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若者発の流行語・新語が少なくなったのはなぜなのか?

若者発の流行語・新語が少なくなってない?

 

なんだか最近、ひところのような頻度で流行語を聞かなくなった。流行語や新語といえば若者であって(いまの時代は30歳くらいまでは若者のカテゴリーに入ると思う)、何年か前まではキレッキレのフレッシュなワードが、半年に一度は街で聞こえてきたような気がするが、ここのところ若者世界も、どうも低調なのだろうか。

 

や、ぼくの勘違い、理解不足は十分あるだろう。なにしろこちらは47のジジィである。オジン度が日々進行し、それに反比例するように若者との接点は減少の一途をたどっている。ぼくが知らないだけで若者言葉はいろいろ誕生してるに違いない。

 

だがそれでもバスの中の女子高生の会話や、twitterでのおしゃべり、instagramなんかを見てると「これどういう意味?」っていう符牒がずいぶん少なくなったような気がする。LINEのやり取りの中に埋没した、ぼくには見えてない、狭い仲間内で細分化した"はやり言葉"もあるんだろうとは思うが、それにしても少なくないだろうか。

 

だとしたらこの理由は、単純に若者の数が減ってるとか、みんな部屋にこもりがちだとかがあるのかもしれない。いわゆるバカッターも減ったみたいだし、流行語の減少はこの辺りの要素と全部リンクしてるのかもね。

 

振り返れば大体10年位前まではこちらが感心するようなセンスある新語が、無名の若者たちの生活感情から自然発生的に生まれてきたと記憶してる。たとえばKYだとかドヤってるとか、「ガチ」や「パネェ」といった形容詞系、「ぼっち」に「ツンデレ」など。

 

で、ここまで書いてきてなんだが、偉そうに言うと実は筆者は日本の新語に肯定的でない。ここ20年くらいのスラングは、数が少ないだけでなく発想も安易な気がするからだ。安易というのは新語といっても省略や短縮(例:おっさん→「おつかれさん」とか、UFO→「うまくフェードアウト」など。最近は「了解」→「り」など究極化が進行中)がほとんどで、クチを開くのすらおっくうな手合いのために開発されたような言葉が多い。略語にもネタ系のセンスが必要なのは認めるが、どうも言葉の成り立ちが省略一択なのは、発想が短絡的じゃないのかね。それに何となく排他的なニュアンスも。

 

ここにはいわゆる粋な感覚は感じ取れない。たとえば寿司屋でお茶をあがりといったり醤油をむらさきと呼ぶようなセンス、はたまたインチキ学生を天ぷらと言うような(衣だけの意)、意味の逆相でトンチ(笑)を競うような活性化が、感じられないのだ。

 

 

「情報化社会」という言葉も約50年前の造語だった

 

さてそれでは、(いい意味での)流行語・新語・造語というのを考えてみたい。例えに引いてみるのは今では完全に定着している「情報化社会」という言葉。これは林雄二郎という人が1969年発刊の同著ではじめて考案し、遣われはじめたものらしい(ぼくと同い年のこの本、読みたいけどまだ読めてないんだなぁ)

 

(ちなみにこの著者の林雄二郎という人、経済企画庁所属の元官僚で、柔軟な思考力で八面六臂の活躍をした人だそうである。1965年に「林レポート」と呼ばれる、社会発展の基礎コンセプトを提出し、当時の経済企画庁内に新鮮な衝撃をもたらしたあたりを皮切りに、退官後は自ら提唱する未来学の財団運営や大学教授などを長年に渡り歴任し、2011年に95歳で老衰死。まさに自分なりの普遍的価値観を追求した、ぼくなりに言えば自分の生を全うした実に偉いひとである。官僚といってもこんな人もいるのだ)

 

で、「情報化社会」という「新語」は、1969年当時それまでの社会においては少量しか見受けられず、したがって旧来的視野に立てば目に見えず潜在していた「情報のシャワー」現象を、新視点に立ちうまく顕在化させ、わかりやすくすくい取ってネーミングした、開かれた造語であった。人間社会がその歴史上初めて出会う、処理不可能なまでに膨大な外者(情報)との関係性の、重大な指摘であり要約でもあった。

 

このように新語造語とは既成の枠からのハミ出しであり、それまで誰も意識しなかった生活の局面や場面を切り取って抽象化し、言語に定着させる、そうした一連の対応能力だと思う。そのためには生活を省みたり、自分を客観視できる余裕と知力が前提にあり、しかも広告コピーなどを除いてはほとんどの場合無償。考案するのも流布するのも対価を期待していない。

 

(またまた余談になるが言葉の世界から目を転じれば、この傾向に近いのが無料アプリの世界ではないだろうか。パソコンやスマホといったハードウェアの、性能も数量も十分に成熟した基礎の上で開花する、ソフトウェア開発とかアプリ発明の感覚が、新語感覚に近似のマインドであるという気がする)

 

だがそうした「生活を省みたり、自分を客観視できる余裕と知力」が減ってきて、現代のように少ない新語すらも、既成の言葉をただ省略しただけのものばかりになるとどうなるか。つまり、思考力が低下したままだと、どうなるか。

 

若者発の新語流行語が少なくなったように思えるのは、いつもの論旨展開だがこれはいよいよ人格の空洞化が進んできた証拠ではないだろうか。すでにある言葉の意味を吟味しないでただ飲み込むだけ。対応法は省略だけで外部に対しても閉じている。しかもその傾向は言葉の問題だけでない。例えばポケモンGOなんて、まさにアプリやゲームへの奴隷化現象である。今後AIとかVRが高度化すればするほど、人は既製のものへ知らず知らずのうちに「従順に」なっていくのは決定的である。

 

空気を読むのは、人間関係においてだけでない。あらたな言葉を「空気を読む」ことから作り出したっていい。言葉は人にしか持てない伝達手段だ。自分でさえ、言葉以外では定位できないではないか。

なおぼくの造語提案は、以前この↓記事に書いた「存在様(ざま)」である。

 

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<了>