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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



1185(イイ箱)つくろうニッポン ~試験には役立たない歴史学習のススメ~

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伝・源頼朝肖像(wikipediaより)

*「1192つくろう鎌倉幕府」の1192年ってのは、鎌倉幕府の成立については定説年号じゃなくなってて、さかのぼること7年前の1185年における幕府実務の開始が、成立の定説なんだとさ。ほんでいまの中学教科書の大半は1185年で統一されてるんだってね。おじさん知らなかったよ。

 

<1185(イイ箱)つくろうニッポン>

当たり前だが歴史を学ぶ、歴史に学ぶってことは、出来事の年号を暗記することではない。
日本史で言うと、昔のこの国の出来事を、しかも西暦で、時系列に暗記する。
そんなのが歴史の「勉強」の全部、とはいえないまでもメインのひとつになってる現代教育制度は、実におかしなことであり、また同時にたいへんむなしい行為である。

おかしい、むなしいというのは、歴史が学習者にとって単なる暗記対象になった時点で、それは記号であり、他人事な捉え方のひとつに貶められてしまう、ということである。
こんなことはいろんな人に言い尽くされたことであり、ぼくなどが改めて申し上げることでもないが、時系列で物事を捉える能力を養うのに効くのは、年号の暗記ではなく、経緯の吟味を通して「人間」を考えることである。


せいぜいが、「昔の社会は未熟で大変だったんだな」という詠嘆を、学習者にもたらすに過ぎない。いやそんな感想ですら、貴重なのかもしれないってほど、ただ単に学習事案として日々「処理」されていく歴史学習。
人が迷路を行くときがあったなら、壁に目印を刻んで進む。それは帰り道に迷わないようにするためである。
そして生きるってことは、迷路をたどることである。だのに壁の目印(=年号)を、暗記するだけにいまだとどまっているのが、戦後の歴史教育だ。


偉そうに言わせてもらうがそんなことでは、歴史はいつまでたってもぼくらの血肉に、生きる指針にならない。いやそれどころか、蒙昧で唯々諾々とした、与えられる知識の吸収のみに特化した、計量可能な規格化に適した、そんな個人を量産するだけだ。それは現代および将来の不幸の根元そのものである。


歴史を学ぶとは、先述したように、生起したいにしえの事柄の相互関係を、時系列に、複眼的に考えていき、ぼくらが現代を、未来を考察するのに役立てるという、切実な営為ではないのか。
いわゆる公教育、なかんずく受験対策みたいなうわっ面勉強に、決定的に欠けているこうした視点の方こそが、ホンモノの学習様態である。


各科目の履修なんぞは教育の手段に過ぎない。教育の大目的はこどもたちが本来潜在的に持つ、ゆたかな感性としなやかな知性を、個性に合わせて生きる活力として芽吹かせて育む、その契機となることだ。教育はそのための補助輪でありアシストでしかない。そこから先の「ホントの勉強」は、主体的にやるしかないのである。


にもかかわらず文部科学省から繰り出されるカードは「ゆとり教育」とかいう、あいかわらずのピントのズレた対処療法ばかりで、悄然としてしまう。


極論を言えば史観など、教わったり教えたりするものではない、という考えを持つ。それは、私的に世界を解釈することだ。
その解釈の前提となるのは、連綿と結合した時の結果として、今自分が存在しているって認識である。
何千年前のことであってもその歴史の蓄積(ダークサイドも、もちろん含む)とまるっきり無関係な個人などいない。
いいかえれば過去に対して純潔な人などいない、みんななにかを引きずってる、はじめっから汚れている。
太平洋戦争の当事者たるわが国には、被害と加害の両面が常につきまとうが、それはぼくの内面にもかならず影響している。

<ぼくの私的な歴史観の例>


たとえば、むかしむかし、香辛料を求めてヨーロッパ人はインド、アジア、アメリカ大陸をめぐった、という教科書的記述が昔からあるが、それだけなら単なる読みものである。


それを読むだけにとどまらず、歴史行為の「質」まで想起できることが、教育成果の王道に加えるべき思考過程だと感じる。

それはぼく的に言うとこういうことだ。

「コショウやスパイスがいくら貴重だったか知らないが、そんなたかが調味料のために世界中を引っ掻き回し、何の罪もない現地人に略奪や殺戮、強制労働をもたらしたんだヒエ~」とか、

「香辛料を自分のところで栽培できないと分かると、それをどこかからかっぱらってくるという発想しかなかったんだ」とか、

「現地での相手に対して交易を提案するとかの、せめてもの誠実さもなかったワケだ」


等々…という見切りである。


その当時の西洋における野蛮性が、今をさかのぼること150年前まで当たり前だった植民地政策や、その後の帝国主義に直接に連なり、そして現代まで世界で続いてる南北問題や飢餓やテロといった厄災の、本当の初犯行為であったという位置づけにまで至るのである。


さすれば、コロンブスがアメリカ大陸を「発見した」や、「大航海時代」などという教科書的記述に潜む、救いがたい乱暴性にも、気づかれることであろう。


今日と明日はセンター試験だそうだが、受験生諸君、点数化不能な、テストにはまったく出題されない・できないこうした思考や感覚の体得領域は、自分の中に残しておこうね。

 

お国のためです笑

 

<了>