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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



まがいものの客観のワナについて(客観=冷静では、ない)。後編

前編はこちらの記事です

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<すぐそこにある悲劇>

 

先に述べたように、人の世界で言う(まがいものの方の)客観など、神のような超越存在から示されるものでもない限りは幻想である。
よく世間ではデータ統計、最近ではビックデータとか、指標、数値などが取り上げられ、それらをどう解釈し運用していくかが、ビジネスの出来不出来や能率や勝敗を左右するなどと考えられているが、そのすべては数値把握のあがきのような物であるし、どれだけ冷静にそのデータ類を見つめたつもりでも、その分析はすでに観察者の主観の範疇にある。

 

客観主義にも限界があると見限ること。

 

いや数値の観測や、目視できるものの観察に基づく客観など、最初からオリの中でのお遊びであると見破ること。

 

見ることや視覚は人の思考を縛ると気づいてしまうこと。観察する前と後の差異を報告するだけなら、子どもの所業と大差はない。

 

研究者、科学者、専門家などというと高級な職業のようだが、要は森羅万象に対するデバカメ技能士であると見抜くこと。


自分が観察者という、マジックミラーで特別に区切られた聖域から物事をうち眺めて、レッテル貼りのように意味づけを行う、そんなおめでたい、検察官のような特権階級の単純な居場所など、この世にはない。
これは安直な日本人論なども同じであって、研究者や論者、有識者という立場はたいていの場合欺瞞である。
学者は暗に言う。「自分はそれでいいのだ」「それが自分の本分でござい、仕事でござい」と。

 

宇宙にはもともと存在しない認識者と被認識者との分断。人はいつのころかこれをいっさいの反省もなくせっせと推し進めてきたので、身分が発生し、階級が生まれ、わざわざひとは平等であると唱えなくてはならなくなって、あらゆるいさかいもここから生まれた。人類の歴史にとっては最悪である

 

(だから逆に言うと後世に名を残す偉大な学者と呼ばれる人は、野口英世にせよキュリー夫人にせよ、当事者意識の中で、ギリギリの環境で、研究をすすめた人だと思う)

 

学者だけではない。このような「自分を棚に上げる無反省な客観姿勢」こそが、人をして思考停止を招来し、週末だからって自動的に休むような態度を当然と考える温床となるのである(休息など、本来は制度から与えられるものじゃない)


こうした見ざる聞かざる態度の蓄積と麻痺が、例えば戦争の裏にある本当の推進力(国体護持、大本営組織などは、特に支持しないことが実質的支持となる構造だった)であり、かつまた、米国の科学者をして原子力爆弾を開発せしめ、さらにそれを無防備な市民のどタマの上に2回も炸裂させた狂気に結実せしめたのである。

 

平和のように見える現代だって、一皮剥けば対戦前夜と同じであるし、市井の市民も科学者同様、まがいものの客観が有する犯罪性からは無縁ではいられない(被害者としてだけではなく、加害者としても。毎日のワイドショーでの、客観ぶった見世物犯罪報道が、そのひとつである)

 

意識高い系の社会派ブログなんかによく書いてある、目を覚まして具体的な敵を指摘し、抵抗し、排斥すれば落着する話ではまったくない。絶対的なワルや具体的な敵、あなたを陥れるデマなど、実は現実にはほとんどいない。疑うべきはネットサーフィン、ネットウォッチングなどで自足するような、不健全で、かつ被害者意識の傾向を持つ余裕精神の方であり、つまり、目を覚ますのは「敵は内にあり」の視点の方だということだ。外部に対してではない。

 

また犯罪からの連想で言うとオウム真理教もサリンも同じ、元をたどればこのいやらしいノゾキ根性の産物である。
子供のいじめ自殺から巨大建造物の杭打ちデータ改ざんから、先に述べた原発事故、経済格差、ネットの莢雑(ゴミ)記事、右翼左翼のウソ、うつ病の増加、介護問題、貧困の拡大、ネット民によるバッシングから企業の組織的問題隠蔽、政治のお粗末さ、ハトの首切り死体散乱やJRの設備放火、路上の障害物イタズラまで、人の世のすべてのネガティヴさの根っこには、自分の立脚点をおろそかにした、この卑劣なノゾキ根性が控えている。物見遊山的で、高みからの見物的で、後ろから撃つスナイパーのように卑怯で、どこからどこまでも他人事で涼しい顔した観察主義。こいつが世間に非可視状態で横たわっているのである。

 

(日本だけではない。ISの無差別殺戮も、その報復攻撃も全部そうであって、あの卑劣さは何かしらへの謙虚な帰依心(=いわゆる素朴な宗教心)からくるものでは当然なく、自分以外のすべての外部を客観視して、自分と非連動な概念と見て敵視・攻撃する、あまりにも想像力に欠けた所業である。
また、武装集団側の常套手段に自爆という恐るべき身の始末があるが、あれだって究極の当事者意識でも、「尊い」殉死でもなく、たんに洗脳された人間の、盲目化のすえの恐るべき末路であり、組織側からすれば楽チンの切捨てであるがその恐るべき切捨て所業は、必ず「自分に」跳ね返ってくる。蒸し返しになるが人の世で自分だけ安泰な人間などいないって因果はここでも生きる。ことに暴力性を主軸にした組織の場合はそうである)

 

実に社会の害悪の犯行発生現場はこのまがいものの客観主義に安住する立場であり、この、いわば人間疎外の現場だけは、どんなに怠慢な社会でも、日々競い合うように更新しているのである。先に述べたように日本だけではなく、世界中がそうなのだ。
そしてその怠慢は、当の観察者自身も蝕んでいるのだが、ご本人にとってはその悪意も被害も自覚されない。
バイキンは自分の毒性ではやられないのである。これが、いまのわれわれ自身の肖像画である。

 


<必要なのは見ることではない、見えることだ>

 

科学の話に戻るが、今後は自然科学の分野で世紀の大発見などというものが現れたら、それはいままでとは位相を違えたモノの見え方が現れたということであって、それ以上の意味はないのである。医学界で、しばしば健康の常識とやらが覆るのも、そんなわけでである。
われわれ人類が発見しようがしまいが、自然は宇宙は生物は、そんなことにはチリほども関知せず、自身の摂理で動いていくだけである。


意味があるとすれば、その「新発見」にどうコミットしていくかという、人間との関係相の方であり、ホントの知性が生かされる場所は、そっちである。

 

例示してみよう。植物の種子が発芽前の状態を長期間保持し、外部環境が整った段階ではじめて発芽するこの驚くべき仕組みは長いあいだ謎だった。しかしあるとき、その発芽時期の調整には、種子内に含まれたトレハロースという物質が大きく関わっているということが研究で明らかになった。これは大発見であろうが、同時にああそうでしたかとしかいえない発見である。


植物側からしたら、何を今さらってなもんである。

 

人にとっての本当の課題は、このトレハロースを有効に抽出活用し、作物の育成に供し、それをもってわが国の農業政策にとか、TPP対策とか、そうしたたんなる経済世界への貢献ではなく、世界中から飢餓をなくすような地球規模の大目的に向かってシステムを築くことである。このことに懸命になることが、ホントの学問の生きる活路であり、真の仕事である。
このとき初めてこの「発見」が生きるのである。
この発見自体に感動なんかしてる段階で落着していると、泣ける映画のストーリーに感動するのとなんら変わりが無いレベルで終わる。

 


<では、どうしたら先にいけるのか>

 

さてここまで見かけ上の客観主義を攻撃してきたが、話は翻って主観の話題にシフトする。

前回記事の最初の方にも書いたが、今まで「感情的」「非論理的」などといわれ退けられがちであった主観の世界にこそ、ヒトが生きるのに必要な感性のひらめきが、無限に存在するのではないか。
なぜ無限といえるかというと、人の意識の方には限界があるとは思えないからである。

 

自分が五感をフルパワーで動員して感取する環境すべてが、あなたにとっての世界そのものであり、そこでは自己も他者であり、他者も自己である。そしてすべてが生命の当事者である。

 

また繰り返しになるが、このような主観のたくさん流れる大きな川のなかの、ホンの一部の構成要素に人のいう(見かけの)客観がある。


もっというならば、またあえて図式的に言うならば、本当の客観は自分の中の超・超越的なところ、もしくは超・潜在的な内実の中にしかないものである。


あまりに巨大、もしくは非顕在すぎて目では確認できず実感もできず、普通に暮らしてては存在しないも同然なもの。物事の本質すら内包するもっとずっと巨きいもの。それが真の客観である。


大友克洋のコミック「アキラ」の話をまた引き出すと、あの中の超能力世界観の全体といえば、なんとなくお察しいただけるだろうか。

 

見かけだけの客観に足をすくわれず、この巨大すぎる本当の客観を意識しながら暮らすのが、あなたの背筋をしゃんとさせるコツである。人は必ず死ぬ。個体にとって死ぬことほど確かな現象はないが、その反面、あなたもぼくも、全宇宙の全時間枠の中で現在唯一の、空前絶後の、驚くべき存在なのであり、そのこともまた、疑いようもなく確かなことなのである。

 

私たちは闇から生まれてまた闇へ戻ります。(中略)始めと終り、誕生と死とは誰も体験しません。これらは主観的な性格を持たず、現象としてはまったく客観的世界の領域に属しています。

 -「魔の山」トーマス・マン 高橋義孝・訳 新潮文庫(下巻)より

 

そう考えてくると、世の中はすべてあべこべにひっくり返る。自存在を転回点にぐるっと反転する。

 

自分を出来る限り表に出して世にかかわっていく、つねに当事者意識をもって、仕事にも他者にも向き合う。
そして他者の視点を素直に自分に取り込んでいって自己を吟味し、点検し、対象化し、相対化していく。
相対化だなんて書くとイメージしづらいが要は「人の身になって考える」「相手の立場を考慮する」「(相手を批判する前に)自分だったらどうするかを考える」「いい考えに対しては素直に受け入れる」といった、数々の(よくある)処世訓の、たゆまざる実践である。それを物事の表層ではなく、本質に対してやっていくのである。

 

こうした謙虚な姿勢で思索し試行する、その過程を練り上げて自分で自分を「超えていく」。成長した後の自分とも、またさらに同じように対峙していく。すると自分の中に他人が数限りなく存在し、自分もその中に紛れ込んでいるとの境地を意識できるようになる。自分がそのたくさんの中で、一個の客体として主観的に認識される境地に、至ることができる。

 

これがつまり、前回記事の始めで述べた「(自己とは)主観的に見て無数の客観存在である」ということだと思っている。

 

それら無数の客観存在をすべてひっくるめた全部が、1ミリの狂いもスキもなく、自分の世界なんだという想いに到達できれば、自分は生かされていると素直に思える。

 

ここまでくれば、そうした真の協調の中に喜びが沸いて出て、世を覆う孤独、格差、不安、むなしさは浅い現象であったと知れる。
時代も境遇も性別も自分の容姿も遠景に過ぎない。いつだって世界の中心は自分であり、他者でもある。
またサブカルの話になって恐縮だが、エヴァンゲリオンTV版最終回における「おめでとう」で埋め尽くされた高揚が、この世界観である。
こうした立場に人が到達してはじめて、科学は従来の科学の限界(見かけの客観)を脱し、哲学などの全体性への問いかけと止揚されて、人類にとって真に有用な学問足りうるのではないだろうか。

 

(そしてその概念は、いま2015年11月現在、普通のひとびとを大量に虐殺する、暴力事件が世界を席巻していることへの、抑止力にまでなってほしいのだが、その希望は絶望的に弱すぎるうえ、何もかもが遅すぎる…)

 


<おしまい>