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「壊しながら使っていくこと」の思想的限界…自分を飛躍させるのに必要なのは微細な観察眼だけだ。

www.nhk.or.jp

*今回の記事のネタ元はこの番組であります。



<世にあるものは、すべて限りがある>

ぼくらは日々物を使っているが、物と使うということは、すり減らしたり、劣化させながらその機能を発揮させていく行為だ。
モノを使うということを時間面から見ると、使いはじめから徐々にその劣化が進行し、風化やすり減りが極まって使えなくなるまでの期間のことともいえる。

たとえばハサミや包丁といった刃物。切るたびに、切れ味と引き換えに、すこしづつなまくらになっていく。研いで繰り返し再生しても限界はいつかくる。

例えばスマホのバッテリー。充電放電を繰り返していくほどに、新たな充電のための空き容量は少しづつ減っていく。例えばクルマ。乗ることと引き換えに、部品のどこかを消耗していく。


物体だけではない。デジタル技術にも「壊れ」「劣化」の生じる分野はある。
例えばフォトショップなどの、高度なアプリケーションソフト。
あまり知られていないことだが、画像加工にソフトを使うと、オリジナル画像はその過程で必ず劣化していく。画像の容量も解像度も、必ず粗くなる。
画像を加工することとは、だから要は元の画像を傷つけていくことでもあるのだ。


また、物体としてのパソコンだって、電気を入れるたびにメカニカルな負荷がかかり、その度に内部は磨耗、疲弊していく。見た目は新品同様でも日々壊れていってる。
無形物であるOSやソフトも、あまり指摘されることはないが「壊れる」ときがあ(く)る。ある朝突然パソコンが起動しなくなった、なんてのはこのせいである。
これらも実は日々「壊しながら」使っている対象なのである。いつまでも新品の状態や性能のまま使えるモノなどなく、ここに永遠の概念はない。かくして機械やソフトの保守に携わる技術部門の方は、顧客のシステム稼動状況にいつもハラハラしてなくてはならない。


これらは部分(=手段)が全体(=目的)に奉仕しているから起きる現象であり、
原因があれば必ず結果があり、逆もまたしかりという、いわゆる常識の範囲における因果律の世界である。



<生命という永久機関>

ところが、である。森羅万象の中で、自己診断自己再生自己修復しながら、こうした消耗を最小限にくいとめつつ動いていくものがある。これは矮小な因果律など、寄せ付けもしない巨大な思想である。
それが微生物や菌も含めた動植物の内実であり、なかんずく長命な人類のそれである。


冒頭にリンクを張った、NHKの、明治神宮の人工植樹100年後のドキュメンタリーも、その一例であった。
あの神宮の森は、東京のド真ん中に環境のタイムカプセルが出現してるともいうべき、スゴイものなんだそうだ。
すべての動植物が、純粋培養されたかのようにほぼ健全な新陳代謝をはぐくみ、明治神宮敷地内のうっそうとした森林のみならず、というかその森林があってこそ、その下も土壌も健全で、微生物も菌類も、日本タンポポも池の中のメダカも、本来関東地方に生息していた在来種が、外来種に迫害を受けずに生きながらえる環境を、いまだもって保全しているのだという。


これは100年前に人為的に計画された、永続を意図した植樹が、戦災にも遭わずしっかりと根付き、人間の当初立てた計画を自然の治癒再生力が上回った結果であるそうな。


動植物は個体としては寿命があるので生命は有限であるが(有限でも相当に驚異的なメカニズムである)、種として考えたら(絶滅はあるにせよ)これはほとんど永久機関であって、ぼくなんかが言うまでも無く、これはげに驚嘆すべき摂理である。


また人類の場合はもうひとつ、身体だけでなく、いつも言ってることだが意識という、これまた宇宙規模の内実をみんな持ってる(もっとも、ぼくたちが把握できてないだけで、動植物にも魂と呼ぶべきものがあるのかもしれないが)


そう、意識=宇宙。すべての人はほとんど神的といっていいものを、誰でも内包している。人体の機能的には、医学的には、今のところDNAと呼ばれてる領域が、そのほんのほんの一部だ。

いやもしかして、その神的な領域を持つのは人間だけではないのかもしれない。


動物に神的なもの、霊的な何かを感じたことがないだろうか。野性や自然の中に神秘を感じたことはないだろうか。


あの明治神宮の環境も、その発生契機こそ故意だったものの、いまではもはやスピリチュアルな空間のはずである。


個体は滅しても、次のものが受け継ぐ、新陳代謝を繰り返していく命の現場、その集積体。人間もその大いなる循環系のひとつである。



<自分を飛躍させるのに必要なのは、内的に微細な観察眼だけだ>

自分とは、そう考えていくと極小にして極大である。肉体はひとつ2メートル足らずだが、中身は明治神宮の森がいくらでもすっぽり収まるサイズを有する。


自己も他者も故人ですら、すべて世の森羅万象は人の中身の大きな連鎖の中に存在し、すべての人にとって毎日の体験は、すでに誰かの体験済みのことの、その何百万回目かのひとつの継起である。


自分の中には何百人という自分が横たわっている。そして瞬間瞬間、別の自分が起動している。
記憶、変化、あまたの感覚、目覚め、スキンシップ、鏡をみること、追憶、考察、まばたき、コミュニケーション、沈黙、ひらめき、等々…全部別の自分へのトビラである。


キャラの例で言うと岩明均の傑作コミック「寄生獣」に出てくる、多重属性ラスボスモンスター「後藤」の、完全無欠版・超豪華版が人類である。

 

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これがマンガ「寄生獣」by岩明均に出てくる「後藤さん」。ひとつのボディに5パラサイトが同居し、「後藤」という親分格がそれらを同時制御、統制してるという、とんでもない最強のモンスターだ。しかし、人間は内部に無数の自我と無限の歴史を静かに湛えている存在だから、「後藤」なぞ本当は相手にならないほど偉大なのだ。

引用元:http://livedoor.blogimg.jp/hattoridou/imgs/6/0/60bb40eb.jpg

 


あなたが今も行っている生活営為のひとつひとつに、それがたとえ排泄行為や鼻クソほじりであっても、そこには生命誕生以来の、何十億年だかしらないが、とにかく想像も出来ないほどの来歴の蓄積が、めちゃくちゃに封じ込められている。あなたは、奇跡のひとなのである。


ひとの本当の心奥は、計量なんかできないし、可視ももちろんできない。
したがって顕在化してこないのでほとんど気づかれないが、確かに存在する。


なにかを物理的に動かすときに、力、火、火薬、電力などの外部動力に依存するが、心の動力源はだれもわからない。地球は自転しながら公転してるが、その巨大エネルギーはまったく再現なんかできない。

 

(あかつき、なる金星の気象衛星が軌道に乗ったらしいことが話題だが、外の世界(この場合金星)をいくら観察したとしても、こうした内的生命本質の解明には無益であると断言できる。いや生命の解明どころかそれへの接近すらできないし、無益どころか、内的査察を一瞬でも自己外部に逸らすことによって糊塗する、そのことにかけてはむしろ有害ですらある。惑星の環境を精査したところで、どうせ認識者が見たいと思ってるものが、見たい姿で露呈されるにすぎない。ましてや、金星の軌道に乗る乗らないや、日本の技術力に一喜一憂なんざどーでもいいことである。「外」の観察に熱中することだらけで、内側を見つめることは依然としてめちゃくちゃおろそかであることのしっぺ返しは、かならず人にめぐってくる。例:テロリズム)


人の通常の意識というのは、自分という巨大な中身の、ほんのほんの上澄みの、またさらに上澄みにすぎない。俗に火事場のクソ力なんていう、どんなに力を出したつもりでも、筋力のポテンシャルには余裕があるという現象に似てるがそんな物理的に小さい話ではない。


これまでその無限ともいえる広大な人間意識の領域に、近づいたことがある知見は、アインシュタインやホーキンス博士あたりではないか。彼らがほんのわずかに接近できた程度だと思う(ちなみに宗教は逆に遠ざける、神の概念で隠してしまうからだ)。エヴァに「生命のスープ」というのがあるが、あれが近い概念。


人は動植物は、つまりいのちというものは、物質とは反対に、このように全体が部分に奉仕するんではないのかな。


「壊しながら使っていく」つまり部分が全体に奉仕するという見えやすく、従ってわかりやすい領域は、ぼくたちの仮象(檻のようなもの)にすぎない。


人は、外界のとらえかたひとつの変化で、その仮象から飛躍・覚醒していく契機を常に持っている。

常にスタンバイOK、アクティベーション待機中。その契機となるスイッチは、自分の中にしかなく、自分にしか押せない。それがぼくたちの姿だ。


<了>

 

いのちというものをあぶりだす思想を秘めた傑作マンガ「寄生獣」。映画にもなったね観てないけどw