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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



生活に根付いた心情、実感からハズれていく仕事~保険とはいったい何か?

こないだ知り合いと、保険会社の選び方について話す機会があった。

 

その知り合い曰く保険会社とは、まずもって払いが悪いものであるのだが、着目すべきはいざ補償金が支払われた、その支払先側の評価でもって判断し、選択すべきだと。従来とは逆の視点から見ろ、ということだった。

 

なるほどと思った。利害関係の外にあった人からの評価は、正当で公平な可能性が高いからだ。

 

「保険と言えば自動車も生命も、保険料が安いからとか、昔から継続してるから、とか、そんな思慮ともいえない思慮で決めてるひとも多いが、そんな目先の、自分本位な考えで決定してはいけない」

 

ファイナンシャルプランナーであるその知人は、かように述べて戒めるのである。

 

僕はといえば、現代のいびつな保険(どこがいびつなのかは後述する)なるものは懐疑的どころか害悪と考えてるクチだが、ここでひとつ思ったのは、本来の保険とは共済である、ということだ。保険とは、共済制度として包括的に、社会をひろく覆うセーフティーネットであるはずだ。それは国や行政の制度にかなり近い、ホントの意味での公共事業だ。

 

その原点を忘れ、特約とかいうおまけばっかりに注目したり、利殖のイチ形態みたいに考えて貯蓄型保険だとかに色目を出したりすれば、あなたは私企業たる保険会社の、間違いなくいいカモである。

 

自分の不利益を最初から織り込み済みなのが保険の思想ではないのか。

 

つまり、道路では歩行者が例外なく優先であるように、保険でも救われる対象がいつだって主役だし、自分がそうなった場合をつねに思い描いてるという、持ちつ持たれつの思想でなければいけない。ところが今の保険商品なるモンは、全部自分がどう得するかしか考えてないのである。

 

保険とは、別の角度から考えれば、そのまま何もしなければ孤独になりがちな人が、周囲の人たちと手を携え、共生感覚を育むための、いわば教育のような機能を、地味ながらも裏方的に発揮するのが、その本来だろう。ただしく自分の孤独が見えてこそ、相手をしっかり見据えた対応ができる。

 

生きるとは、ポシャりつづけることだ。本当の意味での成功なんてどこにも存在しない。意識しようとしまいと、だれもが失敗者だ。なにかがはじめから、必ず欠落してるのが人間だからだ。

保険とは1回2回の失敗で孤独にヘコンでる人への、そうした先天性欠陥の肯定、そして欠陥転じて次の萌芽と為す期待である。ひそやかな、しかし確固たるみんなからのはげまし、うながし、である。

 

したがって保険の本当の敵は「孤独」「分断」「孤立」「疎外」だし、補償の手段は金銭だけではない。年越し派遣村なんてのがあったが、ああいうのがホントの保険の実践である。こどものいじめなども共生感覚の欠如からくるのだから、上に書いたような本来の保険的思想、およびその普及が、いじめ撲滅に役立つはずである。

 

社会にはびこるそうした、人間疎外的なものを解消するとか、少なくとも希薄化していく意志がなかったら、保険会社なぞは単に人心に不安を焚きつけながらカネを回収して廻る循環組織でしかない。これが先に書いたいびつさである。

 

(保険会社はたまたま儲けのネタが保険「商品」であるだけで、その意味でいえばネタはなんだっていいってのが正直なところではないかな。不動産とかいろいろ手を出してるみたいで、多角化経営なんて言うと聞こえはいいけれど、これは節操のなさの裏返し。まぁここらへんは保険会社に限らないハナシだが)

 

さてその企業つながりで想い出したのが、最近の企業における(特にB to B分野における)顧客おいてきぼり&自社都合優先型の姿勢である。これすべて、生活感の希薄化、ハナからの疎外に端を発する。

 

たとえば得意先の登録に、住所が1か所しか関連付けられないシステムになってるとか(枝番で処理するなり何なりすればいいのに)、ターゲットリスト(一般人)の獲得に大枚をはたくとか(売り込みたいなら正々堂々と、ネットなどでやれ)

 

身の丈に合った、生活実感から仕事を見据えていかないと、作業に追われる・使われてしまう人にはなれても、仕事を自分の方に引きつけるとか、仕事を追いかける人、呼びこむ人にはなれない。手段も組織も、仕事の内容変化や顧客実態の推移と対照・吟味し、変化させるべき部分はすみやかに変えるべきである。その順番が逆では、そもそもの自分こそを形骸化せしめてしまうは、これ火を見るより明らかである。自分の手しか考えてない将棋は秒速で詰むものだ。作業に追われる人のセールスは、すべて自分ための営業であるし、そこら辺は誰からも見透かされる。

 

繰り返すが、生活実感からかけ離れた仕事など、なんの意味もないし、それを実施していた他ならぬ自分が、最後には苦い汁をのむ。それを疎外というのだ。

 

(ブログ界では1日1記事を3か月毎日書いたりする苦行が、継続の観点からエラいとされてるが、肝心の文に中身がなければ、そのブログに何の意味があろうか)

 

いわゆる保険会社、生保企業においては、以前から勤務者はおのれの人脈での新規契約獲得要員としてしかみなされておらず、ノルマの人脈が尽きればすぐ解雇される(ぼくの知人にもこの手合いが多くいた)というのが、疎外の皮肉でなくて何であろう。

 

共済の意味での保険を、他でもない保険会社が一番分かってないというこの光景は、不毛のひとことにつきる。雇用保険などという「特約」みたいなのは付けてるにせよ、むなしさは残る。足元の仕事を、利用者目線で相対し、検査し、変えてみる、この地道で単調な繰り返しにしか仕事の前進はない。

 

<了>