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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



地方銀行の支店が、ド田舎でもつぶれないのはなぜなのか

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地方銀行の支店が、ド田舎でもつぶれないのはなぜなのか

 

何十年か前、コンビニにATMが設置された時期以降、銀行の支店の役割は確実に減った。お金をおろす、こんな一番日常的なことが銀行の支店に出向かないと出来なかっただなんて、考えてみればATM普及以前はずいぶん屈辱的な制度に従わされていたもんである。別に銀行に預金しなきゃならん法もないし。

 

でも、減ってもいいはずなのに、今でも銀行の支店数は体感的にはほとんどなくなってない。特に地銀の支店は地方各所に健在である。たとえば筆者の住む宮城県の筆頭地銀に「七十七(しちじゅうしち)銀行」というのがあるが、ここの支店はさして広くもない宮城県内に142店舗もあり、そのひとつひとつに正社員が配置されている。建物はあったって別段ジャマなものではないが、この栄枯盛衰の激しい現代の中で、金融機関の支店がゆるぎなく安泰なのは不思議だ、とは思わないか。筆者は金融業界のことなど詳しくは何も知らぬので、以降はこのナゾ(笑)にバイアスをかけて独断で解説し、毒を吐く次第である。お付き合いいただけたら幸いだ。

 

もちろんこんなイチ素人でも、銀行の機能は口座からの現金引き出しだけでないのは分かる。融資の相談とか、金融商品の説明だとか、貸金庫業務などなど、いろいろあるんだろう。でも支店に行くとそっち方面の窓口はだいたい空いてて、人が並んでるのはATMの前とか口座関係の窓口ばかりに見える。銀行にとって市中のカネ(=庶民の預貯金)は、単なる「仕入れ」である。金利でおっきく儲けるための原資(の一部)でしかない。そうしたチリも、積もれば山となるが、基本的にこまごまとしたものであるから対応は機械などに任せておけばよろしい、となる。

 

イチ庶民としてカウンター越しに観察してみると、前にも書いたが悪いけど銀行の中の人たちは、そんなに大した仕事をしてるようには思えない。彼ら彼女ら行員サンは、キチンとした服装で常に忙しく、うやうやしくもまじめに立ちふるまってるようだけど、でもキチンと感も忙しさもマジメさも、その仕事が実質的な重みを持ってるかということとは、実はぜんぜん関係がない。むしろ逆の場合も多い。行員さんなんかは、まず第一に、自銀の「権威」や「建て前」に向かって仕事をしてるように思える。

 

さて一方で、銀行と同じように全国津々浦々にある施設に、学校がある。近年では少子化や地方空洞化により、ご承知の通り義務教育校の統廃合は著しさを増している。でもこないだも卒業生15人の地方小学校の卒業式を撮影してきたけど、子供への熱意や重要さの総量は、児童数が300人いるマンモス学校だろうと、生徒がたったひとりしかいない分校だろうと、変らない。カリキュラムとしての教育制度とは別に、その子ひとりのために教員も地域も支え合うのが公務としての教育の、志の高さの表れだろう。こうした現場では金融業とは違って、建前に奉仕する倒錯はほとんど見られない、というのが実感だ。お金は記号にすぎないが、子供は具体である。

 

ここで思うのは小中学校のような、経済なんかよりはるかに大事な子供成育の場は、昨今のように乱暴なまでに「合理的に」統廃合をすすめてきてるのに、なんで金融機関は無傷のままで今日も明日もノホホンと、涼しい顔で同じ場所に居座って、しかも午後3時とかには一律で営業終了なんだろうか、ということである。

 

銀行の場合、統廃合みたいなのはするとしても、それはA銀行とB銀行との合併、すなわち親会社同士の資本系統整理であって、なんというか、財務の帳尻合わせの整合性・落とし前、要するにおためごかしっぽい。支店の現場はほぼ無風のように見える。

 

冒頭にもチラと書いたが、コンビニにATMが立ち並び、クレジットカードでネット決済ができたり、仮想通貨が流通したりだといった金融変化の中では、50年くらい前の物理的拠点としての金融機関の意味は変わってきてる。支店だけでなく銀行の本店も、その意味は薄まってきている、弱まっている。そこに無自覚なのは、判断停止の愚鈍さや臆病さの表れであり、もっといえば怠慢だ。

 

(で本当は金融の意味そのものが変容していってるので、建物レベルの話なんかむしろ末節の議論なんだけどね)

 

銀行と同じようなものだと郵便局ってのもそうだね。郵便の社会的地位が相対的に下がってるのに、まだ郵便局は津々浦々に健在で、統廃合みたいなのともほぼ無縁。郵便受付カウンターに客が集中し、融資とかの窓口はガラガラというアンバランスさも、銀行にそっくりだ。客のニーズにレイアウトが対応しきれてない。ひな形に沿って造っただけのカウンター配置と、当然それに沿うように決定される人員のオペレーション。自分しか見えてないとそうなるわな、という感想を持つ。支局を減らすことが、携帯が普及したから公衆電話を減らしたように簡単にいかないのは、支店が機械でなく雇用機会の場であるからだけど、そういうのは組織しかみてない態度なんじゃない?そこらへん、もう本末転倒じゃないのかね。

 

全国津々浦々にある金融機関の支店。地方でも首都圏でも、本当に必要とされてる拠点は(あるんだろうけど)たかが知れてるはずだ。拠点の持つ建物固定性と、経済や金融、情報の流動性は、時代の利便性が進めばいつか真っ向から対立する。いまの経済ニュースはその「段差」に真因が求められるような問題であふれている。ここ数十年は過渡期だっただけだ。むしろ今や、金融機関の支店を存続せしめているものこそ、「不経済」の正体だと断じていい。そう考えれば、その本丸たるメガバンクの本店(本社)そのものもしかりで、だいたい数が多すぎるのである。「三菱東京UFJ銀行」と「三菱UFJ信託銀行」の違いなど、まるで冗談である。間違ってくださいといわんばかりにややこしい。これはメガバンク側からの、ユーザー不在のセクショナリズム押し付けではないのか。

 

だから銀行や郵便局の本部は既存の不動産にただいつまでもしがみついたり、リストラを忌避してないで、そろそろ大ナタを振るって事業縮小でもして廃止し、支店建物は地域のコミュニティセンターに転用したり、捨てられたペットなんかを集めたふれあいセンターにしたり、廃止された小学校の代替分校として「復活」させるとか(認可制度の悪点などは、行政に働きかけて改善してしまうのがホントの仕事だ)、いっそ建物は取り壊して共同菜園みたくするとか、なにか新しい「芽生え」の拠点にしたらいいんじゃないか、と勝手に言ってしまう。話はズレるが、こういうトータル視点からの地域再構築指導が、行政の本当の仕事でないのかね。

 

本体の経営が堅調なうちにならそうやって転身できるし、これがホントのリストラ(事業再編)だとも思うし。

 

切実な必要に駆られていま、何かを切り捨てることは、気恥ずかしいが言ってしまうと、むしろ今後に花開くための種まきだ。つぶすなら、つぶしてしまえ無用物、それがやさしさ。証券会社の、構えだけは立派な本社ビルとかを見上げてると、なんだかむなしくなってくるよ。

 

え、銀行で働いてた行員はどうするのかって?

 

自分なりに働きはじめりゃいいじゃないの。既存の権威や建て前の方じゃなく、あたらしい価値や実利に向かって。そりゃ苦しいし、何度もポシャってメゲるし、ぼくなんかも何度トライしても全然ダメダメさ。けどみんないつだって、これから芽吹く種みたいなものじゃないか。ひとりひとりが学校。巣立つ母体は自分の中にしか生まれない。

 

当たり前のことだよ、そんなことは。

 

<了>