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テロリズムへのシンパシー。

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露がIS単独空爆計画より

 

テロリズムへのシンパシー

 

90年代の湾岸戦争が「TV戦争」といわれ、ニュースではでっかい花火みたいな艦載ミサイルの発射シーンや、モニター越しの建物爆破シーンなどが繰り返し報道されていたとき、日本のぼくらの間では、いや該当地域以外の世界中の人々の間では、戦火の下の人々(の恐怖)への想像力・共感力・リアリティは根こそぎ薄らいでしまった(だからこそTV戦争と揶揄された)

 

ちょうど昨今のIS(通称:イスラム国)都市空爆のような映像と同じ状況である。

 

先進国(有志連合国)はテロへの報復に空爆という1手ばかりを繰り返すが、それが地上においては抑止にはならず、火に油を注ぐ結果となってしまっているのは識者が指摘する通りだ。交戦エリア外での復讐の連鎖である。

 

空爆は一面では、血を肉を、見ないですむ戦争屋の卑怯な手段であり、敵の顔を直視せずとも円滑に遂行可能な破壊行為である。
目標破壊率、命中率、損害率などといった、第三者的な(鼻持ちならない)殺人指標。自分はいっさい攻撃を受けず、時間が来たら普通の労働者のように交代し、時期が巡れば派遣地から母国へ定期的に帰還する。兵隊のサラリーパーソン化。特にアメリカ。

 

役所の手続きとか、案件の処理みたいな、仕事以前の「作業」といった感覚である。

 

他方テロ行為とは、テロリスト側からすれば武力による気に入らないもんの一掃作戦であり、それはいわば子供の論理である。
イマドキのテロリストは、これは推測だがこれまた複数の識者が仰せの通り、宗教やイデオロギーの対立に、もはや第一義を置いてはいないであろう。置いていても、せいぜいが「自分たちの方が正統かつ純粋なイスラム信者である」などと主張するくらいで、要するにどうもそこらあたりは付け足しのような感じがするのである。

 

今のテロ組織の行動原理は、そんなオールドスクールな大義名分ではなく、「気に入らんモンは全部死メ!」という一斉爆破欲求と、エネルギー利権や身代金ビジネスといった金銭のみではないか。いや昔からテロとはその程度のものだったのかもしれないのだが、第一次世界大戦から100年後のここにきて、いよいよカッコつけをかなぐり捨てて、実利と暴利の集団に成り下がった実態をムキ出しにし、しかも恥じ入ることがなくなった。
テロリスト達が破壊する気に入らないモンとは、安全圏からの空爆という、人命リスクをしょわないスマートなやり口に象徴される、先進国のわれ関せず体質である。そいつがまず、血祭りにあげられる。現代テロとは、いわばこうした先進国の「余裕を撃つ」方向に変容している気が、ハッキリとするのである。

 

だから標的になる都市や国は、先進地域であればどこだっていいし、その考えからすると、その地の宗教層ですら不問である。また、同じモスリムを標的にするのも厭わない。先進国の住人でさえ、あればいい。

 

ぬくぬくと現代の利便性を享受するそんなシレッとした連中に冷や水を浴びせ、恐怖を植え付け、日常の運営に支障を来たすのだ。ハレと恐怖の落差が大きければ大きいほどいい。従ってターゲットは、胸のすくような一網打尽効果が最大限得られる、娯楽施設やスタジアム等が最適である。

 

ここにあるのはまるでシューティングゲームでゾンビ共を殲滅させるような感覚である。ISが動画配信やネットへの親和性が高い集団なのも、そこらあたりのひとつの表れだ。モニター越しにノゾキ見る風景の方が、自らの周囲や自分の存在よりもリアルに感じられる。彼らもまた、TV戦争の影響下にあるのだ。


こうした「復讐」のためなら自爆だってできる。むしろ、自分が爆死したあとのザマーミロ感を想像してワクワクすることすら可能だ、とこんな感じではないか。だとしたら、何とも空疎なハナシである。


自爆。さよう、今のテロを志望する若い鉄砲玉の内面には、外部への抵抗や、組織への帰依がまず先にあるので、いうなれば自分の生を生きてないマリオネットだ。ゆえに自分の死すら、洗脳や陶酔の末に、ゲームキャラのように抽象化できると想像する。

 

自分自身の信条に殉ずるという、単なる卑劣行為といわゆるテロリズムを分かつ、ほんの唯一の、肯定できるかできないかの線上にギリギリ残された倫理めいた「大儀」が、いまのISにはまったく感じられない。繰り返しになるが原理は「気に入らんモンは敵。即時に凹ませろ。周りは知らん」のみ。ガキの理論で進むRPGみたいなものだ。
ISは、一時気が狂ったように人類遺産を破壊してもいたが、これも先進国の「余裕」のネタである観光資源を破壊して溜飲を下げ、あとは野となれ山となれ、そんなレベルの代償行為ではなかったか。

 

こういうことを筆者が思いついた理由に、いまはテロリスト側からの要求が(水面下にあるものは判らないが、表沙汰になったもので考えるならば)身代金ばっかりになっており、人質を取られても交渉の余地がほとんどないってことがある。


もしISが、自分たちの理想社会の擁立を目指すなら、彼らの要求は例えばイスラム世界の発展に寄与する何がしかの経済要求だとか他国からの干渉の排除、もしくは全地球的に偏り過ぎた資本の偏在に対する、過激なまでの是正等々という、自分達なりに全体を見据えたものになるのではないか。

 

しかしどうもそこらへんがまるで欠けている。身代金を自分たちのポッケに入れてオシマイである。
言い分は一方的過ぎるが、イデオロギー的に毛の先一分くらいは理が感じられる、といった類のものがないのである。

 

40年ほど前までのテロリスト達の間では、「仲間の釈放」要求が流行していた。それは今でもあるが今日のそれは時間稼ぎみたいなものに後退し、要求してる側(テロリスト達)も、実現できるとは思ってない印象を受ける。ここでも「それより金を早く出せ」といったところが本音なのではないか。
テロ攻撃をしても、実行後に出るのは犯行声明だけであって、これではまったくの無差別殺人でしかない。

 

つまり古典的な反体制価値観がなく、自己漂白化の末のゲーム感覚殺人と金しかないので、交渉の糸口すら存在しない。伝統的でオーセンティックな論理ではなく、デジタルで刹那主義で動いてるから、攻撃を受ける側からすると、神出鬼没で得体のしれない、先の読めない敵となる。

 

そして攻撃を受けた先進国側から、報復として空爆が選択され爆弾が降らされるが、すでに書いたようにこれがまた逆効果しか生まないのである。
太平洋戦争時の東南アジアにおける日本陣地のように、あるいはベトナム戦争下のベトコンのように、爆弾の嵐の下には必ず、土を食み血をすすりながら、強靭な「何くそ精神」が培養される。
これは元からある被害者意識と結びつき宗教よりよほど強い信念となり、これが次のザマーミロ攻撃の養分になるというわけである。

 

かくして繰り返されるのは、瓦礫の中のガキ帝国 vs 安全圏からの最先端武器での破壊行為という構図であり、どちら側にも正義という名の他者尊重概念はない。双方にあるのは空疎な人格と、希薄なリアリティである。

 

以上は数値的な、あるいは証言的なエビデンスはまったくない。筆者の感覚論である。
しかし、ISの不可解、不合理とされるのべつまくなしの残虐性破壊性もまた、従来の枠組みでは対応しきれないらしいので、こうして暴論解釈を述べる次第である。

 

とにもかくにも、こうして不毛は繰り返されるし、終焉の気配もない。
巻き込まれて傷ついた市井の人々の悲しみだけが拡大・堆積してゆく。

 

打開策はあるのか?

 

こうしたテロリズムを根絶する方法はひとつだけである。月並みな話だがそれは教育だ。

その教育の内容とは、思うに世界中の現代教育にまるで欠けている視座からのそれが求められる。
それは生きることについての、現象面からのケーススタディである。それを徹底する。
科目的なものなどは10代の終わりにでも付与すればよい。その前に、はるかに大事なそっち方面の徹底だ。

 

生きることへの現象面からのケーススタディとは、自分の中にはドラえもんの四次元ポケット並みに、無限へ続くトビラがあって、生きるとは、そこから自分がどれだけ広がれるかってことを子供たちに知らしめることだ。

さしあたっては、自分に対して「なぜ?」と疑問を呈示させるのがいいと思う。
「なぜ自分はいまいるのか」「どうして相手の子がキライなのか」「自分ってなんなのか」「あの子とこの子と自分は、どう違うのか」などと、くもりなきまなこで、見定めさせる。教育はそのアシストだ。
子供のころからこうした無限を目指す自分という真理に気づかせ、その覚醒の過程で、自分の外のものへのあこがれや依存心をフェードアウトさせてゆくのだ。あほらしくてゲームなんかには熱中できないほどに。

 

そしてその真理主体は、地球上の全員がそうであり、生も死も水平で、いわんや肌の色や宗派なんか特性でしかないんだという思想。本当の自己は、自己絶対性の中からでなく、自己相対性の中からしか獲得できない、だからみんなで生きてゆく視点が必要なんだ、という腹の底からの共生感覚の育成である。
こうした人間の超基本の教育を、全世界的に繰り返してゆくしかない。

 

こうやって超基礎が確立された、充実しきった「自分」の集合体によって、最終的にみっしりと質実剛健に、運営される社会というのが王道であり、そこでは戦争も犯罪もテロも、万引きもいじめも女子中学生の監禁も、人を疎外してゆくものは大小問わず、みんな昔話に追いやられるのである。

 

ところがいまの世界は違う。現代は社会や規範や宗教や貨幣が、まず個人ではどうにもならない存在としてあって、そこに人が段階的に無条件に当てはめられて、恭順させられていく、という順序である。日本においては人格育成は科目としての道徳が一応担当するが、基本的にそれはカリキュラム上の添え物でしかなく、自分の内面充実は、そうしたい子が勝手に読書とかして育ててね、そんなことより成績、点数、偏差値、内申書、進路選択が優先だよねって感じだ。
これでは手段と目的があべこべで、無理がある。人間を飛翔させるべき過去の英知が、科目というシステムとして逆に人を縛る、という本末転倒である。

 

こういう仕組みだから大げさでもなんでもなく、人の世はずっと、もうずーっと、テロと戦争と殺戮と、欠陥と不幸と憎しみと、苦しみとむなしさと不安と、犯罪と落胆と悲しさの連鎖なのだ。
人と集団をとりまくこうした組成順序を、本来のあるべき姿に、教育で矯正する。自動で、自然にそうなる流れにまでもっていく。これしか根源からの修復はない。

 

とりあえず民主主義だとかの行政的な枠組みはそのままでいい、というかそのままであらざるを得ないが、この教育を遂行してゆくと、その国の経済分野は縮小することになるだろう。
つまらない外部事象に惑わされない自分を確立した人は、余計なものは買わなくなるし、当為としての仕事は自分を無反省に規制するだけだと気づいて放棄もするから、寄ってたかって忙しがる風潮(これは日本に特に顕著だが)も退行してゆくだろう。
その程度が、この改革に伴う「痛み」であり「犠牲」だ。

 

そんな犠牲など安いもんだ。全員が本気で取り組めば、たぶん100年位で理想に到達できるよ。もうテロのニュースなんか聞きたくなかったら、これやるしかねぇ。

 

ぼくは、あなたを変えられると思い込むほど高慢ちきじゃない。
でも、自分を変える程度には、「テロリスト」でありたいのだ。

 

<了>