読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



「ない」ってことを明日へつなげる思考 -東京オリンピックのエンブレム問題から、哲学(?)への飛躍-

f:id:fotobiginesu:20151015171942j:plain

鹿児島の友人の話を出してるので、サツマイモをTOP画像にしたんだぜ

 


<いつまでもロゴで足踏みしてる場合じゃないんだろうけれど>


いまだ決着をみない例の東京2020年オリンピックのエンブレム問題。世間的には間違いなく2015年を代表する事件になってしまった。


白紙に戻って1ヵ月半、これから先の新しいエンブレムの募集要項(案)は、報道によれば以下に要約される


"応募要項案は、デザインコンクールなどの受賞歴は問わず、個人参加なら日本国籍を持つ18歳以上の誰もが応募でき、国内在住の外国人にも門戸を開く。18歳以上の代表者を置けば10人以内のグループでの応募も可能で、小さな子と親や職場の仲間での参加もできるというもの。
旧エンブレムへの応募が実績あるデザイナーに限られ、選考過程も閉鎖的だったことを踏まえた。
また、エンブレムのコンセプトは「多様性、自由度を重視する」として定めず、応募者に委ねる"

ソース:エンブレム再公募、親子・職場仲間も可能に 五輪組織委:朝日新聞デジタル


コンセプトは定めないということではあるが、エンブレム委員会の公式ホームページには、PDFの別掲資料で一応キーワードくらいは載っていて、それによると以下の8項目、10語でエンブレムの指標が示されている。

"スポーツの力"
"日本らしさ・東京らしさ"
"世界の平和"
"自己ベスト・一生懸命"
"インクルージョン(一体性)"
"革新性"
"未来志向"
"復興"

 

tokyo2020.jp


以上が「組織委員会が込めた思い」(同資料より抜粋。掲載順番も同じ)なのだそうだ。


でもですね、まだ(案)段階だがこれを読む限りエンブレム委員会の態度は今回も災いの元になりそうな感じがする。


その理由は簡単に言うと受身で消極的な姿勢だからである。つまり委員会側の当事者意識、気迫が感じられないのだ。


今回は応募の門戸を広げ、経験や受賞歴の有無は問わないという基準はいい、というかまぁ当たり前。18歳以上の日本国籍人なら誰もが応募できるとした門戸はいい。


でもエンブレムの肝心のコンセプトは上記のような実にあいまいガイドラインの提示にすぎない。
こうでもしとけば自由度も透明性もいちおうは確保できるんじゃね?という、単純なおめでたさだけは、しかと感じる。
要するに事なかれ主義のニオイしかしないのである。


キーワードの中では特に2番目の高順位につけた「日本らしさ・東京らしさ」が曲者だ。
オリンピックの開催国など黒子にすぎないという謙虚さこそが、大会を成功裡に収める秘訣なんではないか。
このへんにオラが根性の未練が残っていると、災いの新たな火元になりそうである。


選考側の基調が、こうした受身体質にあるならば、いい才能がいいデザインを持ち込む偶然が無い限り、前回とおなじ轍は今後も何度でも踏まれるであろう。
ちなみに「おなじ轍」っていうのは、パクリ騒動のような低レベルの話ではなく、良質なデザイン獲得に失敗する、ってことです。このまえのTデザインはぜんぜんいいと思わなかったから(偉そうだw)


前回はあんな国辱レベルのていたらくに堕ちてしまった本件だが、今度こそ、円満にかつ能率的に、優秀なエンブレム審査を行いたいのであれば、前にも書いたがデザインという裸の、むき出しの、研ぎ澄まされた魂の世界、具現と感性のぶつかりあう本質からの抽出と、オリンピックの歴史的、東京的、日本的意義を、穴の開くほど見つめ、その双方を共にえぐるような葛藤と、そして透明な審議過程を経ないと、多くの人に支持されるデザインは得られまい。


そのためのデザインコンセプトの方向性の当初からの示唆、その付き合せ、確認作業は、二度目の失敗は許されない同委員会が、主導権をもって、本気であたるべき重要な仕事であろう。


その根幹たるべき原書となるデザインコンセプトを、今回の(案)では、おっかなびっくり提示してるだけである。
こんなことではこの先ふたたび、わざわざ税金をなげうって、世界に恥をさらす大会になりはしないかと、再度思いやられるのである。


今後、だんだんと選考方針が確固としたものに結晶するといいね。


くれぐれも時間切れなどという一番マズイ幕切れにならないようにね。


「一億総活躍」とかいう時代を象徴できる、わが国初の花舞台として、みんながんばって下さい。


以上、都民でもないのに、めっちゃ上から目線でごめんね笑

 

↓佐野クン問題がホットだったころに論評してます。

www.moneytalks.jp

 

 

<世の中に存在しないって判断は、誰も下せないのが本当なんじゃないの?>


さて以上は序文であって、ここからが本文なのだが、佐野研二郎クンの東京オリンピック・エンブレム問題は、あるデザインが世の中に「ないこと」の立証が難しい、ってことをずいぶんと世間に示唆してきた。


あることの反対は、修辞上は「ない」であるが、これを証明するのはデザイン業界に限らず、非常に困難である。


さよう、困難極まりない。ないこと、量的にゼロであること、虚空であること、ブラックホール。その深淵を、ぼくたちの三次元界では、人間の知能では、どう解釈し、定位すればいいのだろう。ぼくの少ない知能では、どう逆立ちしたってできそうにもないのだが。


それにだ、「ないこと」をそもそも定位すること自体に、何の意味があるというのか。
無いものはナイままで放っておけばいいのではないか。哲学業界は別として。


こんな風に、あれこれちょっと考えただけで途方に暮れてしまうのであった。
これじゃ昼寝でもしてた方がマシだ。


<ないことは、誰も解明できない>


だけどやっぱり「ない」ことって不思議じゃない?数学史でもゼロの発見って一大事だったらしいからさ。で、以下つらつら考えてみると…

 

時として万能のように錯覚されるインターネットでも、「ない」「無」「ゼロのもの」は、本当は検索できない。
いくら画像検索機能が向上しても、検索精度が上がっていっても、基本的には検索ワードに還元できなければ、web界には存在しないことになるからだ。子供でも分かる理屈。


よしんば検索で掴んだ、分かったような気になった「ない」があるのだとしたら、それは本体ではなく、影武者かなんかである。すでに「ある」もので「ない」ことを照射できるわけがない。


ヘビを捕まえてみたら本体そっくりの脱皮後の皮だった、みたいなものである。


言葉自体だってそう。「ない」という言葉が規定されてる時点で、「ない」ことに部分的に敗北している。
「ない」ことの考察に、一応の決着めいたものを与えてあとは知らんという冷たさが感じられるのは、考えすぎか。


文学でも、芥川だったか忘れたが、腹をすかせたカエルが死んでいなくなっても、腹が減ったその怨念がそこに感じられるかぎり、カエルはその場所に生きているとかいう小説があって、それはそれで良い文だったが、そういうふうに外縁をなぞってしか、不在は表現できない限界もまた、感じさせた(この辺、うろ覚えですw)


哲学、さしずめハイデガーあたりはこの件に関して何といってるんだろう。
哲学マニアの友人が鹿児島にいるのだが、聞いてみたいものだ(自分で文献にあたろうとはしないうつけ者w)


音楽でも絵画でも、「ない」ことを表現志向する時点で、うまくいえないが「すでにズレて」しまっている。
また、その「ないこと」を表現する試みは、人類の誰とても、実現できたためしはないのである(実現できたしても、それをそれと評価する尺度も、存在し得ない)

 

ミロのヴィーナスに両腕が欠損してることが、却ってヴィーナスの自由さを担保しているとの優れた論調を、昔どこかで読んだが、あれとて偶然の産物であって、もともと創作時には腕はあったのだ。


ないものは、目に見えない。なにかを語りかけもないし、干渉もしてこない。
だからないものほど、想像力・創造力を問われるものはない。宗教のシンボルとかね。


なのに、想像力の限界をもって挑んでも、描写はおろか、近づくことさえムリなのである。これでは手の出しようがない、わけがわかならない。


つまり、既存の何がしかで、「ない」という事象を宇宙にピン止めしようとするのは、飛躍するようだがないことの「わけのわからなさ」に対して、謙虚さが足りないように思えるのである。
メビウスの輪の最後を捕まえようと奮闘するようなものである。


<ぼくらの日常と「ないもの」の間の距離>


世間ではないものはスルーしたり、注意を払わなかったりすることで無い状態を飛び越えてしまうが、その「ない」という状態を見つめることで、「ある」ことの、まさに言葉本来の意味での「有り難さ」がわかるときがある。そしてそれによって、仕事も人生も意味を帯びてくるときがある(例:いちばん簡単な体験だと、30秒も息を止めてみればいい。生きるのに大切なものが、すぐに見えてくる)


ない、という圧倒的すら軽々と超越する「意味の真空」は、つねにぼくらのアザーサイドにあって、ぽっかり真っ黒なクチを開けてるように思える。ドーナツの空洞が、深遠に見えるときがないだろうか?
ここに気づいてるヒトは、おそらくは異能なまでに鋭敏なヒトであるが、普通のひとでも、ふと空しさに襲われたりするときがあるのは、そのあたりの感受する力が起動したあかしなのかもしれない。


そう考えると宗教というものは、「ないこと」に対するヒトの本質的で根源的な恐怖みたいなものから身をかわす、人類の代打的な知恵であろう。神が「ないこと」を意味上も意匠上も引きつけておいてくれてるので、ヒトは安心していられるという構図だと考えてる。霊魂も似たようなものかもしれない。


なにかが不在であることを常に心に留めて生活すること。もう少し話を広げると科学や人間の英知ではその存在が感知できないこと、欠落していること、無に近い微弱なものに、僕らは一生取り巻かれてるってことを念頭に置くこと。
これが周囲に対する謙虚さ、言い換えれば正気さを、保てる秘訣であるような気がする・の・だ・が。


<存在しないとみなされていることへの挽歌>


さて冒頭に戻って東京オリンピックのエンブレム問題(佐野クン問題の方ね)を別の角度から問うと、ここで個人的に改めて浮き彫りになったのは、以下のような現代の傾向だと感じている。


それは、はやいもの勝ち、先行者特典、著作権、既得権益等々…には暴力性が潜んでいるってことである。


後から来たひとにアカンベーをしながら追い返すに等しい、こうした硬直的で非情な制度のかずかずが、まちがいなくこの世の構成要素なのだと再確認し、それがぼくらの息苦しさのひとつの原因にもなってると思った。


個人程度までは許容できるこうした制度は、組織的に行われるとその途端に権威に転じ、権威外に対しては威圧的な効果を発揮して新たな抑圧の起点となるのである。


この冷淡さはいわゆる人間性に照らした場合いったい何なのだろうかと、以前から訝っていたが、これはすぐそこにある「ないこと」「欠落してること」の巨大さを前にしながら、それに気づかず、何も見えていないというある種の傲慢さの、きわめて卑小な発想発露(のひとつ)であったのかと今知れた。権利制度とは、えてして横暴さを含んだ定義である。じょうずに生きるとは、自分に有利だと思ってても、やめておく、行使しない、譲るという中にある。腹いっぱい食べられるけど、8分目でよしておくことである。その根底には、自分の有限性を心得ているってことがあるのではないか。


そう考えれば、例えば後進に道をゆずるお年寄りは、自分が不在になることに自覚的であり、まろやかに謙虚で、しなやかな人徳を持っているといえるのである。


この謙虚さを社会の、そして世界の通低基調に据えなければならない。


でなければ、人類は他の生物も巻き込んで、地球規模の大いなる自爆テロをやらかすしかないだろう。

 

存在しないとみなされてるあまたの事象に、明日の希望が隠れている。

 

<了>