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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



人の運転を笑うな。

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*本文と関係ないけど、茶碗蒸しでやさしい味わいを。

 

今の時代に誠実に暮らすことは、クルマを運転するようなものである。


一瞬たりともワキ見をせず、まっすぐ前を見て、いつも周囲に注意を払う。
歩道にたとえ芸能人が歩いてても、そんなものには目を奪われない。
先行車とは車間距離をじゅうぶんに保ち、歩行者や対向車の次のアクションを予想しながら、つねに余裕をもってクルマを操作する。曲がり角の先は常に危険と隣りあわせである。
自分が先に動く、出たい気持ちは、ひと呼吸置いて抑制する。あるいはひとに譲ってしまう。とくに交差点などではそうである。
ほんの半秒の油断やスキが、一生を左右しかねない結果(=事故)を生じさせることがあるって、つねに気を引き締めておく。

 

交差点を右折するとき、対向車が居なくても、自車の進行方向に歩行者がいればブレーキは踏んだまま進まないのだ。
後続車にクラクションを鳴らさるかもしれない。罵声を浴びせかけられるかもしれない。それでもグッと堪えて何があっても踏みとどまるのだ。
これは交通法規でそうなってるからだけではない。むしろそんな問題ではない。大げさに言うと車というモンスターを制御する際の、それが運転手としての矜持だからだ。

 

こうした安全運転の前提にあるのは、自分(=クルマ)が、他者に対して巨大な暴力契機になりうることの、はっきりとした自覚である。

 

こうした運転のときの気構えは、そのまま人生と同じものであろう。

 

   * * * * * *


さてあなたもわたしも問題は生き方である。それでいうと生まれてこのかた、ひとのすべきことはふたつしかない。


ひとつはまっすぐ自分を見つめ、自己の内実の育成・充実・拡大をのみ、真摯に励行すること。
いっておくけれど、これはわがままになるだとか、強く自己主張をしていくとか、目の前の仕事に盲目的にのめり込むといったことでは、ぜんぜんない。


ふたつめは、その充実した、開かれた自分を、他者との関係にまで押し広げていくこと。
これもいっておくけれど、友達の数を増やしたり、SNSで常につながってたりすることでは、ぜんぜんない。

 

この本筋を取り違え、上の文で言うと「いっておくけれど…」以降のことにだけ一所懸命になってしまうことが、ぼくたちの生が苦しいことの根元になっている。

 

   * * * * * *


今のこの世は本筋から目を逸らさせ、ヨソ見をさせるものばかりである。
例えば常識、例えば教育、例えばゼニカネ、例えば宗教、例えばテレビ、例えばマスゴミやネットの記事、イベント、物欲、新製品、新アプリ…
ヒラヒラと、本質でない余計なダストがいつもぼくたちには吹き付けられて、こっちの水は甘いよ…と誘ってくる。これではヨソ見運転をするなという方がムリであって、だからこそ世の中は毎分毎秒「事故」や「違反」、「衝突」や「摩擦」ばっかりなのである。

 

現在進行系の、可視できる分野以外にもそんなトラップはたくさん潜んでいる。

 

量は微々たるものかもしれないが、原子力発電所からの放射能漏れ、加工食品や新薬に含まれているかもしれない、未だ顕在化していない有害成分、静かに、しかし確実に進行している公共建造物の経年劣化…

 

物資や現象面だけではない。

 

2011年の大震災のあとしばらく続いたACジャパンのCMの、忘れもしないあの息が詰まるような大量露出(ニコニコしたポポポポ~ンっていうあのアニメの、人畜無害の白々しい不気味さは前代未聞レベルであって、震災の不安感増幅に非常に役立った)とか、28年前、昭和天皇崩御の際にTV局が付和雷同した、あのべたーっと重苦しい番組自粛の雰囲気だとか。

 

こういう、隣の空気を読みながらとりあえず無難にっていう思考停止マインド、具体的な実在悪などどこにもいないのに、全体として消極的なネガティヴさへ吸い込まれていくこうした傾向こそが、大事な何かから目をそらす「ヨソ見」となり、結果的に次の国土的危機を決定的に引き起こすんじゃないか。

 

悲惨な事態を招く「事故の芽」は、本当は水面下で日々いっぱい起こってるのだし、人をヨソ見させるこうした構図の根っこが見えてないと、毎日毎日、各人が、より巨大な事故のタネをお互いせっせと育ててることに加担してるようなものだ。

 

この世界は、かろうじて、少ない領域ではあるが各人が持つまともな意識、大人の良識判断でいくつかの事故が未然に防がれ、社会通念上は保たれてるように見えるにすぎない。
それはたとえれば狭い路でお互いが進路を譲り合うなどの行為によってである。
ここらへんには人間社会のひとつの希望があるのだが、まずそれはさておき、

 

誰かを傷つける意図なんかないのに、自分という王道から目をそらし、よそ見をしてしまうことで、何らかの大いなる暴力に参加してしまうことになるかもしれない。

 

車の運転のように、便利さという必要悪と引き換えに、ぼくらは必ず大事な何かを失っている。

 

そう自覚すること。

 

だからせめて、自分も車も、よそ見せずに安全に「運転」しようじゃないか。

 

これ以上被害を広げないために。自戒を込めて。

 


<了>