お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



インターネットで世界はこの程度にしか変わんないのかってことに対するグチ

f:id:fotobiginesu:20151113101340j:plain

ギョーザとビールで、むすかしいことからしばし逃避。

 

<ネットはバラ色の肯定感をもたらしてはくれてない>

インターネットというウェブの電脳空間。ブロードバンドの普及というインフラ面と、各種ドメインの世界的ルール付け、いち検索ポータルである(いまでも本当はそれだけの存在なのだが)Googlの検索技術向上、クラウドテクノロジー、ビッグデータの集積などなど、24時間休む間もなく秒進分歩であり、かつ拡大を遂げる一方のこの世界。


ネットという驚くべき無形物が、人々の生活を支配するようになって久しい。


本来個人を飛躍させ、これまた本来有限に過ぎない人と人との相関性を、メッチャ拡大することに貢献し、そのことによって人類の新たな知性の広野を切り開くかに思われたこのインターネットだが、一応本格的なネット時代の幕開けとなってから今年で大体20年くらいが経過したろうか。


鉄腕アトムなどの時代における牧歌的な未来予想図ならば、ネット等のおかげで人類は賢くなり、戦争も格差も、ブラックも貧困もなんにもなく、のんびり宇宙遊泳でもしてる世界に、いまごろ人々は逢着してるはずであった。確かにいくらかは便利になった。なんたってぼくみたいなボンクラがブログを始められたくらいだから。でもその程度どまりだ。


というのも世界はぜんぜんいまだもってダメダメだからである。ぼくは全世界視座なんか持ってないし、世界のニュースのほんのほんの一部しか知らないが、それでもダメダメなのは分かる。むしろネットはいさかいの断面を先鋭化する道具にすら、なっている。


また、よりリアルには、日本社会のダメダメさは物心付いてからこのかた、繰り返し繰り返し、飽きもせず見せつけられ、いやおうなしに毎日衝突させられている。だめと分かっている組織や考え方や、制度を、廃止したり更迭したり左遷したりがないから、な~んにも変わらないのだ。


あんまりダメダメばかり連発してるとナントカいう芸人みたいなのでこのへんでやめておくが、インターネットが登場したころ、「これで世界は明るく開ける!」って確信があったのだがな。


これが切り札になると思ったんだけどなー。個人的にはね。


だのに結局は資本主義のたんなる道具、おもちゃになってしまったってことで終了しつつあるのか…
いつもの手だなこりゃ…



<じゃあこっちはどうだ?商売面でのネットの使われかたを、あくまで大枠で見る>

すこし角度を変えてビジネス面から見ても、インターネットはさほど革新性をもたらしていないように見える。
グーグル、ヤフー、フェイスブックをはじめとして、ネット界の数々の巨人たちも、広告およびその掲示という既存のスタイルから、まったくハミ出せていない。どの会社も超頭脳集団だし、当然いろいろやってるんだろうけど、規模の違いや多少の変形はあっても、けっきょくポータル稼業は広告屋が終着形態、という感覚がぼくにはある。もしそうなら彼らのいうネットビジネスとやらも、本質的にはチンドン屋やテレビ局と変わりがない、と思えてしまう。


またコンテンツのダウンロード販売という、ネットインフラやクラウド技術を生かした、それらなくしては実現できなかった新手のビジネスもあるが、世間でネット通販といえばいまだ圧倒的なのはアマゾンに典型的な物販スタイルである。これではインターネットは、単なる巨大カタログ雑誌と内実においてあまり変わりがないではないかと思う次第である。


楽天モールやZOZOTOWNなどは、その形態レベルの話だけをすれば単に百貨店の焼き直しネット版であるのは、みなさんも先刻ご承知のことだろう。


ネットのアドバンテージは、紙のカタログとくらべて検索性やリアルタイム性、ならびにレビューによる第三者の物品評価制の解放度と、その充実くらいであろうか。



またこうしたビジネス分野以外でも、インターネットってこの程度の使われ方なんかい?というのしかない。
例えば2ちゃんねるに代表される匿名掲示板や、Twitter、Line、FBといったSNSだ。
いや、もちろんこれらを否定はしないけど…これじゃまるでおしゃべりツールじゃない。

 

(ちなみにtwitterは赤字なんだってね…貨幣とネットって水と油現象じゃないかな。IT企業の栄枯盛衰のはやさと覇権期間の短さを見てると、特にそう感じませんか?)


はたまた犯罪分野。あの業界もサイバー攻撃にハッキング、情報漏えいになりすましなど、話題に事欠かない。事欠かないけれどネット系クライムって何だか間接的で、妙にセコいなって思いません?もちろん対策は大変なんだろうけど。


特に日本はインターネット依存が高くなりがちな国で、ネット以前からアニメやコミックなど、自分を問わなくていい、向き合わなくていいようにしつらえられた贈与娯楽にどっぷり浸かっても許される風土だったから、「匿名」「閉じた環境」「ネット穴倉感覚」などに、害虫が暗所や湿気のある温い場所を好むように群がったよね。自分専用の安泰ノゾキ穴からヒヒヒ…と観察することだけが生きがいだとする錯覚が、他ならぬ自分の不安と空疎さの大元になってることにはほおかむりしつつ。


待てよ、とか、こんな簡単に取り込まれていいのか?とか立ち止まって考えもせずにまっしぐらに…高度経済成長と同じ方向性であります。日本の盲目的な高度成長が、そのあとのこの国に何をもたらしたかは、ここで申し上げるまでもありますまい。

 

ネットは、日本のデバカメ風土にぴったりハマった。それまでのアニメやゲームといった類似のものなんか問題にならないくらい、そうした錯覚効果を助長した。


これではどうも釈迦の手の平の上の孫悟空に思えてしまう。インターネットってこの程度のものなのかって、やっぱり考えてしまうんだ。

 


<インターネットは文科系、人文の世界>


もともとインターネットは軍事利用が起源とはいえ、平野性、水平性、無限性、永続性、同時性、多方向性、透明性、同格性などなどを備え、四方八方からアクセスが排除されない、人格とは別軸に立つ大きな概念たりうる、ほとんどニュー哲学のようなものではなかったか。


人の発明品としては、人のカタチはしていないものの、全人性に合わせ鏡のようにかなり近づくことに成功した無形システムである。
グーテンベルグの活版印刷発明、エジソンによる録音開発、ライト兄弟の飛行機と同じくらいのインパクトを持つ発明であったはずである。


インターネットが世に誕生しはじめてもうすぐ30年というところで、冒頭にも言ったように日々の生活にはすっかり定着した。
しかしその定着という意味は、ツールとして気軽に使える位置に付いたという意味でしかなく、本来の人知への貢献の定位も発揮していない。
インターネット本来の特性をもっと十分に生かしたスタイルでないといかんと、ずーっと不満である。ぼくは。


しかしここまで話しておいて何だけれども、ビジネスという、あえて言うと「小さい世界」で考えてしまうなら、その矮小化傾向も仕方あるまいとも思う。


(ネット犯罪は、その小さきビジネス世界に隷属してると推測されるので、さらに小さく、ショボい位置づけになる)


商業となればネット側だけでなく、貨幣制度側も考えなくてはならず、そうなるとネット側の広大さ自由さ奔放さフレッシュさ、ニューボーン感に比較し、貨幣経済側はたとえるなら沈没寸前の奴隷船であり、硬直化しきって根元から末端まで腐敗しきった制度であるので、同じ舞台に載せることの方に無理があるからだ。


だからビジネス分野以外の人文哲学方面で、人間が個人で輝くあかしになるために、インターネットが超充実活用され、そのほんのわずかに漏れた明かりで、それと意識しないくらいさりげなく、貨幣経済が恩恵を受けるくらいの、圧倒的な上下関係が、ぼくの考える本来の順番である。IT革命が、そんなレベルまで到底至ってないから、革命の名に値しないから、不満なのである。


<人類を縛ってきた宗教を超えてしまえないか、インターネットが>


さて話は飛躍するが、ぼくは神を信じない。宗教は他人が作りし概念であるから、特定の宗教に取り込まれることは自分を放棄することにつながりうる。ぼくの信じるのは自分だけだし、その「自分教」は、もちろん誰にも強制しない。


(神の摂理としか言いようが無いような人の理解を超えた、知覚すら拒むような現象は確かにあるが、それは自然の摂理、もしくは偶然や時間の魔術とでもいうべきものであって、そこらへんを混同してはならない)


人が作ったから神の概念には不完全性がつきまとう。一番究極の例だと、宗教は生命の開明について、ぼやかす説明しか出来ない。なぜ個体は誕生と消滅のサイクルから逃れられないのか。その超・原点部分はほとんどはなから不問であって、死をどう受け止めるかとか、いかに生きるかとか、そしてそのためにはいかに神に帰依するかという、そんなテクニック面しか宗教は教えてこなかった。


それもそのはず、繰り返しになるが宗教は、神は、人が考え付いた概念だからだ。従って問いと解に縛られているし、何よりも、死を恐れる気持ちが宗教創作の原点だから、カンタンにいうと"逃避"思想が根幹にある。
光とか救済とか、上から与えられるものを受け止めなさいよというばかりなのはそのためだ。

(生死を左右できる神が実在するなら、はじめっから超長生きする生物を創造すればそれで万事円満な回答ではないか。死があるから生があるのだなどと言われ、「ああそうですか」となるような、そんな単純なものではない)


しかも千年来、宗教は争いの、殺し合いの、虐殺の元凶でありつづけてきて、いまもってその立場に関し、一切の反省が見られない。したがって、神は宗教は、そのへんの路上で勧誘されるものから、大メジャーなものまでかなり多くあるが、ぼくにとってはすべて等しく関わりがない。


いっさい信じないので、死んだら墓には入らない。土に埋めてもらってそのまま腐るか、火葬してもらって灰はそのへんに蒔けばよい。あとは「自然の摂理」が何とかしてくれる。


これは本気であり、ぼくは46歳だからもう遺言状は一応作ってあって、そこには今のところこのことしか書いてない(独身で、子供もいないので)


(一応と書いたのは、遺言状という現行システムにも懐疑的だからだ)


こういうぼくがインターネットに、そして世間に望むのは、こういう姿勢に「終活」などとレッテルを貼って落着するのではなく、こうした生の、ライヴの表明が、ネット空間では当たり前の発露になって相互交通できるくらいまで、インターネットが人間存在のひりひりした、魂ムキ出しの、切磋琢磨の場であってほしいということだ。その、抜き差しならない、迫力に満ちた活力が、不安がベースになってしまっている近代以降の世界を、人を、あなたを、救う。


そうなってはじめて、インターネットは神ではない「超越的な」インフラに変容し始める。

私企業や国家、貨幣などの些少なものが、出る幕はなくなるほどに。


そうでなきゃネットなぞ、たんなる遊びの、序の口ツールだ。

 

<了>