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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ひとつしかないものに賭けるということ ~ヒグチアイ(ミュージシャン)のライブ感想文~

youtu.be


<はじめてミュージシャンをネタに書いてみる>

 

全人性を放出しながら向かってくる人が、まれにいる。


今日のブログで取り上げる「ヒグチアイ」という女性シンガーソングライターがそうだ。この人は、いわゆるアマチュアミュージシャンだが、プロとか有名とか、そんなレベルで語る人ではない。

 

バンド形式でもライブをするが、ぼくの観たことのある彼女のライヴは、キーボートと歌というソロ形態(それも対バン形式の中での30分ほど)のみ。曲はほとんど自作(たまにカバーも)。あたりまえだが自分の指と声帯でしか勝負してない。


この女性が、上のYou tubeでもお分かりのように、もう大変のっぴきならない音を出すんである。ライヴ空間だともっと濃密で、こちらがいたたまれなくなるくらいの迫力がある。ヒリヒリ痛いほど剥き出しの個性と対峙させられる30分。叫ぶとかスクリームとかではない。むしろ演奏は淡々として、ボーカルはひんやりとしている。しかしそれだけに観客に傍観者であることを許さない。

 

初めてライブを観たときは、それはそれは破格であった天変地異であった。あれはほとんど猟奇的、霊的な体験であった。全部むき出しにしてくるだなんて、卑怯である。

 

こちらにも相応の構えをさせてもらう余裕がほしかったのだがとにかく来てしまった。
来てしまった以上、受けるしかない、ヒグチアイとのファーストインパクトにはそんな想い出がある。

 

音というものは偉大であって、音よりもさらに偉大なる個人の内実を、音を通じてさらけ出すことができるわけだが、そんな意識されない領域を、いやでも意識させる非凡な才能である。

 

なんというか、例えば農作物は人が育てるのでも栽培するのでもなく、それらが勝手に育つのを、人が最後に採取させてもらっているのであるが、ヒグチアイにとっての音も、作物のようにオーガニックに自己の内部に自生してくるものなのではないか。それを身体を通して、出す。

 

楽しんで聞ければいいなんて牧歌的な態度を全部過去のものにする、1音たりとも聞き逃すことは許されない、対峙を強要されるこのトーン。
流して処理される音はひとつもなく、すべての音が、そこにあるべき場所、そこ以外ではベストな鳴りを保証できない場所で定位していく。
それでいて次の瞬間には別の必然のトーンにバトンを渡す。

 

そしてあの声である。あの微妙に揺らぐ、霊的なものまで感じさせるあの歌唱。
ひとりのひとに、ひとつのトーンしか与えられていない声で"うたう"という行為は、ひとの巨大な営為である。
世の中にはモンゴルのホーミーなど、物理的な空気振動と、魂の脈動の、両方を感じさせる驚嘆させられる歌唱があるが、ヒグチアイはそのレベルのうたうたいである。

 

熱狂する、手拍子をする、ノル、そんな当為に縛られなく聞いていい。
しかしそれだけに、正しく向き合うことを真に要求する音。

 

あと、これも非常に大事なポイントだが、ヒグチアイは顔がいい。

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*ヒグチアイのTwitterより、画像拝借。

 

存在の凛とした美しさは、ライブ中でも一瞬たりとて、乱れることがない。
コリッと硬く、それでいてしなやか。音にも雰囲気にも甘えがなく、それでいて素のまま。
ファッションも飾らないし、地毛の特徴を生かした(と思しき)ヘアスタイルにも機能的な魅力がある。
つまり、若さやいわゆる女子力に自足せずたたずんでいる。この推定身長152cmの小さな潔さ。
小さな個人の内面は、宇宙よりデカく、みんなそうであるというのが僕の持論だが、この人がそのサンプルである。

 

最近のライブMCでは、見ず知らずのオバさんにそのルックスを絶賛されたという話を、さらっと、イヤミなくしていたが、そういう、わかる人には感取できる、凛としたものを持つひとである。

 

それにしても、

 

こんなディーモンを抱えたような音を内面に持って、この女性は日常生活では生活者としての自分とこの音の発生源とを、どう折り合い付けているのであろうか。

 

そういう余計なことすら思ってしまうアーティストである。

 

うむ、惚れたナァ笑

 

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<引き続き、「アマチュア」ミュージシャン讃歌をば>

 

最近は、このヒグチアイのような才能に出会えないかと、いわゆるアマチュアミュージシャンの出るライブハウスや、演奏環境のあるカフェなどによく出かける。

 

うたが、楽器が、演奏が、趣味という名の余裕や、職業として音楽家、そのいづれでもない立脚点から鳴らされている。
ほとんどのプレーヤーがオリジナル曲で勝負しているので、ステージでは各自の肉体性が、そのまま放出されている。従ってボーカルにはたいてい切実な響きがある。


シリアスな音楽性、ファニーなヴァイヴ、プレイのノリはミュージシャンそれぞれだが、いづれも音に向かうときに音魂みたいなものに憑依する傾向があって、自分が単なる器になってるのが多い。
パフォーマンスというものには、音楽や舞踊などいろんな種類があるが、パッションを表現するのに自分が「器」になれるのは、いい傾向だと思う。

 

全国を股にかけ対バン形式のライブに出演し、アウェーでも、拍手がなくても、メゲずにうたう。
それは(クサイ言い方になるが)、「歌」を届けるような感覚があるんだと思う。
従って、ステージでは自分を表に出しつつも、パフォーマンスにおいては自我は遠景にあって、歌のよろこびの方が前面に出てしまう。そこで、観客としてのこちらも、祝祭への参加を要請されるというわけである。

 

自分の演奏を、映像で記録してるパフォーマーはあまりいない。これもいいと思う。
音を出してる瞬間や刹那で出来不出来が自分で分かり、よくないときはその場で歌いながら修正するという現場主義に、潔さを感じる。要は出し惜しみをしないのである。
逆に言うと、あとから映像で自分のパフォーマンスを見直して、そこではじめて課題が顕在化するようでは表現としてもパフォーマンスとしてもまだまだである。

 

忙しく移動してても、めったに風邪を引かないし、体調も崩さない。

過去でない。未来でもない。今をみてる。

 

だから30代40代でもミュージシャンはルックスが若いままの人が多い。


ぼくのいう「本当の仕事」と同じ営為が、ここにある。仕事は形態ではない。自分の放射のありようであるからだ。

 


<了>