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右から来たものを左に受け流す思想 ~ジョークに見る日本語と英語のへだたり~ 英語なんか分からなくていい。

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チャラチャッチャッチャラッチャ~♪

ご存知10年位前にムーディー勝山というお笑い芸人の放った唯一のヒット曲(?)「右から来たものを左へ受け流すの歌」


実はこの歌に、ぼくはずっと呪縛され続けてきておるのだ。


どのくらい呪縛されてるかというと、自転車に乗ってたりすると、いまだについうっかり口ずさんでしまう位の愛唱歌である。悪くするとクチをとんがらかして、眉間にシワ寄せながら歌い込んでしまって、周囲の人に怪訝な顔をされるくらいであって、これはもう、相当に支配されてると認めざるを得ないんであります。


聞いてお分かりのようにこの歌、記事タイトルには「思想」と名づけたが、そんな高尚なもの(?)は何一つ含まれていない歌である。不安とか悩みは受け流せというメッセージがいちおうはあるみたいだが、そんなのはいうまでもなく後付けの理屈であって、歌ってるムーディー勝山さんにも、この歌じたいにも、その裏には何もない。意味のないノベルティ・ソング、コミックソングである。


しかしそれだからこそ、この歌にかえって何か本質めいたものを感じるのは、いつものぼくの悪いクセです笑
具体的にはこの歌の存在感に、詩吟のような日本的な源流の、お笑い版解釈を感じるのです。
そうでなければこんなに長年口ずさまないです、ハイ。


今日のエントリーではそこらへんのハナシを掘り下げてみたい。比較のダシにはアメリカを使う。

 

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さて、そのコミックソングの本場(なのか)といわれるアメリカだが、いわゆるアメリカンジョークのつまらなさ、分からなさは、ぼくたち日本人にとって未だに大いなるナゾである。
そのしょうもなさは、時に憮然とさせられるくらいだ。


例えばこんなやつ。

 

太った婦人がアヒルを連れて酒場に入ってきた。
「ダメじゃないか、こんな所にブタなんか連れてきたら」
「何よ、この酔っ払い。どうしてこれがブタに見えるのさ」
「今、俺はアヒルに話しかけたんだ」

 


いかがだろう。面白くなくはないが「ふーん」と思うだけではないか、こんなの。

公平を期すため、私見ながらややマシな例も挙げておこうか。

 



ブッシュ大統領とチェイニー大統領補佐官、ラムズフェルド国防長官が飛行機に乗って話していた。
大統領が「ここから100ドル札を落とすと誰かが幸せになれるね。」
大統領補佐官は「私なら10ドル札を10枚落としますね。そうすれば10人が幸せになれる。」
「いや。」国防長官は「1ドル札を100枚落とした方がいいでしょう。」という。
するとパイロットが言った。「あんたら3人を落とせば世界中が幸せになりますよ。」

 


これは、「世界中」という観点を持ち込み共感の笑いを誘う点で、日本的でややマシなジョークといえる。


また筆者の経験ながら、リアル米国人との会話でウケたものがあった(英語)。
ついでだからそいつも紹介しておこう。


ぼく 「キミの日本酒、一杯もらえるかな」
米国人「どうぞ。(ぼくに飲ませて)お味はどう?」
ぼく 「酒みたいな味がするよ」


これで大爆笑をGETしたのであった笑


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アメリカンジョークのおかしみとは、ひとつのシチュエーションの中の会話の流れで、当然そうなるだろうな、という予期された返しではなく、別の意表をつく回答、その返答の角度や落差の違いをゲラゲラ笑い飛ばすものが典型パターンのようである。


そうしたいわば緊張状態からの開放の中に笑いを見出す構図は日本のお笑いにもあるが、アメリカのそれは100%恣意的なもの、つまり、笑かしてやる意図で、最初から構えて作られる。
いわば台本ありき。いわゆるスタンダップコメディー。そこでは受け手の方も参加が要求される。
つまり最初から笑う使命、当為を帯びさせられる。
そんなはじめっから硬直した、教科書的押し付けがましさのあるものに、スポンティニアスで豊かな笑いが生まれるだろうか。そんな風な怪訝な感覚を、典型的なアメリカンジョークに関してずっと感じている。


そんなアメリカ人にムーディー勝山の歌を突然聞かせても、笑かすどころか木で鼻をくくったような反応しか得られないであろう。
また米国人だけでなく同じ日本人でも、諧謔を感じ取れる感性がない男性には、この歌のおかしみは響かない(例:梅宮辰夫はこの歌に対し「ぜんぜんムード歌謡じゃないよね」とズレたコメントを残している)


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さてこの笑いの性質の違いという部分には、英語と日本語の、事物への世界観の違いが端的に示されている。

英語のジョークの世界は、実は人間不在でお寒い。人の反応を冷徹に突き放すところをおかしみの出発点にしている。
そしてその笑いの根底には、自分と異なるものへの拒絶が感じられる。クールに客観すぎてつめたい。


対して日本語のそれは、人間や人間感情の動きを含めた、シチュエーションや場全体のおかしみをすくい取ってクスッとする奥ゆかしいものが大半であり、その根底には、自分と異なるものへの包容や溶け込み、自分の存在を一時留保して対象へいったんあずけてしまうという柔軟な姿勢を感じる。


大げさにいうと主観的な位相から、相手への共感、共生への予感といった広がりが感じられるのだ。これは日本語の世界では、冗談分野だけでなく、俳句や短歌で親しまれた世界へのかかわり方である。相手へ一方的に注意するよりも、「お互い気をつけような」というお互いさま精神の発露の方が好まれる(と思うのだけれど)

ぼくらの国では、ものごと全体の中の部分に、いまたまさかこの瞬間に自分が居合わせているという謙虚な視点を持っており、そこで奥行きや余韻、風流さを感取する殊勝さを持ち合わせているんである。


言葉を換えれば受身でいることに価値を見出している。つまり、日本語世界は集団生活上大切な「一歩引くこと」に信を置き、「場」を志向し形成する。そうしたいわば「人類の知恵」が詰まった言語ではないだろうか。


対して英語や西洋語は、考えてみれば物質を指示、規定するのみである。人も感情も宗教も魂も自然物も、英語世界では全部単語に還元されたモノでしかない。モノ志向だから単数形とか複数形とか定冠詞とか名詞の性(これは英語にはないけど他の西洋語には存在する)だとか、名詞表現に規約が多い。その点、日本語はおおらかだし語順の厳密性も緩やかだ。だから日本人の一般的な常識と違って、外国人からすると日本語の習得はたやすい(話す分野に限られるけれども)。日本語は、万人に開かれている言語である。

 

また、モノの情報を多面的に、重層的に伝えるために、英語では形容詞がやたら多用される。そのため例えば海外文学の翻訳などはたいへん説明的な文章の羅列となり、訳出にもよるが形容詞と関係代名詞が複層してたりして1文がとっても長く、読むのが大変である。しかも、どんなに説明的であってもそのモノ自体を、対象が成立してる基盤や場面も含めてズバッと包括的に「伝える」ことはできない。

 

例:英語でskyは空(そら)でしかないが、日本語の「空」にはskyだけでなく、void,vacancy,nothing,emptiness,air等々の意味の広がりがある。いやむしろ日本語ではsky以外の意味の方が重要なくらいである。多義性はもちろん英語にもあるが、日本語のそれは、この「空」の例のように、いくつか意味があるっていうレベルの並列程度じゃなく、ひとつの単語で世界観が連想的・包括的に表現される、そんないわば"容器"だ。昔のNHKの人気番組「連想ゲーム」は、英語圏ではあそこまで豊かなふくらみを持って成立はしなかったであろう。

 

そして英語世界では、モノはモノでしかないからには自分とは別モノであると済ませていられる。つっぱねているのが常態となる。だから英語の基調は(論理的かもしれないが)冷たい。その世界観では周りは敵だらけである。したがってジョークも寒いし、アニメキャラもウォーリーとかシンプソンズ(古いかw)のように、すっとんきょうなだけで共感拒絶系デザインばかりだし、FacebookとかのSNSスタンプもデフォルトのものはぜんぜんかわいくない。それになにしろ英語を話してると窮屈でツカレル。バイリンガルの宇多田ヒカルも、同じようなこと言ってました。「英語だと、日本語みたいにおちゃらけられない」って。

 

前に何かで読んだが、「おニュー」という和製英語にある外国人がいたく感心したという文章があったのだけれど、確かに「お」+「ニュー」のドッキングに感じられるある種のおかしみ、ほんの少しの哀愁、よそいき感に対するほのかな自虐とそれに相反するつつましい誇らしさ、英語を茶化しながら自分の文化圏に消化/昇華する姿勢など、相当多くの「場」の情報が、こんな言葉ひとつに見事に内包されている。「New」は単に「New」以上の意味を持たない英語世界では、逆立ちしてもできない芸当である。

 

この「おニュー」の語感に反応するとは、その外国人の感性も見上げたものだという気がするが、なんといってもこういう日本語に含まれる感性が、広がりが、すばらしいと思う。彼我の峻厳たる違いを強調するだけの、英語をはじめとする西洋語にはない、いわゆるワビサビ、禅的な精神。


英語圏の人でも最近は俳句をするというが、英訳された芭蕉の句にぜんぜん味気が感じられないのは、日本語と英語のこうした目に見えない違いに立脚してるからではありますまいか。


冒頭に挙げた「右から~」からの歌は、いうなれば受身姿勢の肯定である。右から飛んで来る「何か」という外部事象に対し、「なんもしない」という「関与」であり、要は徒然なるままという精神なのである。
意味の無いということ自体の、まさしく「場」のおかしみを素直に味わう、ここに妙味があるのであります。

同じ笑うなら温かみのある笑いがいい。嘲笑ではなく冷笑でもなく。
つまり日本語でのお笑いは英語のそれより高度なのである。


一般社会をかんがみれば、ぼくたち日本人はどんなに英語を習ってもうまく上達しない傾向にあるが、その理由は、冷たくて、対象に寄り添うことなく切捨て御免のように対処する英語的感覚に染まりきれない、そういうのが根底にあるのではないだろうか。そしてそんなものに染まったら、かえってぼくらは困るのではないだろうか。


というわけで今後英語学習は、右から左に受け流す程度にとどめていこう。笑


<了>