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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



「はあちゅう」こそが、自分を縛る肩書きだ

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たまにはトレンドに乗ってみよう。はあちゅうが久しぶりに第一線の話題に躍り出たのだ。上の記事によればはあちゅうは、自分はライターじゃなく作家だと宣言し、媒体にも作家で呼称統一するように、つねに求めているらしい。つまり、もう何年も本人が言ってることの繰り返しだ。作家作家っていつも懸命に主張してるもんな。

 

www.excite.co.jp

…で、上に貼った概略記事のように、はあちゅう慣れ(?)してない人たちにその主張がかぎつけられ、ライターとか作家といった言葉の定義付けで周囲はボンボン燃えさかってる。あまりにやいのやいの言われるもんだから、はあちゅうはいつものように強権発動!「自称作家」と肩書き変更せざるを得ない非常事態に追い込まれていた(ただしこれまたいつものように強がり付き)、それが昨日のできごと。

 

 

で、騒動から一夜明けた本日は、以下のようなブログを書いた。

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曰く、「他人から見える自分の肩書きなんてどうでもいいと思いつつ、自分で名乗る肩書きを認めてもらえない世の中なんて息苦しすぎるので、私はこの件に結構執着しています。」

「世の中の同意がないと本人が肩書きすら名乗れないって、どうなのか。」

「肩書きには縛られない、新しい作家の形を作りたいという志があって更新し続けているnoteのほうもよろしくお願いします。」(←人一倍、旧来的な作家認定されたがってるくせに何いってやがる)

 

…なんて、一切反省もない。肩書きにこだわる・こだわらないとの間で、いつも認めてほしい、構ってちゃんな乙女心は大いに揺れております。文意もヨロめいてて、作家でなく錯覚の間違いではないか?などと感じ入る次第です。

 

しからば教えてしんぜましょう。ええですか、逆ですよ。あなた自身もお気づきの通り、自分が何者なのかを評価しレッテル貼りするのは、あなたじゃない。世間だ。そこを逆に考えてる限り、その息苦しさとやらは終わらない。肩書きを名乗りたいなら「文筆業」「著述家」程度の、古風ではあるがイヤミ成分をほとんど含まない、ニュートラルでドライな言葉にとどめておいて、周囲になんと評されようと、それには抗わないでおく。媒体での肩書きに目を光らすヒマもないくらい自分の仕事にひたすら粛々と邁進してゆく、これだけだ。逆に言うと肩書きなどという些末にこだわってる時点で、肝心の文に内容がないことがバレてしまう。そんなこと、聡明な貴女なら分かってるはずだ。

 

はあちゅうが批判されてるのは、あの程度の文をなんぼ量産したってクズはクズ、だからおまえが作家いうな、ではない(いや、少しはあるか)。ライターや作家といった言葉のニュアンス違いでもない。肩書きの効能そもそも論でもないし、自己承認欲求と実際とのズレの話でもない。

 

非難を浴びてるワケは、自営の人間が自分の考えたエラそうで不釣り合いな肩書きを名乗って恥じらいのそぶりもない、そこに厚顔な態度が透けて見えるからである。「作家」に感じられる、のっぴきならない闇や、屹立とした切実を抱えた個人が、自分を「はあちゅう」などと言うか?という自省がないからである。そしてそんな自意識過剰なイヤらしさを大の大人が自覚もしないばかりか、稚拙な言葉遣いと論法で、逆に声高に理論武装して強がり主張してることへの周囲からの違和表明。それらが批判となって噴出しているのである。

 

また、批判に対する彼女からの応酬が、肩書きが必要なのか不要なのか分からない、あっちふらふらこっちふらふらのゆるふわであり、それがまたさらにはあちゅうの自意識過剰さを浮き彫りにするといういつものループ構造が、これまたクサいからである。彼女のおこした数々のボヤ騒ぎの原因は、常にこの「みずからを省みることなく強気を通す」ワンパターンであって、「作家」であられる限り、そしてこの鈍感さに気付かない限り、彼女はこれからも炎上騒ぎをたびたび起こすだろう。要するにお子さまである。

 

はあちゅうよ。そもそも「はあちゅう」とは、自分の子供時代の自称(本名:伊藤春香)であり、そこから名乗りはじめたペンネームであるらしいな。しかしピカチュウだかハイチューだか知らないが、自分の幼児時代の甘えを他人に押し付けるそのネーミング感覚こそが、自分を縛る大いなる肩書きである、とまずは自覚せよ。

 

と、ここでいいこと教えてあげよう。自分の人生は自分のものじゃない、みんなのものなんだよ。特定の肉体と時間を借りて、ヒトのある種の具現化が行われてる実験場、それがぼくやあなたの人生なんだ。たましいは、老若男女みんな同一であって違いはない。だから自分の名前は記号として、改変せずに唯々諾々と受け入れるものなのだよ。

 

その潔さの中にこそ、自分を見限るとか、自分が大事大事ちゃんマインドからの卒業意志とか、自意識ゼロ過剰といった好ましさが含まれているのだ。わが身カワイイカワイイ自分が一番大事!的な保身からは何も生まれないどころか、周囲との軋轢が生じるだけなのは、もう言わなくても分かってるよね。(まちがった形での)個性重視とか、ペンネームとかラジオネームとかの風潮に流されて、うっかり自分の夢をネーミングやアカウントにしたりしないようにしよう。

 

事実、本名の伊藤春香名義のFacebookでは、寂しげでありながら、気負いのない、スッキリとした顔写真がTOPに採用されている。同じ人物でありながらいつも作りものの、寒々しい笑顔で目が笑っていない「はあちゅう」とは、実に違った顔に見える。「伊藤春香」なら炎上とは無縁の、みなに愛される、等身大で朗らかなお嬢さんのような気がする。

 

ぼくはこの「伊藤春香」の透明な素直さを支持する。つつましく清らかで、いい名前じゃないか。そこにはウソはないし強がりもない。したがって肩書きも無用だ。

 

<了>