 

いま認知症やうつ病など、正常と異常の線引き刷新を、病気サイドから濃密に迫られるような、人類史上でも新しいタイプの障害がかなり出現してる。そして軽度のそれらには新しい医療ともいうべき、トータル性を見据えた哲学レベルの対応が必要とされている。従来からある対処療法の発展型では、せいぜい認知や心理のタイプ別カテゴリー分け診断しかできないのであるからして、診断したその後はせいぜい投薬とか経過観察とかしかなく、無策に近い。要するにほとんど無力である。

 

したがってこれからはそうした病に対し、これまでとは位相を変えた世界観、及び取り組みが必要だ。たぶんそれは人間存在の根っこからの対処法である。そのヒントは「人は誰でも認知症である」「人間は半端な誤差でしかない」「人はみな、本当は忘却などできない」「痴呆と平安は紙一重」というような怜悧な励ましの中にあるのであって、それは逆サイド的な主観発想からしか生まれない気がする。自分をどう位置付け、つまらないものに惑わされず、どう充実して生きるかという指針が、病から身軽でいられる唯一にして絶対の方策である。

 

医者だけでなく、芸能人(役者)もガンなどで、比較的短命であることがよく報じられる。有名人なので目につきやすいということもあるが、あれも医者が短命なのと似ているような気がする。つまり、客観性への逃げである。役柄を演じることや、有名人であればチヤホヤされることといったつまらん「部分」の追及により、役者は自分自身の生をまっとうすることすなわち全人性の充実をおろそかにさせられるのではないか。くだらんことの細かな蓄積のせいで、重篤な病に導かれやすくなっていくのではないか。多少運動しようが、食事に気を遣おうが、自分の生を生きるという大切さの前では、大同小異。そこらへんはやったってやんなくたっておんなじことである。

 

健康へのあさはかなこだわりほど不健康なものはない、と極論する。

 

<了>