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まがいものの客観のワナについて(客観=冷静では、ない)。前編

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*フランスパンでパリ市民を想う。

 

 

以下は前にも何回か書いたことがあるが、「趣味」という言葉に代表される世界観について今回は2記事に分けて大きく取り上げてみたい。

以前に書いたエントリー「こんな趣味はヤダもん宣言。」では「趣味」という言葉からの連想に限って、できるだけ具体的な文を書いたが、今回の記事は抽象的な物言いが中心になっていることを、あらかじめ申し上げておきたい。

 

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さてここらで本稿のイントロダクションをば。趣味の記事と内容が一部重複しますが。

 

この世は自己と他者で出来ている。そして自分一人では存在が維持できない。


そこで他者と関係を築くわけだが、そこでなぁなぁではなく、ゼロ距離の、のっぴきならない、不分割の、不可避の、そんな堅い関係を目指すのが、自己も他者も本当に生きるってことになるだろう。
これは表面の態度ではなく、世界観の問題である。
世界観となれば、人の場合はとりもなおさず、言葉の問題となる。自分を、行動を規定するのは言葉だからだ。


前に書いたとおり、ぼくはヒトゴトな語感のする言葉にいらだってしまうタイプで、趣味、レクリエーション、リフレッシュ、鑑賞などの言葉は好きでない。名詞以外でも(電話に出て一言目によく言う)「○×(名前)ですけど」の「ど」や、(相手からの質問への返答に遣う)「っていうか」「つ~か」もヤラしいし、書き言葉だと「~だったりする」などという表現も、なんか偉そうで、ほとんど使わなかったりする(笑)


これらは余裕が感じられる言葉であるが、自己と別立ての、よそよそしい、自分をいったんどこか無関係の平野において、傍観態度を決め込むような表現である。


例えば趣味という言葉を遣うとき、ほんの少しだけ自分を欺いてる気がするのだが、そのあざむき感覚は何なんだろうか?と思って考えてみると、何か第三者的なものに、自分をいったん仮託してしまうような妙な無責任さがあると気づいた。


これは自分という唯一存在の内面世界の入り口である「お楽しみ」を、世間一般の「趣味」に交わらせてしまう安直さへの不満とも言える。


この言葉にごくごく微量だけ内包されているこの根本姿勢こそが、大きくいえば現代社会を隅から隅まで覆っている欺瞞の正体であり、人を生きづらく追い詰め、カタワにし、不純にする真犯人である。
「趣味」という言葉に代表される世界観もまた、その片棒を担いでいる。

どういうことだろうか?

大枠でいうならそのカギは、主観と客観の捉え方に潜んでいる。さてここからが本題。


<客観的立場はそんなに偉いのか>


今の世の中、通常は主観と客観は別立てであり、主観的なモノの見方考え方より、客観的なそれの方が上位に位置してると思われている。また、主観=感情論であり、客観は冷静・沈着・分析・真理と同義語とみなされている。
統計学から確率論から経済学、果ては人文や生物学、歴史学まで、社会を構成するすべての学問の社会的ヒエラルキー(学者は難しいことに取り組んでてエライんだゾっていう驕り)は、客観性こそ知性の勝利というイデオロギーに根拠を見出している。


ところがこの主観と客観の、潜在的二分割思考に基づく客観性の上位概念が、そもそも世界の間違いの元凶だと思われるのである。


結論から言ってしまう。人間とは自分とは、無限にどデカい内実を持っていて、主体であって客体でもある、そんな存在だ。
もう少し敷衍すると、現実の多くの局面では一人のヒトは客観的にみてひとつの主観存在であるが同時に、それ以上の大きな枠で捉えた場合、主観的に見て無数の客観存在である。


これをカンタンに言い換えれば、自分をよく見つめないと、自分とは単なる社会の歯車に過ぎないが、自分としっかり睦み合うと、とたんに自意識は無限といっていいほどの広がりを見せるということである。こう書くとまるでドラッグの作用みたいだが、薬物なんかに頼らなくったってそうした境地に至るのは誰でもできる(むしろ、ハーブやら危険ドラッグなんかジャマなだけだ)。そのコツは、どんな人でも自分の中には、遺伝子的にも思想的にも、生物の歴史が丸ごと入っている、って感じ取ることだ。そして何億人もの自己と他己が、自分の中に同居しているって想念にいきつくことだ。つまりひとつの個性の中に、大きな大きな「本当の客観」という名の宇宙があって、主観はその中に抱かれて、目覚めもせずにスヤスヤと眠ってる。絵的にはそんなイメージである。そのイメージが、人間の無限の可能性だと思う。

 

自分は、自分ひとりで成立してるわけじゃないし、真に孤独な人なんていない。これはとても明るい、本当に確かで、肯定・開放・共生の境地であり、特定の宗教にすがることなんかより、よっぽど人が人生を善く生きる姿勢の大元になる。ただ、ぼくらはそこに気づきにくくなってる。特に貨幣経済が人を奴隷化した近代以降は、かなり気づきにくくされてしまった。


ふつう人は生涯主観で生きるほかはないということになっている。自我というエゴが、与えられた肉体といういわば運命に閉じ込められ、そこからは逃れられない存在だ、ということになっている。
この認識があるからこそ、人間史では客観主義への、換言すれば科学への、超越的な執着が生まれたと類推する。
しかしこの生涯主観という考えでいくと人類というのは、自我や肉体という囚われの平野にいる限りは客観視点は持てない。
持てたと思うのは幻想であり自己満足である、となってしまう。
つまり、客観的なものの見方がでけた!と考えた瞬間、それは「主観的」評価に貶められ、客観的立場とは人の限界であり蜃気楼である、となる。この見かけだけのいわゆる「客観性」を、さっき述べたような宇宙のような拡がりのある本当の客観とは別に、「まがいものの客観主義」と、ここでは呼ぶことにする。


人は自我や肉体に囚われている身だと書いた。そこだけの存在で終わるのなら人は地に這いつくばって、暑いといっては汗をかき、寒いといってはブルブル震え、ときどき地震に見舞われるなど、動物と同様に自然に翻弄されて生きるしかない。
(翻弄ではあるが、土を耕し、芽が出て喜び収穫を分かち合う、そんな素朴なうれしさはまぁ格別に味わえるとはいえる)


ところがここに、人というのは本当の客観視点になかなか気づかないにもかかわらず、簡単に客観ぶる人(つまり、まがいものの客観に気づかず、その地点に安易に納まる人)が、まるで自明のように現れているのが中世以降の歴史である。
古くは神学者や牧師など、いつも涼しい顔した権威者、いまなら学者や専門家、解説者などが特にそうだが、観察対象に自分を投影しないのが研究者の冷静な態度だ、などと余裕をかましてお利口さんぶる地位の者たちである。こういった手合いが社会の上位に君臨し始めた。余談だがそうした階級差異が、別の面では貨幣の弊害をむやみに拡大させたことがまた、人類の不幸のはじまりだった。


するとここからいろんな間違いが起こる。いや間違いどころか、現代社会における病理根源そのものが、この「我関せず、見るだけ」という研究態度なのである。


<福島の原発事故の本当の要因>

こう述べてくると反論があるだろう。まがいものだろうがなんだろうが客観主義が病理の根源だと?何を言うのか、そんなことはないという意見である。
また、「観る」、「注視する」、「観察する」という学問の基本姿勢は十分に謙虚で、理知的で素朴で控え目な人類の英知行為ではないか、と。
だいたいお前がこんにちまで衣食住も医療もすべてにおいて保障されながら成長し、教育を受け、生きながらえてこれたのも、その何千年かの学問の蓄積と、その実践のおかげじゃないか、と。


だがその解釈は、「まがいものの客観」に関する表面的な考えである。なにかのモノサシと対象を参照しながらフムフムやる、そんなまがいもの客観的な、腰の引けた観測など、その物じたいがしっかり「見える」こととはちっとも、断じて、関係がないのである。そんな程度の客観主義が従来「役に立ってきた」とされる分野、とくに科学や経済はまた、人間の根本を成す生きる力を奪ってもきたのだ。原発がその親分格であり、フクイチの事故はその象徴であった。
たかが電気生産施設の事故のため、福島の浜通りから強制的に避難させられた人々の悲しみは、生きることを奪われた悲観そのものではなかったか。


話はそれるようだが(本当はそれてないのだが)、あの2011年の福島原発事故の際、テレビで客観主義の手先たる学者や専門家、政治家、東京電力の当事者でさえも何と言ったか。
あのときも数字という見かけの客観性ばっかり踊っていた時期だったが、各種の放射線値や温度が上昇したことを受けて、彼らは「注視していく」以上のことはほとんど言えなかったではないか。

踏み込んだコメントを求められても、「人間には放射能防御や排泄の能力が備わってる」などという、「科学」に名を借りた一般論以上のことは言えなかったではないか。しかもそういうことを言う人はどこかヒトゴトのような、別の国の事故であるかのような、馬耳東風な雰囲気だったではないか。


あのときも、そしていまもなお、原発事故対応に究極に必要で、事態の打開を当時確実に促したのは当事者意識であり、主観主義、言葉を変えれば現場主義である。
情けなさをにじませたような表情、苦虫を噛み潰したような態度、ほんのわずかの可能性にかけて放水作業に従事した人々のおかげで、いまも現場は保たれているに違いない。
冷静で客観的な学者意見などは、現場では机上の空論として煙たがられるのがオチである。
パニック映画なんかによくあるキャラクターパターンといえば分かりやすいだろう。


原発事故についてはまだ話を続けたい。


あのとき原子力という人間の英知とやらの粋を凝らした「科学」は、その不完全性のずさんな馬脚をあらわし、敗北したのである。多くの人の人生を道連れにしながら。
放射性物質という、質量両面からいってもどのくらい危険か把握すらできてないものを、この国の、杭ですら信頼に値しない土木技術で作った、古い施設の中で、正確に計測できてるかどうかも分らない計器にのみ頼って運転しているこの綱渡りさ。
事故にいたってもその対応も状況把握も、やはり計器に頼るのみで、状況の目視把握はできなかった。現場ですら、いや現場だからこそ、そうせざるを得ないこのパラドックス。


このすべてが、観察主義が敗北したとしか言いようが無い構図ではないか。トータルで客観という名の「ひとごと」で構成されていたのである。また、原子炉は米国製で、運転者はイチ企業で、監督およびジャッジは国という、このいかにもバラバラで、羅列しただけでセクショナリズムの弊害そのものといっていい機構、主体的な取り組みや試みを、排除する方向しか期待できそうも無い、他人事推進巨大機構。有事の際、こんな組織体がどうしてうまく機能すると思えたのか。


事故原因が地震だろうが津波だろうが、想定外であろうがなかろうが、因子は関係ない。
かのごときシレッとした、われは客観科学でございなんていう当時者意識のない機構が、シビアアクシデントを起こすのは自明であって、この敗北の本質構造を過小評価する限り、これからも科学は大小さまざまな事故を起こすのは必定である。


これらは漫画「AKIRA」で、作者大友克洋により予言されたとおりである。


ということでとりあえず以上、福島原発事故の話からはいったん外れ、まがいものの客観主義の猛威に論を戻す。

 

 

<まがいものの客観の限界を自覚しよう>


客観が知性の裏づけであり、科学が人類の進歩の証ならば、ぼくもそうだが、表面は大人でも内実は空虚な人が、もうたっくさんたくさん、世の中にいるのはどうしてなのだろう。内面の空虚さが、自分を研鑽することを怠ってることを意味するのなら、その怠慢の主動因は何なのだ。
2015年になっても、昔の人間の方が偉かったなどと思えることがあるのは、どうしてなのか。


それからまがいもの客観主義の周辺には、客観主義を装ったさらに小さいまがいものや、悪しき客観とでもいうべき恣意性にふちどられた言説などが蔓延しやすく、これがまた世の混乱に大いに拍車をかけている。そのホンのホンの小さな例を挙げると、「東北最大級の品揃え」などと言うときの「級」であり、やや大きな例だと「国家存亡の危機等に対処する法案」などにおける「等」である。


こうなるとなにか詐欺みたいじゃないか。これじゃあ世の中はだましがはびこり、いつになっても廃れないわけだ。

 

全人類への啓示書、ご存知「AKIRA」

 

後編につづく>