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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



九州熊本地震への処方箋。

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熊本をタイトルに掲げながらも、図版は福島県の汚染地図2011年8月版。この県境と同心円での表現に根本的な違和感を覚える。有事の際ここにあるような同心円上での「爆心地」からの距離、震度などの恣意的数値、自治体の境界線といった、もっともらしいがよく考えるとアホらしい尺度・基準に、ぼくらはあまりに慣らされてしまっている。
こうした「客観的な」指標に由来する弊害が、非常時には全面的に露呈する。
「円」より外側に対する空想力の希薄化、喪失。福島県の話だから県境までの記載でOKと落着する、そんな思考停滞が「ウチは、大丈夫」となり、明日の全体崩壊を招く。県境に固執しない汚染地図であっても海や隣国など、気を遣うべき「他者」は必ず各段階に存在する。

 

 

九州熊本地震への処方箋。

 

事態が勃発したエリア性つまり県や市町村といった行政区分、あるいは対応組織としての警察、国、自衛隊、あるいはナントカ大学地震研究というセクショナリズムが先に立った上で、巨大災害に対し「分断」するという態度で接すると、対応が極端に後手に回る。その弊害への考察が、未だ一般的でない。


全体的横断的包括的長期的視野に立った支援・救助活動は、局所や部分の最適によるそれよりもはるかに勝る。


東日本大震災及び福島原発人災の反省は、県境で災害状況を区切ることに象徴されるその姿勢が、今回の熊本地震(狭い地域性に押しとどめるようなネーミングをまた付けおって!)でも依然として活きてることからみるに、初歩にも到達していない。


この、まったく当然がごとくに自治体の境目で判断するセクション姿勢(どこそこ町では何人死亡と報道されるが、それが死亡時の場所由来でなく、その本人の本籍地で表示されるなど)や、非常災害対策本部だか緊急災害対策本部だかなんだか知らないが、「本部」や「司令塔」が必要とされるなどとハナから思い込んでるその旧態感覚。海外で巨大地震が起きれば、いの一番に報道されるのは在留邦人の安否というその違和感。


こうしたものが、天災の自然規模を、時間の経過と共に極大の人災ならしめる大きな推進力になってしまうことを、当の司令官たちがお気づきでない。震災関連死など、一人でも発生したなら危機管理など画餅に帰する、大失敗である。

 

本部はいう、状況は複雑で時々刻々変わるから、と。
しかし被災者の皆さんはギリギリまで我慢して、困ったときはお互い様と気を張っているのだ。
本部など、プランを練るなどくらいは許容してもいいが、現場要望最優先の御用聞きでいい。あとは全体の状況把握と、資材物質配分の最適化が使命である。


組織対応は、管理者や指揮系統を必要とするが、それはそれだけで権力である。
そして権力による強権発動は、崩れた土石流の除去、損壊家屋の片付け、主要道路の整備など、重機や土木のパワーが必要とされるところ、避難所や介護医療、仮設トイレの設営などといった初期対応等には、確かに有用であるが、それ以降の復旧期には、傍流となりフェードアウトしてゆくものだ。
元からある避難所を補強、増設するくらいならまだいいが、仮設住宅を設置する段階までいくと、下手すると一部ゼネコンなどの既得利権の養分になりかねない。なぜならそこまで進んだ「権力」や「本部」機構は、「一般論」の世界になっていくからである。


世のものは何でもそうだが、一般的なるものでくくる、まとめると、とたんにそれは人から遊離し、手段の目的化に堕すのである。一般化などという、筆者に言わせればまったく粗暴な結果論的概念が、すんなり適用されて落着する個人など、有史以来ひとりもいない。みな、一般という枠から程度の差こそあれ、必ずハミ出す存在なのである。そのハミ出す部分に最大限フォーカスするのが平時は民間ビジネスのネタであり、異常時には行政の、もっともベースとすべき思想となるのである(本当は平常時でもそうあるべきで、だからこそ災害時緊急時においてもそのコンセプトはゆるぎなく継承されるっていうのが理想だが)


いまの避難所を見たまえ。災害からの避難などの極限状態は、まったくひとそれぞれの個別の、高次元の状況であり、そのことに対する声なき悲鳴が避難所には充満して居る。


この一般論と個別を区別し、一般論的部分よりも個別対応に重点を置いて、キメ細かに対処すること。感情や情緒を廃し、災害対応もその2つをしっかり区分けして対応してゆくこと。それが今後の基本である。これは行政区分やら対応組織といった今までの公的基準とは、文字どおり次元の違う上位的対応になる。


実はこの一般論の考えは、平時に個人に降りてきて自律神経に影響を与えると、いわゆる「郷土愛」「地元至上主義」となってその人に固着する、そんな類のものである。マイルドヤンキーも、昔からの暴走族や体育会系なども、その仲間だ。筆者に言わせれば郷土愛など、催眠術に伍たるものである。


スローガンとしての「絆」や、今後大々的にうたわれるであろう九州魂とかオール九州めいた言葉は、一般という安全帯に遊離した仮設的なものだ。それは被災者の心情を鼓舞する、慰撫するようでいて逆にさか立てることになるから、そうしたシュプレヒコールには今後うっかり乗らされることのないよう、めいめい注意されたい。仮設はいずれ本設に取って替わられなければならない。


(東北の太平洋側など、いまだそうしたスローガン呪縛の渦中にある。放射性物質で汚染されきったエリアなど、がんばりようもない。水産業を立て直すにしても、いちばん頼れるものはゼニカネである)


金銭の話でいうと、被災地以外からでは個人の義援金とか、ふるさと納税での応援など、現段階でも経済的支援の手立てはいろいろあるらしいが、ばらばらにやっては被災地個々や個人の格差につながりかねない。
また、第三者の懐に入って使途不明金となったり、いつの間にか雲消霧散したりなど、もっとも言語道断なことにもなりかねない。日本赤十字社だって聖人君子ばかりでない。


こういう硬直な一律対応が必要なときこそが強権発動、一般論ふりかざしの出番である。政治とカネ、相性もピッタリだ。


こうした個人の善意ものはあえてすべて禁止し、日本国政府が、為政者のトップの権限を最大限発揮し、全責任を持ってこれらを半端ない規模の集金にまで組織化し高め、現政権にとってはお得意ではあるがレベルの違う、空前規模の「バラ撒き」を九州に処遇し、被災者の不安を半分以下にまでせしめよ。


このブログでは貨幣制度など、人を隷属させる悪魔の手先として普段は攻撃してるが、こいつの唯一の利点は、こういう非常時における被災者の将来への不安を減じるのに相当役立つ、という点である。カネの無利子、非課税配布は肉親知人住居を失った悲しみは減らしはできないが、その他の不安解消にはテキメンに効く。そこを、今こそ最大限に出すのである。
そのためなら、例外的な新規課税も許可するぜ、安倍クンよ。


宮城仙台市在住の筆者も、東日本大震災時は総計で300万ほど支給され、その後の生活再建に大いに役立った。しかもその支給は可及的速やかだった。それは何よりもありがたかったのだ。その経験から言う。


あらかじめプールしてある緊急財源からの拠出に加え、上記のような新規の集金も加えたバラ撒き大政策を、いまの九州にこそすみやかに集中投下せよ。現地で拝金主義を大いに普及させよ。ただし多額なかわり、使途の限定を促す個別の説教を付けよ。


いろいろな審査段階を経て、ざっくり一世帯当たり500万~1,000万程度を支給したとしよう。そこで行政側は、受給者にこうクンロクを垂れるのである。


「このカネは、いままでの生活再建だけでなく、あなたの新規の生活確立をめざして役立たせるべきである。今までの借金返済等に充てるのもひとつだが、郷土愛や阿蘇の大地なんかにこだわらず、元のコミュニティーへの依存もホドホドにし、また自分がトシだとか、農業畜産以外なにもできないとか思わず、九州にも固執せず、四国あたりへの移住もいとわない。そのくらいのレベルの飛躍にこそ、ぜひ役立ててほしい」


こうして与えるのが、先に挙げた「一般論の世界」から逸脱し個別に効く、活きたカネの遣い方だと思う。


配布の際の事務手続きは、淡々として粛々と実行していくが、実務者として取り組む行政側の職員も地元民であろうから、当然自分の生活者観点、あるいは被災者観点なりの気迫がこもった対応になるであろう。
東日本大震災のときもそうであったし、鬼怒川大決壊時の茨城もそれが感じられた。
この行政側の気迫が、淡々とした処理ひとつにも横溢し、受給者に伝わる。これは「本部」では指導も伝達もできない領域である。


東日本大震災のとき、思い出したように三陸沖で言われたのが、いまや有名な「津波てんでんこ」「ここより下に家を建てるな」といった、古くからの言い伝えである。
こうしたいっけん非情でバシッとした断言こそが、その後の多くの命を救う。

 

おためごかしや、まぁなんとか我慢しなさいや、古くからの寄り合い所帯がないとさびしい、といった先送り的な、いいかえれば一般論に該当するような現状維持姿勢は、地震や津波の場合はかえって、その後数百年に渡ってさらなる人災を、繰り返し招く。


集団は、離散するものだ。個人とっては終の棲家など、はじめから幻想である(結果としてに終の棲家に「なる」だけである)
ちっちゃい地域性などの偶発的なもの(出生や成長の土地であることのたまたま性)に、あなたという大きな存在が足をすくわれてはならない。


こうした歴史的見解も含めた上での、全人の、人の偉大さを、非常時でも最大限保障するような「包括」概念こそが、本来の危機管理とやらの全体像である。自衛隊や警察、消防隊や医療チーム、経済(ゼニカネ)や国政、地方行政は、それを補完する「手段」である。
エコノミー症候群とかいう、ああいう場合十分予見できた、また事前知見もある血栓現象ひとつさえ防げず、蚊に刺されて日本脳炎に罹るように、あんなつまらんもので本震を生き延びた生命をむざむざ失うという失敗制度。


こんなものは有事対応として根本的に、初期から、とんでもなく、間違っている。

 

<了>