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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



不便さを乗り越えること。

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*缶詰は調理の手間を省くが、味わいを画一化する欠点がある。注)いなばのマワシ者ではございませんw

 

今の世の中は不便である。もうたいへん不便極まりない、そう思えてならない。
いや正確には人の世は「便利であった」ためしなどない、とすらいえるのだけれど。

「ナニいってんだ、昔に比べて格段に進歩したじゃないか」という声が聞こえてくる。

確かに、例えばカーナビ、インターネット、スマホにサイクロン掃除機と、ふた昔前では考えられなかった「便利な」デバイスや家電に、ぼくらは取り巻かれている。それはもう、例示すると枚挙に暇が無いほどである。

世の中の仕事の大半が目指すもの、それがあたらしい便利さの実現なんだから。


しかし問題は、それらが「何に対する便利さ」なのか、ということである。
それはとりもなおさず、便利という言葉への定義考察になるのだが、みなさんうすうす分かってるであろうことをあえて書き記すとですね…


結論から言うといまの便利さが提供するものは、手続きの簡略化だけである。
手続きが簡素になれば、時間、費用、労力、事務的なやりとり云々といった、いろんなものが省けることになる。
それを称して世間では「便利」というわけだが、そんな便利さは所詮モノやサービスの話だから「ほお、こんなのができたんだな」と受け流すだけでよかろう。
人生にとってはそれらは浅薄で、皮相の部分だからだ。


また、新たな利便性の出現や改善は、その次の段階としてひとびとのゆとりの拡充を約束しない。いやそれどころか、逆に人を追い詰める。これもみんな身にしみて知ってるよね。


交通が発達し、昔と比べて高速移動が可能になったら、その分人々に余裕が生じたか。


パソコンが仕事のツールとして個々人に普及したら、勤務の量は減ったのか。


IT革命によって自分を見つめる時間が増えたか。


さよう、すべて新規のせわしなさに取って替わられただけである。


ここでもやはり、「便利さ」とやらの追求する大目的に、想いを馳せざるを得ないのである。

 

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では、どんな便利さがお前は欲しいのかというと、それは、人の心が分かって、自分の気持ちも寸分も狂わないで相手に伝えられる、そんな翻訳ソフトや装置、または能力だ。それ以外はなにも要らない。個人的には異性特化型のそれがいい(笑)


そう、自分だけの翻訳インターフェイス。あなたとの意思伝達の回路を開くニューメディア。心理を可視化できるフラグのようなもの。これが生きるのに役立つ。欲しい。


いくらSNSやスマホが進歩しても、それはいわゆるコミュニケーションツールが手軽になっただけであって、おしゃべりは多くなったがその内容はといえば芸能人や映画、新しい料理店のことや小さいお悩みのことであり、会話しててもさっぱり展望が開かれた感じがしない。ひまつぶしである。


そう、ぼくとあなたの「距離」は、原始時代のネアンデルタール人状態から1ミリも接近できてない。


むしろSNSがもたらす複雑化、高度化、流動化、即時化によって、その距離の本当の埋め合わせはジャマされている。だから不便極まりない。


太古より言語の発達、愛という概念、宗教の発明、活版印刷による書物の流布、伝書鳩、近代では電話、電報。それらの大目的はコミュニケーションの成就に少しでも資するための、人類のあがきだった。


(なお貨幣を介した交易はコミュニケーションを阻害する。コンビニでは黙々と支払いをするだけである)


そうぼくらの周りは、いまなおぜんぜん分からないものだらけである。


例えば自分、たとえば言葉(日本語)、たとえばあなた。大きくいうとこの3つすらどうにもならないというのに、さらにそこにかぶさってくるのが時間、賃金、生活、育児、所属組織(の論理とかいうやつ)、健康、介護などという、生活に付随する不可抗力的なものである。


この不可抗力を細分化して順位を付け、下位ランクのものから「手続き」を軽減解消していく程度にすぎないのが、いまの便利さであろう。だからそのすぐ上か下か横にある別のものに、すぐ侵食されてしまっていつまで経ってもゆとりにたどり着けないのである。なにしろそれは、いっぱいある。


その根元にある3つ(本当はひとつだけなのかもしれないが)を改善するものが、本当の便利さである。

 

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なぜ人は、いわゆる五感という感覚器はずいぶん発達してるのに、自分の意識の外のものを正確に計測し位置づける第六感的能力に関しては、とんと欠落したままなのだろうと考えたことがある。

 

でも欠落してるのではないな。本当はその能力はみんな自然由来で備わっているのだが、気づけてないだけのはずだ。そうでなければ変な話だが他者をこきおろせる、ディスれる人が、ネットを中心にこんなに多くいるわけはない。イヤな方向をビンカンに感じ取ることだけは、みんな学習なんかしなくっても出来るし表現だってできるのだ。

 

また、睡眠中の夢が、実に的確に物事や他者の様相、自分の意識の細部まであぶり出してて、起きてから(憶えていればだけど)驚くことがある。いや、夢の中ですでに驚いてる自分がいることだって珍しくない。

 

ということは、そこらへんを突破口に感性を拡げていけば、対象(自我も含む)をありのままに捉えることだって、できないはずはない。そしてたぶんいったんそこにたどり着いたら四六時中、休みなく、それができるようになると思ってる。本格的に目が覚めて「愛してる」とか「好き」とも違う、別の側面からあなた存在が見えるようになる。

 

ヒトの外見の下には性格、性格の下には人格、人格の奥にはたましいが、甲殻機動隊でいう"ゴースト"がある。そしてその階層の深さに比例して、内実は膨大なものになっていってるに違いない。そのあたりの深さまで感取できたらもう何もいらない。社会的属性や国民の義務とか夫婦別姓みたいな話は、遠景に遠のいてまったく関係なくなる。

 

その能力は自分の中にすでにあるから、それを掘り起こしてくるんだね。遺跡発掘みたいなイメージだ。


そしてそれはどう考えても自力でしか発掘できないものなのだし、そこへ近接していくにあたってハッキリしてることは、外部の便利なものに浮かれていては、この真の利便性には寄り付くこともできない、ってことである。


だから、世にあるいわゆる便利さの限界に、なるべく早く気づいてしまうことだね。

 

<了>