ビートルズはなんといってもヴォーカルであった。ロックの長い歴史の中でも肉声の強度がズバ抜けている。特にあの2名。「その人の声でなければならない」という切迫した人格を反映したあの、のっぴきならないシャウトは、聞き手に居ずまいを正させる磁力がある。音楽鑑賞などという高みの見物的態度を反省させる契機がある。対峙を強要する素手の迫力がある。
なぜあれほどまでにうたがソウルフルであったのか。黒人音楽のソウルやR&Bと違うのは、破綻を隠そうとはしないところであった。ダイレクトでむき出しであった。生の濃厚な凝縮であった。声のかすれや割れをそのまま出し、ダブルボーカルなどの録音技術への逃げ、依存、処理は、後期でも最小限だった。また主要2名だけでなく、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターの声のトーンの違いもうまく緩用し、曲の構成に意外性とふくらみをもたせた。
ジョン・レノンは、あるときポール・マッカートニーに向かって「きみのは軽音楽だ」と言い放ったそうだ。
ビートルズは天才であったが、飽きと変節が結果的にうまくいったバンドだったからあとで天才と称された。
いちずにやりすぎるとストーンズやメタリカのように、うっかり長く続けられてしまう。ロックバンドには音楽のスタイルを確認すること自体がスタイルとなって、それが持続できる最大のポイントとなる領域がある。AC/DCなどはその領域に居続けているバンドだ。
表現活動の世界で、長年に渡ってアーティストを続けられちゃう人は、途中からウソの成分が増えてくる。
ぼくはオタクではないがオタクの「持続力」がうらやましい、と同時に疑わしい。よく飽きずにままごとを続けられるものだ。
ビートルズが70年に解散したのは、当時録音技術が飛躍的に向上し、声の荒れを平滑に、マイルドにコンプレッサーをかける傾向が顕著になったことへの抗議ではなかったか。うたを破綻させたままで録音するのでなく、商品化の発想のもとに、あらかじめ丸めてしまうことに「飽きた」のではなかったか。
また、ビートルズの解散要因のもうひとつは、録音作業やレコードやラジオ、テレビといった中間伝達物へのもどかしさ、イラ立ちではなかったか。ハンブルグ時代はあれだけ熱気のこもったかのようなコンサート活動も、いつしか直截的なものではなくなって、やめてしまった。だがもしかしたらハンブルグ時代も、じつは大して聴衆とは一体になれなかったのかもしれない。
レコードへの録音しか、声を届けるすべはなかったあの時代。
やはり音楽「活動」とは、不純なものなのだ。瞬発で溶解という性格を持つライヴ演奏と、それを続けるという、永続で固着という性格の経済的要請。こうした音楽の純正性との拮抗構造が、バンド活動のテーマにすりかわってしまう。これが近代音楽シーンの不幸であり、ビートルズはその期初告発者であった。あのヴォーカルの生生しさは、いまでも聴者を撃つ。
<了>