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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



思い出のメディアはいたるところに。

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*焼きメシひとつに味という記憶が宿る。

 

人は日常のデザインを無意識のうちに記憶している。たとえば食器のデザイン。潜在記憶にこびりつくように、食器はふとしたときにいろんなことを思い出させる。

 

僕は離婚を1度経験している者である。離婚とは、ある関係性の終わりであって、人と別れるということは終わりの後始末をしなければならない、ということでもある。

 

離婚のあと、元女房と二人で暮らしていたアパートを、ひとりで片づけた経験がある。最初は居間や寝室やそこらにあるガラクタを、事務的に片づけた。大型家電やソファーなどのかさばるものをリサイクルショップに運んだり、掃除したりしてるうちに、淡々と時が過ぎた。しかしある段階から徐々に、その片づけが心理的にヘヴィーになっていった。それは後始末がキッチン周りに及んでいって以降のことだ。

 

そう、別れの後始末でいちばんコタエたのは僕の場合、思い出の写真やら何かの記念品などではなくて、なんといっても食器類だった。全部捨てるつもりだったから余計にしんどかった。

 

毎日必ず使っていたあの多目的に使える平皿、なんでも放り込んで煮た土鍋、調理に失敗しながらも、らーめんにも親子丼にも使いまわしたどんぶり、友人を招いてイタリア料理でホームパーティーしたときに重宝した大皿、お気に入りの箸、丸みが手になじんだスプーンといった、実にささいな、なんでもない日用品としての食器とケジメをつけるということ。食器は単なるモノを越え、食事という「コト」と結び付いた思い出メディアだと知れた。

 

自治体の決まりで陶器やガラスは分別し、処理場まで自分で運んで捨てなければならない。この分類が、さっき書いたようにじつに参る作業だった。お茶碗ひとつ手にとってはタメ息をつき、グラスを手にしてはタメ息をつく。自分の記憶も分別して捨て去るのを強要するかのようなこの分類作業は、まったく予想外に時間がかかった。

 

怒涛のようにため息が出た。泣きはしなかったが哭いた。

 

トドメに、キッチンの奥から干からびた昆布が出てきたとき、ダシの取り方で元嫁とやりあった記憶がよみがえり、作業なんかやめて酒をガブ飲みして寝てしまった。こんな夜もあるのだ。

 

食器類は翌日全部捨てた。2012年11月のことだ。

 

あれから4年経ったがまだ独り。依然として「片づけ」は終わってないってことだ。今夜も酒をヤるしかないだろう。

 

<了>