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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



日本ならではの、資本主義の新しいカタチ ~"ついで買い"の先にあるもの~

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*ユニクロのローゲージ・カーディガンは、衣料品として秀逸な出来でした(2013年購入して、まだ愛用してます)

 

<日本ならではの、資本主義の新しいカタチ ~"ついで買い"の先にあるもの~>

 

ユニクロが失速してるという経済ニュースを読んだ。ここ数年で何回目かの"危機"らしい。

確かにこの1年ほどの間に、商品の単価は500~1,000円程度上昇し、それとは逆に週末のセールやレギュラー値下げのプライスダウン幅は小刻みになった。ぼくは週イチでユニクロを覗いてるので、その推移がわかる。この5年くらいのスパンで見ると、最もハイプライスになってるのが、今のユニクロである。


少し前から、ユニクロはファストファッションと呼ばれる一群の中では"高級ライン"に属してるとみなされているので、その風潮には価格面では合致してるようである。

 

ただ"失速"ということはあるが、多少落ち込んだところで、いうまでもなくユニクロは相変わらず巨人である。
土日の旗艦店ユニクロの、レジ前の長い行列は、未だになかなか強烈な光景だし、他の小売店でここまでの列は、昨今ではほとんど見かけない。
しかもそのフィーバー状態は昨日今日ではない。何年も前からこうなのだ。

 

で、ここからが本題なのだが、そのユニクロの客のレジかごに目をやると、みなさんたいていは複数の商品が入ってる。靴下や下着、肌着の類の小物が多い。
ついで買いというものがかなり大きな部分で経済を支えているのだなと思う、その現場がコレである。

 

最低の金しかなければ、人は本当に入用なものを必要なだけ買っておしまいである。当り前の話だ。

 

この第一番目に買われるものは、その個人の必要や依存、緊急度や願望に、正確に即している。
寒くなったから防寒具を購入するのに理屈はない。
そして、2番目以降に買われる物に対しては、そうした購買動機はあいまいになり、気分的なものに支配され、おなぐさみのようなものに後退する。つまり「ついで買い」、余裕の産物的な位置に下(くだ)る。

 

ユニクロが飛躍したのは、2000年頃のフリースの特大ヒットとのことだが、あれは「第一に買われる物」としてのヒットであった。その後のヒートテックシリーズや、UT(ユニクロTシャツ)ラインなどの「幅」での拡販は、2番目以降の「ついで買い」ジャンルにおけるヒットであったろう。

 

ついで買いを、いかにそれと知られずに誘発しうるか・・・この余剰、余裕を購買にまで誘導・操作する腕前こそが、ユニクロのみならず商業界では「売るテクニック」として珍重、研究され、かくしてスーパーのレジ脇スペースにはガムや乾電池がぶら下げられ、2個同時購入で値引き幅が拡大されるなどといった「まとめ買い」キャンペーンなどが氾濫することになった。

 

(最近のスーパーではご存知のとおりセルフレジが多く見られるようになったが、 そこには脇スペースはないのがほとんどである。セルフレジの導入コストと、それによる人件費の圧縮に対し、ついで買いスペースの空白による販売機会の損失は、結構相殺し合うものなのではないだろうか)

 

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さてこの「ついで買い」。実はぼくはこいつがあんまり肯定できないのだ。
余計なものをつい購入することにまつわる全体像が、なんだか狐につままれたような、自家撞着みたいな小手先の、ゴマカシがこじれにこじれて自己目的化しているかのような、焦点のボヤけた構造になってる気がするのである。

 

肯定できない理由は2つあって。まずはついで買いを可能にする経済的余裕が憎たらしいことが、ひとつ笑

 

次に、ついで買いに依存したり、不要不急のものに金を出すことが、経営側の売り上げや利益の不可欠要素のひとつに織り込まれてて、それが販売予算や対前年比といった成長前提の経営指標に、当然のように組み込まれてることへ、ささくれのような違和を覚えるため。


まとめ買いセールなどは、正価や定価の存在否定にも等しい、販売側の行為であり、そうしたものに対する違和感に近いものがある。下世話にいえば、ひがみ根性といえなくもないの・だ・が。

 

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その違和感についてもう少し考えてみると、ついで買いのものが、プラスアルファ的に企業の利益を下支えしているうちはいいけれど、それが「柱」となってしまい、それへの依存度が高くなってくると、商いの本筋みたいなものが歪んでくるのではないだろうか、そしてそのひずみは、ぼくら消費者側に抑圧として押し寄せるんではなかろうか、という恐れである。


本論では「ついで買い」ばかりヤリ玉に取り上げてるが、要するに副次的なもの、傍流的なものがいつのまにか、本流を支えるものや、大筋に取って替わられることを、意識的にチェックして時々軌道修正してやらないと、必ずどこかがゆがんでしまって、しまいには破綻する、事故になる。線路でも橋でも人生でも、みんなそうである。

 

それは商業でいえば例えば返本制度による長年の「本のニセ金化現象」の上でしか存続しえない書籍業界や、目先の欲に目がくらんだ廃棄食品の横流し、無形物が利益を生む芸能分野でのSMAPの独立阻止(閉鎖、排他の論理がまかり通る)、みたいな方向だ。

 

独占禁止法とか、消費者庁、BPO(放送倫理・番組向上機構)なんてのが、それぞれにその軌道修正のための補正機関として存在してるみたいだけど、うまく機能してない場面も多そうだ。
違反処分の厳罰化のイタチごっこが新たな違反の起点になったり、玉虫色の決着でグズグズになったり、実質的に問題の先送りに単に落着してしまったり…とかとか。


なんかこう、完全にフェアーな、100%人間観点からの、全体最適視点での補正がほしいよね。
もっと言うとそうしたものを初期設定に織り込み済みの、「あたらしい人民主義」みたいな大きな枠組みがほしい。

 

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生産しては消費することになってる、その舞台の書割りのような予定調和なサイクル。
他律的なところから娯楽や鑑賞物を引いてきて適当に埋め合わせる、その怠惰な姿勢。
経済の総体とやらが、単に消耗戦でしかないことへの、無気力な追認。
安住と安心と現状維持の土壌の上に養成された、人をして単一方向しか指示しない催眠術。
強力だが非可視、かつ柔構造のベクトルに、自縄自縛されたままの自分。

 

世界政治の主流形態は、いまでは民主主義ということになっているけど、それと貨幣制度とは疑いなくすっぱり一線を引かれている。
両者は何食わぬ顔で共存してるように見えて、一皮剥けば相互に巨大な矛盾と対立を孕んでいる。「政治とカネ」の問題…この問題はこの先もずーっとわれわれをあきれ果てさせてくれるだろう、ははは。


資本主義の領域だけは王政であり、独裁性なのだ。中心で実効支配してるのは、ずるいまでに無人格な貨幣であり、埋没を、恭順を強制しながら人を使役する。そしてその貨幣を透明な媒介にし、かつ味方につけ、二次的な位置に立った富める層が、そうでない人々を、甘露と真綿で包囲しつつ、じっくりと、しかしまったく無自覚に、抑圧を強めていく…いっけん安価で、お得で、非の打ち所の無い「まとめ買い」の推奨は、この抑圧の尖兵である。

 

先に述べた「あたらしい人民主義」が、この問題を根本から解決できる処方箋となれば、他のいろんな副次的な問題をも、たちどころに解消させてしまうよ。

 

そこではじめて人は自由とか平等とか平和が、身にしみて分かる境地に立てるんじゃないかな。

 

いまはただ、蒙昧なだけだ。適当に金銭とつきあい、まとめ買いの誘惑から身をかわすってことしか、できそうもない。

 

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(いま唐突に思い付いたので付記をば)

 

ユニクロの、グローバルで膨大な物量と、それを支えるとんでもない組織的スケールは、関係者自身に、いやユニクロの幹部にすら、心の奥底に「なにか空しい」「徒労を呼び起こす」「今の消耗戦めいたことを極限まで推し進めれば、地球の何かが狂ってしまうのではないか」と、感じせしめているのではないだろうか。

 

こう書くことに根拠はない。主観のみだ。ぼくはイチユーザーとして、ユニクロファンとして、店内にいると物量に目がくらんでそういう感じがしてくる。それだけである。

 

だけど調子に乗ってもっと言うと、トップの柳井正会長ですら「こんなスケールで押しまくる商売スタイルは、どうも日本的でない」「あと30年も続かないのではないだろうか」という予感が、ふと頭をよぎる瞬間が、あるのではないだろうか。そしてそれは小さな子供と一緒に風呂に入ってたりとか、手作り料理の素朴なおいしさをしみじみ味わってたりするときに、立ちあわられる感情なのではないか。

 

これが希望、これが日本だけの希望という気がする。ものごとや状況は、かならず終末をはらんでいるという、いわば諸行無常の予感が、日本の企業経営の根底にはあるはずだ。そしてその点が、英語で言う資本主義「キャピタリズム"capitalism"」の持つ、徹底して人間疎外しまくるマシーン的光景とは、微妙に、しかし決定的に違う、日本ならではの資本主義の「新しい」カタチなのではないか。

 

曖昧で、感覚的な物言いしかできないが、この「終わりの予感」こそが、おのれの限界をわきまえてるという意味で、capitalismの不毛を突破できる可能性を秘めている気がする。

 

<了>