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物語をキャラの対立軸で製作する不毛…ムリ設定のドラマが社会の生きづらさの根源

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子供向けのアニメや特撮ヒーローものは、ひずんだ人格の生産拠点

 

当方47歳だが、テレビの記憶をたどると「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年)が決定的によくない番組だったな。

 

それまでウルトラマンでも仮面ライダーでもなんでも、ヒーローは敵とサシで勝負するってのが基本だった。ウルトラ警備隊とかウルトラファミリーとかのワキ役はいても、主人公は身体ひとつで敵怪獣に立ち向かい、痛みを受け、血的なものを流し、身を切られながら戦ったものである。これは戦後のプロレス、特に力道山みたいな「強いお父さん」の系譜なんだろうな、と今にしては思う。ヒーローだけでなく登場人物の中のナントカ隊の隊長も、仮面ライダーのおやっさんも、幕間でいぶし銀に光る、父性と中庸の補強であった。

 

ところが75年に出た後発特撮ヒーロー「ゴレンジャー」になってくると世界観が変わってくる。ヒーローは5人揃ったユニット、チームで「活躍」するようになったのだ。それでいて敵は(戦闘員や世界征服の組織などはいたが)基本的に毎回たった一匹。その1匹がゴレンジャー5名の総攻撃を受け止め、最後はたいていなすすべもなく、こっぱみじんに破壊される展開であった。

 

つまりコレ、いじめである。

 

そしてゴレンジャーにリーダーはいるが、周囲にはおやっさん的包括人物、人格者は希薄であった。チームの構成員に女性はひとり、常に設定されているが、それは作劇上の付け足しにすぎず、基本的に全員が戦闘に前のめりである。そして行き過ぎの暴力を歯止めする父性は不在という構図である。それはまた、ひとりで立ち向かう潔さ(敵)を否定し、宇宙戦艦ヤマトやガッチャマンなどでもそうであったように、チームでの任務遂行を尊ぶ姿勢、その単純で明快なる強調でもあった。

 

ゴレンジャーのようないわゆる戦隊モノは、スポンサーたる玩具メーカーが、おもちゃをたくさん売りたかったから登場人物を増やす設定にした…という話は、今では周知の戦略である。しがたってつまらんオモチャをなんとか売りものにしたい当時のセコい考えが、わたしを含めた当時のこどもに、集団いじめの浅知恵をつけたといって過言ではない。

 

一方そのころ、女の子向けには東映動画(現・東映アニメーション株式会社)に代表されるアニメシリーズがあった。魔法使いナントカカントカ・シリーズである。昔のセーラームーンとか、今のプリキュアの原型である。そしてこっちも男の子向けのと大して変わらぬ構図なのである。

 

この原型シリーズも、今に至る連綿たる東映女児アニメの流れも、やたらキラキラした見かけを装ってはいるが製作陣が男性だからなのか、やはり敵を措定した戦闘対決路線であり、かつ集団で異なる敵に立ち向かうパターンであった。したがってかような番組を観て育った少女たちからは豊かでほのぼのしてて素朴で素直な人間性の育成契機を激減させ、かわりにカラっぽで表面だけの可愛さを与え、かつまた男的な単一指向の闘争本能育成に寄与し、当然ながら同時にオモチャやアプリをも買わせ、そうした一連の「オトコ価値観」の植え付けの果てに、今の男女平等社会とかいう名の実質的な総奴隷化社会(それも奴隷なりに不公平なそれ)の成就に、一役も二役もかっているのである。

 

まーこうやって文にすれば、昔からPTAなんかでさんざん指摘されてきたことと同じである。つまり、暴力的なコンテンツのテレビでの氾濫が、子供たちに悪影響を与える云々の図式である。最近あまりそれが言われなくなってるようなのは、当方が子供に縁遠いせいなのかは分からないが、社会が隠ぺいに巧妙になったからなのかもしれない。特に少女系アニメに潜む暴力性は、以前からあまり指摘されてないし。

 

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テレビがカラー放送時代に突入したあたりからつまらなくなったと、先日亡くなった永六輔はヒトゴトのように言っていたが(テレビ当事者のクセに)、「つまらなくなった」理由は、時間枠を番組で埋めることが何よりも優先される様になったからである。当為が先立つようになったからである。なにか放送しなきゃいけないから、何でもいいから粗雑乱造する。量が必要になる。できればヒットする類の。丁寧に作る時間も予算もない。したがって製作陣は安易に流れる。

 

なにかとなにかを対立させて、その対立項のうごめきでドラマコンテンツをつくる、そんなある意味カンタンな時代は、大昔の剣豪小説あたりでたぶんとっくに終わってた。そんな当時ですら終わってた方法論が、方程式はできてるので、その流れに沿ってベルトコンベアー式にコンテンツを作るのには最適解だった。つまり、工場労働に似てる。高度成長期は、コピペの時代、そして拡大再生産の時代でもあった。こども向けの番組も、モロにその流れの中にあった。例外は教育テレビくらいだろう。

 

さてそのあと紆余曲折はあったものの80年代にはシラケの時代が到来して、ご存知のようにナンセンスギャグや不条理ネタ、照れの表現が花開いた。その流れが基本的に今のサブカルチャーである。以前「なんで日本の演技はギャーギャーうるさいのか」という内容の記事を書いたが、いまでもたくさん存在する、対立を前提としたドラマや映画なら、俳優たちがわめきたてるのも無理はない。もともと無理筋の形骸にリアリティを与えようとあがく、シナリオや世界設定の方に無理があるからだ。ぼくらにそんなに対立は必要ないし、商売世界だとライバルはいるが、個人に立ち返れば対立は実際に多くはない。

 

ここらあたりにメスを入れるのは、大人になった「対立項育ち」のアニメ世代だろう。いままでの揺り返しをする時代に、とっくに20年前のエヴァから、入ってるのである。庵野監督あたりは、その第一世代に思えてならない。敵味方を描くコンテンツのもつ世界観は貧相で冷たい。旧人類の価値観だよ、それは。

 

<了>