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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



「忙しさ」とやらの正体

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漬物を刻んでまぜる焼きメシがうまい(本文とは関係ありません)

 

<「忙しさ」とやらの正体>

会議のための会議、当為としてのルートセールス、OJTのためのOJT。
自分のあずかり知らぬ所で決まった事項を、客先に伝達するだけの「営業トーク」

そんなもの昔から、ホントの仕事の名には値しない。移動時間(通勤時間、外廻り)も仕事のうちって考えも然りだ。


15年位前まで、個人の携帯電話と会社経費との棲み分けは試行錯誤の連続だったことを思い出す。
最初は営業社員への月額固定の補填支給(一律5千円など)→そのうちデバイスを会社側が貸与して、補填の方は打ち切りって形で落ち着き、いまは会社デバイスの管理が、人事部門の重荷に。


こうした新しいデバイスが実現するユーザビリティやモバイル性、言いかえれば生活時間への尋常ならざる溶け込みぶりと、旧来的な勤務時間、労働時間の概念は、お互いが対立する地点まで「追い込まれている」。それが現代ではないだろうか。タイムカードは形骸化し、いわゆるブラック企業は増長する一方という現象には、この旧来的な勤務や労働の、硬直性や限界があらわれている。かといって新デバイスを手放して、自分だけ退化をキメ込んだって何にもならない。周囲も同じくそうならなきゃ、元の木あみである。


労働をめぐるこうした「板ばさみ」は、インターネットのログ履歴管理と、GPSを使った移動管理という風に、時間と空間の両面に及んで、主に外回り社員の活動に緊張を強いる。
また、その管理データーを分析評価するのに人材もしくは時間の再投入が必要だというパラドキシカルな円環構造をも、二次的三次的に生んでいる。


こうなると、忙しさの正体は、新テクノロジーに人が「使われてる」ってことになるのではないのか?


この15年くらいは、その過渡期だった。

いっぽうで、会社組織で人が人を「管理する」とか「マネジメント」するとかって何だろう。「社員教育」なんてのも前からあるけど、それって一体必要なんだろうか?


もとから無理があるのではないのだろうか、そんなこと。


社員の心理的なダメージの、心のケアをする会社もあるみたいだけど、そんな倒錯、ほとんどこっけいな風景なんじゃないだろうか。
心は自分で制御していくしかないのだし、仕事で真に向かうべき対象は、上司でも同僚でもなく、自組織の人事システムでも人間関係でもないだろう?


便利なアプリや、新しいウェブサービス、ニューガジェットとやらに飛び付き、使ってみる、それで便利さを享受するのもいいと思う。


でも、そうまでして得た経験や浮いた時間の先には何があるのだろう。

少なくともその原点は見失わないようにしたい。

また、新規なモノへの没入が勤務時間等の外部時間(=人生)を侵食していることに意識的でありたい。自戒を込めて。

 

<了>