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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



自分の声が気色ワルイのはなぜなのか。

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ほんとうの自分を追い求めて

 

人は自分の声がわからない。自分の耳に響くそれは、自分の頭蓋骨というフィルターを通して部分的に響いてるものなので、外部に響く声とは違っている。
録音された自分の声が嫌い、ゾクッとする、恥ずかしいオゾマシイと思う人は多い。ぼくもその一人だし、そこまでいかなくても、「自分の声色」に違和感を持つ人はかなり多いと思われる。

 

自分で分からないものといえば笑顔もそうだ。ひとは自分の笑顔を客観視することはできない。
カガミを見て笑ってもそれは全部作り笑いになってしまう。
笑顔に限らず、泣きでも怒りでも、表情とはすべてそういったものだろう。
そして声色や表情ほど、瞬時にそのひとの内面を表すものはないのである。

 

声も表情も、人側の安易な作為や操作などせせら笑うかのように、自分の意に沿わない。自声嫌いや表情の硬さを克服できたという人は、錯覚か、思い込みか、慣れたかのいづれかに過ぎない。
自然な感情の発露というのは、吹き出てしまう、とか、にじみでてしまうものだ。
それらは自覚できないし、自覚できたと思ったとたんに消えてなくなってしまう、砂漠のオアシスのようなものだ。

 

このことからうっすら感じ取れるのは、ほんとうの自分など、たぶんどこにもいないのではないか、ってこと。そして変化し続ける自我なら、かろうじて存するらしいってことも。
人が知覚できるサイズの「自分」ってのは、おそらくこの変化していく領域にしかいないだろう。
個性なんてその程度のものである。

 


顔も声も身長も気に入らない。スタイルが選べる人生ならいいのに。

 

精神と肉体は、つながってはいるが別ものだ。自分の中身(=精神or主観)は無形なのに、肉体という有現のものに閉じ込められている。無形の内実が、有限なものや死ねば腐ってしまうもの、つまり客体に封印されてる。なぜこうした構造なのか?

 

それはたぶん人の本当の正体は、たったひとつしかない無垢であり、それは外郭を要求するからだ。
無垢は人格など超越しており、いいも悪いもなく、人的評価や科学的観測の埒外にある。

評価は出来ないが、むりやり形容するならば、無垢とは、反省と無縁である。
無垢は、無口である。そして無垢はちょっと呪われていて、破壊的犯罪的残酷なときがある。霊魂が直感的に怖いのは、それが無垢の抽出だからなのかもしれない。
無垢という言葉には100%ピュアな純真イメージがあるが、それはちょっと違うのだ。再生を前提とした破滅が、邪悪さが、織り込まれ済みのようなところがある。
とにかくこの惑星の、すべての生きとし生けるものに、その無垢は継承され息づいている。

 

このかけがえのない無垢の、無数の分岐や結晶現象が、ぼくら人間(の魂)であり、そこらへんの犬や猫やカラスにも、同じようなものが宿ってる。なぜなら動物の瞳の奥には、永遠が潜んでいると感じられるからだ。

 

そんななか、おそらく人間のみは、自分の中にある無垢さを確認し、共鳴し合い、押し広げてゆくことが、実はできる。たとえばこの文章がそうであり、ランボーの詩などもそうである。

 

そしてそういった能力を備えた人間に、同時に課せられたのは、客体(=肉体)という一定の制限、甲殻、拘束具である。その制限がないと、無垢の持つ、よこしまな要素が開放されすぎて生存が保てない。人はそういう仕組みなのではないか。

 

したがってこれは、分かりやすいイメージでいえばアニメのエヴァンゲリオン筐体なのである。
エヴァも、無垢の共鳴、拡大、そして再生のための破壊がテーマだったのだ。

 

さてここで、声や表情という意思疎通の際に決定的に大事なものが、自分には分からなくさせられている問題に戻ると、それは「おまえの個人性は、おまえのものじゃないんだぞ」という、無垢からのナゾかけなのではないのだろうか。
あなたは、わたしである。わたしは、わたし以外の誰でもある。
だからあなたの、自覚できないその声色やその表情で、瞬時に、お互いがお互いを「分かる」のである。

 


しらじらしいものにかかわり合ってるヒマはない

 

さっきTwitterを見てたら「自分の気持ちに正直に生きる。それがいい人生を送る秘訣」式の、チョーシいいだけのペラッペラなtweetがあった。
若者を中心にbotでずいぶん拡散されてるツイートのようだが、それは空虚なだけで何も語っていない。
「気持ちに(というか気分に)正直に」と呼称する時点で、気分や正直の影を追ってるだけになる。

 

本当に、本心から、気持ちに正直になれたことが、かつてどのくらいあったか?というか、正直って何だ?

 

無垢の持つ犯罪性は、こういう影を追尾させるような目くらまし的なところに、さっと何気なく出てくるのだ。

 

「気持ち」にシラケよ、「個性」を見限れ。自分の内なるマガマガしさを見つめよ。


「いい人生」とは、ビキッとライブに「分かる」その瞬間を、いかに長く、エレキギターのサステインのように伸ばせるか、そして分かりあうお互いが、自分の声のように頭蓋を通じて響き合えるか、それだけだ。

 

<了>