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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



記事を〆るときに決まり文句をつかうプロブロガーは、傷つきたくないので自己防衛ラインを引いてるのだ。

「ワッショイ!」とか「そんじゃーね」とかの言葉でブログを締める手合いがいる。それぞれカンタンな一言だが、込めた意図があるトレードマークのようで、ご本人は気の利いた結句のつもりだ。しかし読まされた方は軽い違和を感じる。何が違和かというと、本論で言うだけ言って一方的に勝利宣言してドヤっている、本人の思惑とは別に、そういうニュアンスがそれらの結句には、こもっているように思えるからだ。いや当人が意識していないからこそ、そこには真相が潜んでいるに違いない。

 

ま、そうはいっても「ワッショイ!」の方は、無邪気な、というか何も考えてない感じが漂うので、ブログオーナーご本人にその意味を聞いてみたら教えてもらえた。このエントリーに書いたとのこと。

 

www.miyahaya.com

要するにワッショイ!とは自分を鼓舞する魔法のようなもので、みんなもアガろうよワクワクしようよ!ということらしい。これはまぁこんな程度だろうとは思っていた。

 

しかし「そんじゃーね」の方はそれより数段イヤラシイのであまり看過したくない。「そんじゃーね」に込めた意味は、著者がなんとかいう自書の中で説明してる。それによれば要は自分の記名性を刻印するために編み出したものらしい。これのおかげで複数の文が、個別に読まれても自分を認識してもらえるのだ、と。けだし、これはマーキングである。記号の意味合いだ。

 

しかし、そんなカンタンなもので自分を人様に認識させる、もしくはそう誘導できると考えるおめでたさは、根元から間違ってる。もし自分を認めてほしいなら記事本文に滲み出る本人性や、文章の肉体性で、じっくり牛歩戦術で勝負していくべきである。「そんじゃーね」などなくても「ああ、あの人の文だなぁ」という方向が正しいのだ。逆に「そんじゃーね」など自分を限定する檻でしかない。

 

アイコンとかヴィジュアルとか、ネット時代ならではのうまいやり口はあるかもしれないが、王道がコンテンツの中身であるのは、何百年もかわらない。そして実は中身すら、ブログの目的であるコミュニケーションにとっては、手段にすぎないものだ。

 

ちきりんの文は傍観解説者の余裕が毎回鼻につくが(ちきりんというネームは、著者本人の弁では別人格キャラなんだと。便利な世の中になったものだ)、着眼点が参考になったり、中身が感じられるものもある。だからぼくは彼女の著作を新刊で買ったこともあった。したがってその中身のある記事だけで勝負してたら良かったのに「そんじゃーね」の蛇足が毎回もれなく付いてきて、ぶちこわしてくれている。

 

ちきりんが言う「ロジック」もこれに似た香りがする事がしばしばあります。
まず、土俵を決めてしまう。そしてその中でいきなり猫だましをします。そして突っ張り、張り手、うっちゃり、手を変え品を変え読み手をコントロールします。

 引用元:2013、4、5 研究者・勝負師・芸術家 : ちきりんブログ撃墜するまでやめません

 

上のリンク先で指摘されてるように、まずは自分の土俵を設定し、聞かれてもいないのに縄張りを主張して、批判はノイズとしてハナからシャットアウトするという行為。これがちきりんの、ここ10年ほどで徐々に見えてきた外部への態度である。もうこれはブログウォッチャーには知れ渡ったことであるらしいので、最近は話題にもならない。

 

ブログなんだから自説を披露するのは当たり前、ではない。目的はさっきも書いたようにコミュニケーションである。ブログを起点とした読み読まれる相互作用の中にこそ、そのホンモノの意味が存在するのであって、文章や自説は、そのための「みんなの素材」である。

 

ところが「そんじゃーね」といういっけんPOPなマーキングの裏には、漆黒の闇のように断固とした排他がある。ふむふむなるほどと読んでいるうちに読者の心に徐々に熟成される、ちきりんに対する心理的連続性を、最後にスパッと一方的に切られてしまう断絶感がある。しかもそうしておきながら、「また読んでね」という未練がましい甘えの視線が見て取れる。これはまだ動いてるパソコンへの強制終了であり、コンセントの引っこ抜きである。これが冒頭に書いた違和感の正体だ。書き手のプライドばかり透けて見え、かつ読者のことは意図的に想定外という、みっともない行為の表れた結句といわざるを得ない。

 

Twitterなどを見てると負けず嫌いの性格であろうことがうかがえるちきりん。「そんじゃーね」という勝ち逃げみたいな一方的離脱の裏に、ぼくはちきりんのかすかな自己防衛を見る。彼女はいったい何を恐れているのか。負けることか?だいたい本当の自分を「ちきりん」キャラで隠して定位させまいとしてるのだから、「本当の」対話は始まりもしないワケで、だったら勝ち負けもなく自己防衛する必要もない。ロジカルに、自分の頭で考えたらそうならないか?

 

半端なプライドで自分の手ばかり考えてる将棋は、秒速で詰むものだ。同じマーキングなら犬のマーキングの方がよっぽど意味がある。

 

文章の組み立てとしても、結句だけ定型にしているのはよくない気がする。締めの文句をあらかじめ用意していることは、予定調和への落着を意味する。文意も結論もそこに向かって誘導されてしまうのではないか。たとえばまとまりのつかない文があってもそれを発表してしまうとか、破綻をさらけ出すことに意味があるような場合もあるが、それに「そんじゃーね」は合わない気がする。「そんじゃーね」は平易な言葉でそれ自体に意味はない。しかしだからこそ白痴的フィールドへの逃げの姿勢が感じられるのである。ちきりんはロジカル思考(笑)の人らしいので、このへんの文系思考は分かんないだろうなー。

 

文の落としどころを考えて書いていくことは必要だが、それは本文の躍動、句読点や修辞のリズムやノリ、文脈の持つ自発的な論旨の変化やふくらみ、といった多様性をスポイルするものであってはならない。結論部は本文の論旨の都度に、そのときどきで最も効果的と思われる言葉群を創出しながら締めていくのが、書き手としては当然ではないのか。芸人じゃないんだからキメせりふなんか持ってたって仕方ないでしょう。何のための「セルフブランディング(笑)」なのか。文章とは、読み手としっかり響きあうためのものではないのか。

 

記事の終わりはなんら意味の広がりを持たない、記号そのものにおとしめておくべきである。記号「的」なるもので、こざかしい言い訳することなど、不要どころか害悪だ。

 

 <了>